ありがとう。(2)
ドアマン、というのだろうか、ロングコートの制服を着ている男性が、タクシーに乗り込む客を手伝っている。
その傍らを、早足で通り過ぎて、エントランスに向かう。
さっきまではもう引き返そうと思っていたのに、大義名分があるだけでこんなにも気分は違う。
俺は“彼女に落とし物を渡す”という口実をかざして、ホテルに入ることができたのだった。
そこは、外の空気感とはまるで違う世界だった。
入った瞬間そこにある大空間に包まれ、幾何学模様の絨毯敷きの床は、足に優しい柔らかな踏み心地だった。
そこはかとなく漂う香りは街で出くわすものとは段違いに穏やかなものだし、明るすぎず暗すぎない照明は無意識にでも落ち着くものだろう。
そして、真正面、ロビーの真ん中に、大きなクリスマスツリー。
ネット情報によると、このホテルのツリーは伝統的に本物のもみの木を使っているそうで、ただ大きいだけの華美なものではなく、どこか温かみのあるツリーだった。
けれど温かみの中にも荘厳な風格を放っていて、さすがは名門ホテルのクリスマスツリーだと感じた。
ただ、今はツリーに見とれてる場合ではないのだ。
俺はすぐさま左、右と見まわして彼女を探した。
けれどどこにもいなくて。
キャメルのコートに黒いリュック。
目印はハッキリしているから、見落とすはずはないと思う。
なのに見当たらないということは、もうエントランスを抜けてしまったのだろうか。
だが、宿泊客でもない俺がエントランスより先に進めないということは、いくら学生の俺でもさすがに常識で分かっている。
どうすることもできないのだろうか……
俺は手の中のキーホルダーをぎゅっと握り締め、立ち往生した。
そのとき、
「こんばんは。何かお困りごとでしょうか?」
とても丁寧な言い回しで声をかけられたのだった。
ネイビーのスーツを着て、髪を上品にまとめている、ホテルの女性スタッフだ。
俺は突然のことにすっかり気が動転してしまい、「え?あ、いや、あの、えっと…」と、聞きようによっては怪しさ満載な返事をしてしまった。
するとこちらの動揺に気を遣ってくれたのか、女性は穏やかに微笑みかけてくれた。
そして、
「もし何かお手伝いできることがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
控えめにそう告げて、俺なんかにもちゃんとしたお辞儀をしてくれて、そのまま離れていこうとしたのだ。
一流ホテルは見た目で客を選ばないと聞いたことがあったが、本当にその通りなんだなと感心する傍らで、”お手伝い” という言葉に、俺はハッと思いついた。
こんな高級ホテルはあまり利用したことがないから、どこまでをスタッフに頼んでいいのか掴めないけれど、このホテルの利用客と思しき人物の落とし物なら、預かってくれるんじゃないだろうか?
そう思い、「あの、」行きかけた女性スタッフを呼び止めた。
「はい」
振り向く仕草も丁寧に、女性スタッフは俺の呼び止めに応じてくれた。
「あの、これを…」
けれど俺は、差し出しかけたキーホルダーを、ふっと手の中に戻していた。
……さっきの彼女が、このホテルの宿泊客とは限らない。
ただ待ち合わせに使っただけかもしれないし、俺みたいに、ちょっとツリーを見に来ただけかもしれない。
だとしたら、このスタッフに預けたところで、彼女の元に届く可能性は低いだろう。
むしろ逆に、落としたことに気付いた彼女が戻ってきた場合、スタッフに預けたせいで見つからないということもあり得るんじゃ……
だったら預けない方がまだいいのかもしれない。
そう判断した俺は、じっと返事を待ってくれている女性スタッフには申し訳ないが、適当に誤魔化すことにした。
「えっと、……そうだ、ツリー!あの、俺、こちらのホテルのツリーを見てみたかったんです」
「さようでございましたか」
まるきりの嘘ではない言い訳は、女性スタッフに不審がられることもなく受け取ってもらえたようだ。
「それで、あの、宿泊客ではないんですけど、しばらく、ここで見させてもらっても構いませんか?もちろん、他の方のご迷惑にはならないように気をつけますから」
宿泊客でもない俺が自由に彼女を探せるのはこのエントランスくらいだ。
ここで待っていれば、また彼女が通りかかるかもしれない…そんな淡い期待を懸けた。
スタッフの女性は「もちろんでございます」と満面の笑みで答えてくれて。
「どうぞごゆっくりご覧くださいませ。もしお写真など御用がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
そう言うと、またお辞儀をして、女性スタッフはフロントデスクの方に歩いて行った。
けれどフロントデスクの中に立っている人たちとは服装が違うから、あの人はコンシェルジュなのかもしれないと、勝手にそう思った。
胸に名札みたいなものがあったけど、そこまでチェックできるほど冷静ではなかったのだから仕方ない。
だが俺は、とにかくホテル側の許可は得られたのだからと、さっきまでとは比べ物にならないくらいの余裕を心に持たせて、彼女を探すことにしたのだった。