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おかえり。





「おかえりなさいませ」



そう言って、頭を下げて迎える私に、ほとんどのお客さまは、笑顔を見せてくれる。


なかには、何かお困りごとで心配顔のお客さまもいらっしゃるけど、私がお声がけして、解決できたら、「ありがとう」と笑顔になってくれる。


その瞬間、私は、幸せを感じるのだ。


ホテルコンシェルジュにとって、お客さまの笑顔は、

なによりのエネルギーなのだから――――――――





※※※





サンタクロースが忙しなく働いている姿を想像してしまうほど、クリスマスが数日後にまで近付き、街全体が浮き足だっているある夜、私は、ロビーに飾られたクリスマスツリーのオーナメントと格闘していた。


間もなく日付が変わろうかという頃、人気がなくなったのを見計らい、脚立を持ってきて数段昇る。


ツリー上部のオーナメントが歪んでいるのを発見して、ずっと気になっていたのだ。

あまりに気になったものだから、誰に頼むでもなく、自分で脚立を取りに行ったのだった。



深い緑によく映えるゴールドのオーナメントを、そっと枝から外して、また付けると、まっすぐにぶら下がり、可愛らしく揺れた。

それだけで満足した私は、脚立に足をかけたまま、つい、顔が綻んでしまう。


すると、


「嬉しそうな顔だね」


下の方から、ちょっと低めの男の人の声がした。


すぐにその声に顔を向けると、そこには、スリーピーススーツ姿の長身の男性が立っていた。

片腕にはネイビーのコートとビジネスバッグを携えて。


常連客でいらっしゃる渋谷(しぶや)さまが、わたしを見上げて楽しそうに笑っていたのだ。



わたしは慌てて脚立から降りると、


「渋谷さま、おかえりなさいませ」


身なりを正して、こんな深夜までお仕事に出られていた渋谷さまにお出迎えの挨拶をする。


「うん、ただいま」


渋谷さまはいつもと同じように、品のいい仕草で笑い返してくれた。



いわゆる高級ホテルと位置付けされている当ホテルに長期滞在されている渋谷さまは、多岐に渡る企業を纏めているグループの会長をお父様にもつ、世間でいうところの御曹司だった。


ご自身もいくつかの会社を任されているとかで、国内、海外を問わず、常に出張しているようなものだと、はじめてお会いした頃に苦笑混じりに話してくれたのを覚えている。



正真正銘、誰もが認めるセレブリティにもかかわらず、ホテルスタッフにも気さくにお声をかけてくださったり、顔見知りのスタッフの名前を覚えてくださったりと、気取らない方だった。




「渋谷さまお一人でいらっしゃいますか?」


「うん、もう遅いから秘書も帰らせたんだ。麻由(まゆ)さんは、今日は夜勤ですか?」


深夜の仕事帰りにもかかわらず、疲れなど微塵も感じさせないで優しく尋ねた渋谷さま。

私のことを下の名前で呼ぶのはいつものことだ。



「はい。さようでございます。何かご用がございましたらお申し付けくださいませ」


私がコンシェルジュらしく受け答えすると、渋谷さまは少し思案するように右手を顎に置いた。


「……じゃあ、明後日のディナーを一緒にお願いできるかな」


渋谷さまの答えに、私はドキリと心臓が大きく脈打った。



「明後日……クリスマスイブでございますか?」


かすかな動揺をどうにか秘し抑えて訊き返す。

渋谷さまは意味深長にフッと息を吐いた。



「確か一昨日も同じ話をしたような気がするけど、麻由さんが忘れてるならもう一度言うよ。クリスマスイブ、一緒に食事しませんか」


首を傾げるように少し倒し、じっと私を見つめて、渋谷さまはそう誘ってきた。


「……申し訳ございません、以前もお伝えしたかと存じますが、その日は勤務になっておりまして…」


「でも遅番だよね?午後10時にはあがれると聞いてるけど?」


どこから入手したのか、渋谷さまはわたしのシフト情報を把握されていて、思わず答えに詰まってしまう。


「それは、そうなんですが……」


「だったら、お仕事終わってからで構いませんから、夕食に付き合っていただけませんか?」



渋谷さまから食事のお誘いをいただくのは、これがはじめてではなかった。

特にクリスマスシーズンに入ってからは何度か声をかけていただいて、でも、コンシェルジュという立場上、お客さまとプライベートで会うことは好ましくないので、丁重にお断りさせていただいていたのだ。


