ごちそうさまでした。(6)
それを聞いた男性は、とたんに神妙な声色に変わる。
「そうでしたか……。それは、お辛いことを思い出させてしまいましたね」
「ああ、いえ………」
私は夫から渡されたハンカチで涙を吸い取り、鼻をすすりながら顔を上げた。
「もう何年も前のことですから、気になさらないでください」
嘘ではなく、強がりでもない笑顔を見せたけれど、男性は丁寧な仕草で首を振った。
「ですが、大切な人との別れは何年経っても悲しみが消えることはありませんから………」
しみじみと述べた男性。
もしかしたらこの人も、どなたか大切な人を亡くしているのかもしれない。
「………そうですね。母を亡くした悲しみが完全に消えることはありませんね。でも………実は、私達はこのホテルで結婚式を挙げたんですが、それは母の希望だったんです」
「そうだったんですか。お母様の希望を叶えられたなんて、素敵です」
「ありがとうございます。もちろん、母にウェディングドレス姿を見てもらいたかったなとか、母にも結婚を祝って欲しかったなとか、そんなこと思いはじめたらきりがないですけど、私達母娘はよくおしゃべりする母娘でしたから、今も私の暮らしの中や私自身の中に、母の存在が色濃く残ってるんですよね。だから普段は、あまり悲しみに暮れることはないんです。でも時々、ふとした瞬間に母の不在を思い知って、今みたいに泣いてしまうこともあったりして……だから驚かせてしまって、すみませんでした。もう大丈夫です」
私は本心からそう告げた。
すると隣の夫が、私の肩にそっと手を乗せて、私の言葉を後押ししてくれたのだ。
「妻はいつも穏やかで、だけど明るくておしゃべりなしっかり者なんですが、感受性が豊かなところもあるんです。でも感情が溢れかえりそうなときでさえ、相手や周りのことを優先して考える優しい人でもあります。ですから、どうかお気になさらないでください。その方が妻も気楽にこのあとのディナーを楽しめるはずですから」
そう言って、私に微笑みかけてくる夫に、私は今さらながらにドクンと心臓が跳ねてしまった。
そしてその反動で、まるで昨日のすれ違いがほんの些細なことのように、その彩りを変えていく………
傷付くとか傷付けるとか、そんなことで話し合いを避けるなんて、もったいないと気付いたから。
夫はこんなにも私のことを知ってくれているし、理解もしてくれていて、そして何より、私のことをこんなにも想ってくれているのだから。
ちゃんと話そう。
例えそれで傷付いたり傷付けたとしても、その傷を手当するために、また話し合おう。
お互いを想い合ったがゆえの沈黙もいいかもしれないけど、今みたいに言葉にすることで伝わる想いもあるのだから。
何度でも、それができる限り、何度でも、お互いのことを思い遣りながら、自分の想いも伝え合おう。
それができるのは、生きている間だけなのだから。
だから、帰ったら、これからのことを話し合おう。
夫が昨日どういう想いでああ言ったのか、私がどんな想いであんな態度になってしまったのか、ちゃんと、思いやりを持って、意見のぶつけ合いをしよう。
もしかしたらそれを喧嘩と呼ぶのかもしれないけど、だとしたら、私達は穏やかに、優しく喧嘩をしよう。
そう思ったとき、何気なく夫と目が合った。
夫も、今私と同じことを考えているのかもしれない。
そんなふうに思えることが嬉しかった。
そうしていると、レストランからスタッフの女性がやって来て、席の準備が整ったことを知らせたのだった。
「大変お待たせいたしまして申し訳ございませんでした」と言うスタッフに、男性は「大丈夫ですよ」と、品よく、そしていかにも常連客といった慣れた態度で応じていた。
スタッフの案内でレストランに入っていくと、クリスマスの凝った装飾が店内のいたるところ、テーブルの上にも細かく施されていて、さらにクリスマスモードが増していく。
私は夫とのことにもポジティブな気持ちになれたおかげか、これからはじまるクリスマスディナーが思いきり楽しみになっていた。
この男性との食事は、楽しい以上に有意義な時間になる気もしていた。
ほとんど満席に近い店内を、スタッフはどんどん奥に入っていって、そのすぐ後ろに男性、そして夫と私が続いた。
すれ違う他のスタッフからも丁寧に迎えられ、気分は最高潮になるも、本当は私達は予約できていなかったのになんだかすみません……という気持ちも過ったりする。
それがささやかな不安を生んだのか、まだ奥に進んでいくスタッフに、そんな奥にテーブルがあるのだろうかと疑ってしまいそうになる。
けれど、大きくて重厚な扉の前でスタッフが立ち止まったのを見て、私はひょっとして……と、つい夫を見上げてしまった。
夫も同じことを思ったようで、私と顔を合わせ、二人してちょっとした挙動不審になってしまう。
女性スタッフは一旦振り返り、私達に「こちらでございます」と告げ、それから扉を開いていった。
厳かに開いた扉の向こうは、クラシカルな内装で、落ち着く感じのちょうどいい広さの個室になっていて、その中央には丸いテーブルと三脚の椅子、テーブルの上には三人分のセットが用意されていた。
「個室だったんですか?」
私が男性に驚きをぶつけると、男性は「そうですよ?」と慣れた足取りで個室に入っていく。
女性スタッフは私と夫ににっこり微笑み、「お部屋代のことはお気になさらず、どうぞお料理をお楽しみくださいませ」と言った。
まるで心の中を見透かされてしまったようで、ちょっと恥ずかしい………
だけど、せっかくの男性のご厚意を無駄にはしたくない。
私はポジティブに思い直し、夫のエスコートを受けて席に着いた。
先に座っていた男性は、そんな私達の姿に目を細めていた。
「本当に仲良しご夫婦ですね」
そう褒められて、素直に「ありがとうございます」と返した夫に、私は嬉しくなった。
やがて、先ほどのスタッフがメニューを持って戻ってくる。
私、夫、の順にメニューを渡していくが、男性は「僕は必要ありませんよ」とメニューを断った。
常連なだけあって、オーダーするメニューも決まっているのだろう。
スタッフの女性は一瞬躊躇ったようにも見えたけれど、すぐに一人分のメニューを抱えたまま、今夜のディナーについて説明をはじめた。
「本日はコースのみとなっております。メインはこちらの三種類からお選びくださいませ。もしお飲み物がもうお決まりでしたら今お伺いしますが、いかがいたしましょうか?」
そう訊かれて、私と夫は揃って男性を窺った。
今日この席を予約していたのは男性なのだから、まずは男性に意見を求めなくては。
すると男性が「僕は料理と一緒に頼みます」と答えたので、夫も「じゃあ、俺達も料理と一緒に決めます」とスタッフに告げた。
それを受けて、スタッフの女性は「かしこまりました」と、部屋を出ていった。
そして、私達三人だけになるや否や、おもむろに男性が席を立ったのだ。
「それじゃ、僕はもう行くから、あとはお二人でどうぞ」




