ありがとう。(1)
俺が今夜ここを通りかかったのは、本当に、たまたま、ただの偶然だった。
通ってる大学も、一人暮らしをしてるマンションも、去年からはじめたバイト先も、何一つ近くにはない、縁のない街。
近くに大きな駅があるから、来たことがないわけではないものの、オフィスビルやハイブランドのショップが立ち並ぶ通りは、地方の田舎出身の学生の身では、なかなか気安くうろつくことは難しかったのだ。
けれど今日は、大学の先輩から誘われたクリスマスコンパがこの近くで開催されたので、一人帰る道すがら、メディアで話題になってたホテルのクリスマスツリーをちょっと見てみよう…的なノリで足を向けたのだった。
付き合いで断り切れずに参加したコンパは長居する気にもなれず、俺は先輩に迷惑がかからないラインを越えるや否や、差し障りない理由を作って退散してきたわけだ。
正味一時間弱の滞在だった。
スタートが店の関係で夕方5時という早さだったおかげで、まだ6時過ぎである。
この時季なのでもうとっくに日は暮れているが、この時季の必須品であるマスクのおかげで、顔まわりは温かだった。
一人歩きながら、何とはなしにさっきのコンパを思い返す。
向かい側に座った女性達は、みんな不自然なほどに長い睫毛をしていて、指先には幼児用玩具のようにゴチャゴチャした色の爪が並んでいたな。
コンパなのだから、多少は男受けを考えてるのだろうが、そういう派手なメイクや華美な装飾を好む男は結構少数派だと思う。
少なくとも今日俺を誘ってきた先輩は、そういうタイプの女の子のことを毛嫌いしていたから。
もちろん、本人に面と向かっては“かわいいねぇ”とか軽い調子で言ってるけど。
でも裏では散々な言い様だった。
人当たりがよく愛想を振りまくタイプに見られる先輩だけど、本当の先輩は、結構な毒舌家なのだ。
男だって表裏はあるし、聞こえる言葉だけを受け取る女性はその程度の扱いしか受けられないだろう。
……なんて、それこそ表では口に出せないような毒を内心で吐いていると、目当てのホテルが見えてきた。
正面口には幅の広いロータリーがあり、車寄せから既に気品ある雰囲気が漂っている。
俺は、ここまで来ておきながら、その溢れかえる高級感に、つい尻込みしてしまった。
考えてみれば、いや、考えたりなんかしなくても、今日はクリスマスだ。
そんな日に、コンパ仕様に小綺麗にしてるとはいえ、見るからに学生の俺なんかが一人でホテルのエントランスをくぐってもいいものだろうか。
さすがに気後れしてしまう。
やっぱりやめておこうかな…
俺の弱気な一面がそう判断しかけた、そのときだった。
何気なく視線をやっていた先にいた女性のコートのポケットから、何かがすべり落ちた。
同時に、
カチャ――ン
という、硬いもの同士がぶつかる音が聞こえて。
「あの、落ちましたよ!」
俺は反射的にそう声をかけていた。
舗道の上に落ちていたそれを拾いながら。
それは、アニメキャラクターのキーホルダーだった。
それ関係には疎い俺でも、今世間で話題になっている人気アニメの主要キャラだということは分かった。
ネット情報では、プレミアがついて、一部でかなりの高値で取引されているらしい。
そんなレアなグッズなのだから、落としたり失くしたりなんて一大事だ。
俺はすぐに落とし主に渡そうと顔を上げた。
だが、彼女は、俺の呼びかけに足を止めなかったのだ。
「あの!落としましたよ!」
声を張り上げてみるも、彼女は振り返らない。
マスク越しでは声もくぐもってしまうのがもどかしい。
そうしてる間にも、ホテルの正面入口に向かっていく彼女の姿が、どんどん小さくなっていく。
声が届かない距離でもないのに、なぜだか彼女は俺の呼びかけには気付かない。
俺は彼女がホテルに入っていく前になんとか呼び止めたくて、駆け出した。
けれど、
「あの!これ――」
ボリュームを上げた三度めのセリフは、まるで空気に吸い上げられたようにして、途中で消えてしまったのだった。
彼女が何かの拍子に横向いたその顔が、なんとも言えず、悲しそうだったせいだ。
彼女もマスクをしていたので顔は半分しか見えなかったけれど、なんとなく、そんな雰囲気に包まれているように見えてしまった。
思わず、駆け寄る足も止まっていた。
若い、俺とそう変わらない年齢の女性だった。
キャメルのロングコートの裾から濃いブラウンのスカートが覗き、背中には黒い小ぶりのリュック。
品はあるが、決して高級感溢れる服装なんかではなく、うちの大学内でも見かけるような女の子の服装だ。
そんな彼女が、たった一人で、このホテルに入っていったことに、ちょっとだけ驚いてしまう。
宿泊客だろうか。クリスマスだから、もしかしたら中で恋人や友達と待ち合わせなのかもしれない。
…いや、そんなことはどうでもいい。
とにかく早くこのキーホルダーを返してやるべきだ。
ふいに落ちてきた彼女への興味は頭の端に追いやり、俺は手に持っているアニメのキャラクターを見やった。
きっと、貴重な物だろう。
そう思った俺は、それを握りしめて、ホテルに進んだのだった。