今年の私のシフトは、イブが遅番で、クリスマスは夜勤。

クリスマスは無理だけど、イブの夜なら空いている。


「……ですが、この時季はどの部署も人手が足りませんので、遅番といっても何時に終われるかは分かりませんし……」


お誘いいただいて光栄ですが……


そう言って、控えめに遠慮申し上げたけれど、渋谷さまは口元に笑みを乗せたまま、


「何時になっても構いませんよ」


そう返してきた。



私も仕事の必須アイテムである穏やかな笑顔を保ってはいたものの、その裏では焦りと動揺が大きくなっていくのを感じていた。


他のお客さまからもこんな風にお誘いをいただくことはあったけれど、遠回しにお断りすれば、皆さまそれ以上は積極的にならなかったのに……


渋谷さまのような方ははじめてで、私はコンシェルジュという立ち位置を忘れてドギマギしてしまう。


……いくら誘われても、コンシェルジュの私がお客さまとお付き合いなんて、無理だから………


そう思ったとたん、ズキン、と体の奥に痛みが走った。


すると、まるでその痛みを察知したかのように、渋谷さまは、ふいっと視線を外した。


「申し訳ない。これ以上はお仕事の邪魔ですよね。では、僕はもう部屋に戻りますので」


最後まで品よく、上質の男性のセリフを残して踵をかえした渋谷さまだったけれど、数歩進んでから、くるりと振り返る。

そして、


「本当に何時になっても構わないんです。麻由さんが僕の部屋に来てくださるなら、24時間いつでも大歓迎ですから」


今度は、チャーミングに目を細めて言った。


その表情が、とても可愛らしくて、私は一瞬だけ、仕事を忘れて渋谷さまを見つめてしまう――――


けれど、渋谷さまは私の返事など待つつもりもなかったようで、またすぐに背を向けて歩きだした。



「あ……おやすみなさいませ」


慌てて頭を下げてお見送りした私に、渋谷さまは「おやすみ」と言いながら軽く手をあげ、エレベーターホールに消えていった。


私は頭をあげ、目に入ったその後ろ姿に、ふいに、もどかしさが溢れてきそうになった。


慣れたように私を誘ってくる渋谷さま。

ずっと、ただ社交辞令の延長なのだと思っていた。

けれど最近は、ときどき、渋谷さまの気持ちを感じてしまうのだ。


……だからこそ、容易く答えられなくなっていた。


だって、もしかしたら私の片想いじゃないのかもしれない……なんて、そんな考えは、仕事には邪魔でしかなかったから。





渋谷さまにはじめてお目にかかったのは、もう一年も前のことだった。


ある企業の創立記念パーティーでレストルームをご案内したのが最初の出会いだと記憶している。


一目で、”違い” を感じさせる人だった。

外見も、立ち居振舞いも、身に付けているものすべてが別格だと感じた。


けれど、少しお話をしてくださると、その飾らない性格が素敵で、私だけでなく、関わったホテルのスタッフがみんな渋谷さまに好印象を抱いていたほどだった。


そうは思っても、渋谷さまは他の外資系ホテルを常宿になさってると聞いていたので、今後お会いする機会はないのだろう……誰もが密やかに残念がっていた。


ところが、翌月、渋谷さまが秘書の方とおみえになったのだ。

理由をお伺いはしなかったけれど、常宿を私達のホテルに移したいということだった。

それ以後、月の三分の二は海外や地方に、残り三分の一を、私達のホテルで過ごされることになった。


ルックスよし、家柄よし、性格よし、いくら探しても欠点など見つからない渋谷さまに、ホテルスタッフにも他のお客さまにもファンは増えるばかりだった。


ところがある時から、渋谷さまは私を食事に誘ってくださるようになった。

海外生活も長い方なので、女性相手に食事に誘うのは礼儀のひとつなのだろうと、こちらも曖昧に返事していたのだけど、さすがに、その熱心さをリップサービスで済ませるには無理があるのでは……と思いはじめたときには、


………もう、私は、自分の想いを自覚していた。


つまり、すでに手遅れになっていたのだ。



ホテル従業員がお客さまと恋愛してはいけないという、明確なルールはない。

けれど私は、ホテルで働きはじめたとき、ここでは仕事に徹すると決めたのだ。


なのに、渋谷さまとの出会いは、私の決心を大きく揺さぶってくる。



――――イブまで、あと二日。



渋谷さまのお誘いを断るつもりでいるくせに、私は、はっきりとしたNOを告げられずにいたのだった。


一晩中、仕事する傍ら、頭では渋谷さまとクリスマスイブのことを考えていた。


今までは失礼にならない範囲で返事をとどめていたけれど、もう、イブは明日にまで迫ってきている。


………一度、きちんとしなくては………



私は、心の中から自分の気持ちを追い出すしかないなと、意を決したのだった。





「麻由さん、おはよう。朝からお疲れさま」


翌朝、たいていのお客さまがまだ眠られたり、朝食をとられてる刻、渋谷さまはもうきっちりとスーツを着こなし、コンシェルジュデスクに現れた。



「おはようございます、渋谷さま。昨夜はゆっくりお休みになられましたか?」


私は立ち上がって挨拶を返す。

すると渋谷さまがビジネスバッグを掲げたので、私はそれを両手でお預かりした。

渋谷さまは腕に掛けていたコートに袖を通しながら、


「麻由さんがイブの件でいい返事をくれないから、あまり眠れなかったかもしれないな」


ユーモア混じりに答えた。


「それは……」


いつもなら、ここは笑顔で応じて、婉曲的に断って終わってしまうのだけど、今朝の私には、一晩がかりで固めた決心があるのだ。


「………大変申し訳ございません。やはり私は渋谷さまとお食事をさせていただくわけには参りません」



それは、予め思い並べていたセリフではなかった。

もっと丁寧な返答を考えていたのに、いざ渋谷さまのお顔を前にすると、平常心が行方不明になってしまったのだ。

けれど、一息でそう告げた私が深く頭を下げると、渋谷さまは「そう……」と、嘆息した。


そして頭を戻した私に、


「理由を、伺ってもいいですか」


穏やかに尋ねてきた。


私は、急に仕事になったとか、友達と予定が入ったとか、適当な言い訳も過ったけれど、渋谷さまに嘘を吐くのは気が引けてしまい、正直に話すことにした。



「私は……ホテルコンシェルジュです。この仕事に就くとき、お客さまとは個人的なお付き合いはしないと決めました。ですから、」


「僕は ”お客さま” じゃありませんよ」


「……と申しますと?」


「僕は、渋谷崇裕(たかひろ)という、ただの男です。たまたま、こちらのホテルに宿泊しているだけです」



渋谷さまは、さっきまでの穏やかな表情とはうって変わり、その顔からは色が消えていた。



「……それは大変失礼いたしました。ですが、やはり渋谷さまは私にとっては ”お客さま” でもいらっしゃいますし、それに、渋谷さまは私のような者がご一緒できる方ではないかと……」


見たことのない渋谷さまの様子に戸惑いつつ、それでもどうにか納得していただこうと話を続けたけれど、渋谷さまはさらに表情を凍らせる。


「それはどういう意味?」


「私は、ただのホテル従業員です。ですが渋谷さまは、世界をまたにかける企業を動かすお立場におられます」


「つまり、身分が違うとか、住む世界が違うと……そう、仰りたいんですか?」


渋谷さまが冷然と、確かめるように尋ねた。


私はその冷えた弁舌に、心臓までもが凍えそうになったけれど、堪えて、答えた。



「………クリスマスにお誘いをいただいたことは、大変光栄に思…」


「僕達がはじめて会った日を覚えてますか?」


突然、渋谷さまが私の話を切って問いかける。

語尾を奪われた私は渋谷さまの真意を探れずに、不躾に見つめ返してしまった。



「パーティーのとき、でしょうか……?」


忘れるはずもないけれど、私は、確認するように答えた。


「ええ。はじめて言葉を交わしたのは、その日で間違いありません。でも僕は、以前、何度かこのホテルであなたを見かけたことがあったんです」


それは初耳だった。


「僕の贔屓のホテルは他にありましたけど、会食でこちらを利用させていただくこともありましたからね。あなたは、いつもお客さまをあたたかく出迎えてらした。『こんにちは』『おかえりなさいませ』とね。ある時、僕がコンシェルジュデスクに用があって出向くと、あなたの前に女性がいた。急ぎの用でもなかったから待ちながら様子を窺っていると、あなたは、手話でその女性と会話をしてらした。女性は何か困っていたようだったけど、無事解決したらしく、何度も頭を下げていました。でも僕は、その女性よりも、その時のあなたの顔が、忘れられなかった。とても幸せそうに笑ってらしたんです」



いつ渋谷さまに見られていたのかは分からないけれど、そのお客さまのことは存じ上げている。

そのお客さまのおかげで、私の手話も上達したのだ。



「そのあと、他のコンシェルジュに用を頼んだので、あなたのことをそれとなく伺いました。そのコンシェルジュはあなたの後輩で、あなたのことを、”ボーダーレスな人” と言ってました。すべてのお客さまに、平等に。ステイタスや、身なりでサービスを変えるようなことはしない、どんな方にも『おかえりなさいませ』と笑顔でお出迎えすることを信念にしている、コンシェルジュ中のコンシェルジュだと。僕はそれを聞いて、あなたの『おかえりなさいませ』を聞いてみたくなったんだ。だから常宿を移した。でもそのうち、今度は逆に、麻由さん、あなたを出迎えてあげたくなったんだ。いつも『おかえりなさいませ』と僕を癒してくれる麻由さんを、僕も癒して差し上げたい……そう思ったんです」


はじめて打ち明けられる話は、私の頬を熱くさせた。


けれど、私がお預かりしていたビジネスバッグを手に取った渋谷さまは、私と目を合わせると、悲しそうに眉を寄せた。

そして、


「麻由さんの ”ボーダーレス” なところに惹かれたのに、その麻由さんが、僕との間に大きなボーダーを作っていただなんて、……残念です」


沈んだ声で、でもはっきりと、そう告げたのだった。


そしてそのままコートを翻して出ていく渋谷さまに、私は、「いってらっしゃいませ……」としか伝えられなかった。




――――残念です。



その言葉が、ひどく私の胸を騒がせていた………





翌24日。クリスマスイブ。


私は遅番で、午後からの勤務だった。


昨日の朝以来渋谷さまとはお会いしておらず、結局、今日の食事の件も、私はお断りのセリフを述べたけれど渋谷さまには了承されていない、そんな状態のままでイブ当日を迎えていた。



そして午後、私がコンシェルジュデスクに向かうと、ロビーにあるクリスマスツリーの前に、その人の姿はあった。


いつもよりフォーマル感があるスーツに身を包んでいて、後ろ姿なのに、人目をひく。

これからパーティーにでも出席されるのだろうか。


私は渋谷さまにお声をかけるか迷った。


けれど、その渋谷さまの足元に、小さな男の子がぶつかってしまったのだ。

尻餅をついた男の子に、私は無意識のうちに駆け寄っていた。



「お怪我はございませんか?」


渋谷さまと男の子、両方に話しかけながら、膝をついて男の子に視線を合わせた。


渋谷さまも男の子の顔をのぞきこむように身を屈められていて、その綺麗な顔が、私にも近付いてきた。


「僕はなんともないけど、きみは大丈夫だったかい?」


優しく男の子に尋ねる渋谷さま。

その声が思った以上近くに聞こえて、耳が熱くなるようだった。


男の子はぱっと立ち上がると、


「ぶつかってごめんなさい!」


溌剌と言った。


小学校に入る前くらいの小さな男の子だったけれど、きちんとした格好をしていて、襟には可愛らしいタイが結ばれている。

きっとクリスマスディナーのお客さまだろう。


私は少し崩れた男の子のタイを整えて、


「ケガはないですか?」


と訊いた。


「うん!ふかふかのカーペットだから、転んでも痛くないよ!」


得意気に答える男の子に、私は見覚えがあった。

年に数回ご宿泊されているご家族のお子さまだ。



「そんなに急いでクリスマスツリーを見たかったのかい?」


渋谷さまは男の子の頭をぽんぽんと柔らかく叩いた。


男の子はパッと顔を上向かせると、「うん!」と元気よく答えた。


「あのね、ぼく、この前このクリスマスツリーにお願いごとしたら、叶えてくれたんだ!だから、今日はありがとうを言いにきたの!」


「へぇ、このツリーは願いを叶えてくれるんだ?」


「うん!パパがはやく日本に帰ってきますようにってお願いしたら、本当にパパが日本に引っ越してくるんだ」


男の子の上機嫌は止まらない。

顔じゅう、体じゅうから ”嬉しい” を放っていた。



「それはよかったね」


渋谷さまがにっこり笑うと、男の子は「うん!」と笑い返した。

そして、


「お兄さんも何かお願いしたら?」


と言ったのだ。


「僕が?」


「うん。だってお姉さんはホテルの人だからもうお願いしてるかもしれないけど、お兄さんはまだしてないでしょ?クリスマスツリーは明日までだよ?」


「そうだね………じゃあ、僕もお願いしようかな」


体を起こしてツリーを仰いだ渋谷さまにつられるように、男の子も見上げる。


「何てお願いするの?」


「そうだな、大切な人と一緒にクリスマスイブを過ごせますように……かな」


言いながら、ちらりと視線を流されて、私はビクッとした。


「クリスマスイブって、今日?」


「そうだね」


「じゃあ、お兄さんのお願いが叶うように、ぼくもお祈りしてるよ!」


男の子は満面の笑みでそう言って、ツリーに向かい両手を組んで小声で何かを呟いた。

それから、探しにきた両親とレストランに向かったのだった。




クリスマスツリーの前に残されたのは、私と、渋谷さま。


イブといっても、チェックインで混み合う時刻は過ぎているので、お客さまもまばらだった。


けれど二人きりのぎこちない空気に包まれて、私は「それでは失礼いたします」とすぐに立ち去ろうとした。

だがそのとき、


「今日は ”行ってらっしゃいませ” とは言ってくださらないんですか?」


いつもよりワントーン落ちた渋谷さまの声に、呼び止められてしまう。


「……これは大変失礼いたしました。渋谷さま、行ってらっしゃいませ」


私はゆっくりとお辞儀をしながら言ったのだけど、渋谷さまからは、想像もしてなかった言葉が返ってきたのだった。



「あなたが好きです。麻由さん」




頭を上げると、怖いくらいに真剣な瞳に、心が羽交い締めにされる。

私はただただ、その瞳を見つめるしかできなかった。



「……好きですと、自分の気持ちをちゃんとあなたに伝えてなかったことに気が付きましたので」


そう言うと、渋谷さまの相好がふっと、少しやわらいだ。

それが照れているようにも見えたのは、気のせいだろうか。


まるで石にでもされたかのように渋谷さまを見返していた私は、『好きです』と言われたことを、じわじわと感じはじめて、脈が、鼓動が、引き止める間もなく速く、とても速くなっていく。



「それから……昨日は、失礼なことを言って申し訳ありませんでした」


昨日……。残念ですと言われたことだろうか。


「それでも、昨日お話ししたことは本当の気持ちです。いつもあたたかく迎えてくださる麻由さんを、僕も出迎えて差し上げるような、そんな関係になりたいと願っています。今も」


「渋谷さま……」


私をまっすぐ見つめていた渋谷さまが、スッと、その眼差しをクリスマスツリーに向けた。



「……ですが、あなたを困らせるのは本意ではありません。自分の気持ちをすぐに無くしてしまうことは難しいかもしれませんが、あなたを求めることは、もうやめようと思います。だけど……せめて明日までは、あなたを待たせてくださいませんか?今夜一晩あなたを待って、もし、ひとりで明日のクリスマスの朝を迎えたなら、もう、僕は、あなたのことを諦めます」


ツリーを見上げて、そう言い切った渋谷さま。


その横顔は、手を伸ばせばすぐに触れられるのに、今の私にはそれは叶わない。


私は自分を戒めるように指をぎゅっと握っていた。



「………承知、いたしました」


ポソリと告げた答えに、渋谷さまは寂しそうに口角を上げた。


「本当は、まだ少しは期待を残しているんですけどね。お仕事を終えたあなたを、僕の部屋で出迎えたい……ってね。このツリーへの願いごとが叶うといいのですが……」


軽く口にした本心に、私は胸を締め上げられる。


………明日になれば、私と渋谷さまは本当にただのお客さまとホテルコンシェルジュになるのだ。


それは私が望んだことなのに、こんなにも苦しくなるなんて…………



そんな内心を抱えながら、私は、イブの華やかな街に出ていかれる渋谷さまを、コンシェルジュらしく、頭を下げてお見送りしたのだった。





『もし、ひとりで明日のクリスマスの朝を迎えたなら、もう、僕はあなたのことを諦めます―――』



渋谷さまの言葉が、一日中、頭から離れなかった。




イブの今日は夕方から目のまわるような忙しさで、お客さまと接しているときに他のことを考えてる余裕なんてないはずなのに、それでも渋谷さまのことが浮かんでしまうのだ。


これではコンシェルジュ失格だわ……


自分自身に落胆してしまうけれど、それが、私の本心なのだろうなと思った。



明日になれば……


何度か過りそうになった迷いを振り払うようにして、私は一日の仕事を終えたのだった。



私はお見かけしてないけれど、ロッカールームで一緒になった同僚の話では、渋谷さまは21時頃に戻られたそうだ。

だからといって、どうするわけでもないのだけど。


私服に着替えた私は、無性にクリスマスツリーを見たくなって、帰る前にロビーに足を向けた。


明日が終わればすぐに撤去されてしまうツリーは、ゆっくり眺められるのは今夜が最後なのだ。


遅い時間帯ということもあって、幸いロビーに人影はまばらだった。


私は同僚のスタッフに軽く目配せして、ツリーの正面に立つ。


ゴールドの品がいいオーナメント達がキラキラとツリーに咲き誇っていて、純粋に、綺麗だなと思った。


あの男の子みたいに願い事を預けることはしないけれど、今年も私達の心を癒してくれてありがとう、そんな気持ちにはなった。



どれくらい見上げていただろう。


もうそろそろ行かなくちゃ………



ツリーと、おそらくお部屋で待ってらっしゃる渋谷さまに後ろ髪ひかれる想いを断ち切ろうと、踵をかえした、

そのとき――――


―――パサッ



ツリーの枝が、揺れたような気がした。



「え……?」


音がした方に顔を向けたけれど、何もない。


ただ、私の足元にゴールドのオーナメントが落ちていたのだった。


……これが落ちる音だったのかな。


もしかしたら、私が付け直したオーナメントかもしれない。

付け方が悪かったのかな……


私はしゃがんで、そっと、それに手を伸ばした。

キラキラと、硬質な輝きを持っているのに、それは、ひどく軽かった。


意外だな…

そう感じた瞬間、パッと、頭に渋谷さまのことが浮かんだ。


渋谷さまも、華やかなルックスとバックグラウンドをお持ちだけれど、わたしの『おかえりなさいませ』という、ただの出迎えの言葉に癒されると仰ってくださった。


……そうよ、このオーナメントみたいに、実際に触ってみないと分からないことだってあるのよ。


私は、渋谷さまのいったい何に触ったというの?


まだ、何にも触れてなんかいない。


なのに、”お客さま” という枠に押し込んで、自分のセオリーを守るあまり、自分の気持ちすらを排除して………



本当にこれでいいの?



自分にそう問いかけたときには、もう、足は動きだしていた――――




ちょうどとまっていたエレベーターに乗り込み、とっくに頭に入っているフロアのボタンを押す。

今回に限って、専用キーがないとエレベーターすら停止しないエグゼクティブフロアではなくて助かった。

勤務を終えた今は、従業員の私でもエグゼクティブフロアに足を踏み入れることはできないから。


私服でホテルのエレベーターに乗るなんて久しぶりだった。


でも、毎日仕事中使っているというのに、今はずいぶん乗り心地が違う。


ドキドキと、焦燥と、泣きたくなるほどの好きという気持ちとが、私を取り囲んでいた。


けれど、ふと視線をやった手の先に、ゴールドのオーナメントを見つけ、慌てて持ってきてしまったことに気が付くと、ちょっと笑ってしまう。



………渋谷さまに、なんて言おう。


咄嗟に勢いでここまで来てしまったものの、一人きりのエレベーターの中の静謐は、不安を生んでしまう。


散々断っていたくせに、ギリギリになって翻すなんてと、呆れられないだろうか。

ちゃんと、迎え入れてくれるだろうか………


不安は次々に浮かんではくるけど、それと同じだけ、いやそれ以上に、

胸が急いて急いて、はやく、会いたくてしかたない。

好きな人に。



私はその唯一の感情に押し出されるようにしてエレベーターから降り、ジュニアスイートの彼の部屋の前で立ち止まった。


……大丈夫。渋谷さまは明日の朝までは待つと仰ってたもの。

私が、ちゃんと自分の気持ちをお伝えしたら、きっと大丈夫。



………たとえ大丈夫じゃなかったとしても、せめて素直な気持ちだけはお伝えしよう。


渋谷さまを、一人の男性として、心のままに向き合おう。



意を決した私は、呼び鈴を鳴らした。




少しの間があってから、慌ててロックを外す気配が。


そして扉が開かれて、


渋谷さまの長身のシルエットが目の前に現れたと思ったら――――――



「麻由さん………」



体ごとぜんぶ、抱きしめられていた。



「麻由さん……」


その、今にも泣き出しそうな声に、私はホッとしていた。


………ああ、間に合ったのだと。



けれどその安堵と引き換えに、渋谷さまに何て言おうかと、頭の中で考えていたことが一気に吹き飛んでいってしまう。


そして次の瞬間、ロマンティックでも、クリスマスっぽくもない、容易いセリフが口を突いて出ていたのだった。



「………ただいま、です」



もっとそれらしいことが言えただろうにと恥ずかしかったけれど、渋谷さまがこの上なく幸せそうに笑ってくれたから、それはそれでよかったのかもしれない。



それから渋谷さまは、この上ない幸せな顔をさらに幸せに染めて、ゆっくりと、噛み締めるように言ってくれたのだった―――――




「おかえり」










おかえり。(完)















































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