ごちそうさまでした。(3)
滅多にかかってこない昼日中の夫からの電話は、ホテルディナーへのお誘いだった。
そのホテルは私達が結婚式を挙げた場所で、日本でも有数の老舗の名門ホテルである。
国内だけでなく世界中の著名人が定宿にしており、その一流のホスピタリティはあらゆる媒体で評価されている。
当時、このホテルで結婚式を挙げると知らせると、ほとんどの人はその存在を知っていて、「よく押さえられたね」などと言われて誇らしかったものだ。
何もこのホテルの知名度やラグジュアリー感目当てで選んだわけではなかったけれど、率直に、褒められて嫌な気はしなかった。
そんな、ただでさえ人気で予約も取りにくいと噂のホテルは、クリスマスシーズンになるとなおさらだった。
ホテル正面玄関入ってすぐのエントランスロビーに、毎年大きなクリスマスツリーが登場するのだ。
そのツリーは本物のもみの木が使われており、眩いばかりのライトやオーナメントに飾られたツリーを見るためにホテルに立ち寄る人も多いという。
だからもちろん、この時期のディナーは予約開始とともに争奪戦となるわけで、12月に結婚記念日がある私達も仕事の日程を調整して何度か予約を試みてみたものの、一度として取れたことはなかった。
そういった経緯もあるから、いきなり当日に予約できるなんてあり得ない、ということはわかっている。
だったら、彼は、いったいいつ予約していたのだろう?
ともかく、電話の彼は、今夜ディナーを予約してるから、19時にホテルで待ち合わせしようと言ってきたのである。
驚く私に、今は時間がないから詳しいことはまたあとでと言い、通話は切れてしまった。
まるで突風のように吹き去っていった彼からの電話に、私は呆気に取られてリビングで立ち尽くしていた。
私達、喧嘩…まではいかなくても、ぎくしゃくしていたはずよね?
海外赴任の話は棚上げなの?
だいたい、本当にわからないんだけど、ディナーなんていつ予約してたの?
私に相談もなく?サプライズで?
だとしても、こんな当日になっていきなり言い出すなんて………
ネガティブ方向に考えかけてしまうも、私ははたと思いとどまった。
…………もしかして、昨日誘うつもりが、私が嫌な態度をとったから言い出せなかった?
そう思うや否や、俄然、彼に申し訳ない気持ちが噴き出してくる。
どうしよう…………焦りはじめる自分に、私は、いつも塾の生徒達に言い聞かせている言葉で窘めた。
「……焦っちゃダメ。焦ってもいい結果になるとは限らない。だったらまずは落ち着いて。時間は有限なんだから、ゆっくり、確実に、今、自分のできることを…………」
そうして昨夜の態度を猛烈に悔いながらも私が次にとった行動は、今夜のディナーに着ていく服選びだった。
※
お気に入りのワンピースに着替えた私は、普段はあまり袖を通さないよそ行き用のコートを羽織り、家を出た。
ちょっと早めにホテルに着いたので、せっかくならホテル周辺のクリスマスデコレーションを見てまわろうかと思ったけれど、混雑と寒さが想像以上で、早急にホテルに向かった。
ホテルに一歩足を踏み入れると、外の賑わいとはまた違った雰囲気のスペシャル感あふれる賑わいが広がっていた。
スーツケースを携えている宿泊客、何かのパーティーの出席者と思しきドレスアップした女性達、デート中だと一目でわかるカップル、そしておそらくホテルのクリスマスデコレーション目当ての人々………誰もが楽しそうで、不機嫌な表情はどこにも見当たらない。
外の寒さが別世界のような、それはそれはあたたかな世界に、私もそっと入り込んでいった。
するとすぐに、エントランスロビーで大きなクリスマスツリーに出迎えられる。
久しぶりに見上げたツリーに、ついつい心奪われかけそうになるも、どうせ見るなら帰りに夫と一緒に見ようと思い直し、ひとまずは、夫が予約してくれたレストランに行ってみることにした。
レストラン入口の前には待ち合わせ用のウェイティングスペースがあったはずだから、そこで少し待たせてもらおう。
でも私が最後に来たのはもう何年も前だから、もし、ウェイティングスペースがなくなっていたら、そのときはロビーまで戻ってこよう。
そんな段取りを浮かべながら、レストランのあるフロアまでエレベーターで昇っていく。
間もなくレストランフロアに着き、音もなく扉が開いた。
毎回その静かな動きには驚かされるけれど、例に漏れず、今日もまるで魔法のようにあまりに静かに開いたエレベーター扉に、一瞬ドキリとしてしまう。
魔法みたいだなんて言うと、子供っぽいと笑われるかもしれないけれど、夫は、決して馬鹿にしたりはしなかった。
あのときの彼は、『確かに、まさにホテルマジックだな』と、なんだか納得していたようだった。
私は、彼のそんなところが好きなのだ。
ぼんやりと彼のことを考えつつ、歩き心地のいい絨毯敷きのフロアを進んでいく。
賑やかだったロビーとは打って変わり、このフロアは品のある静寂が流れていた。
記憶を辿り、突き当りの角を曲がると、目当てのレストランが見えてくる。
その前には以前と同じようにソファが複数置かれており、ウェイティングスペースが変わらずあったことにそこはかとなく嬉しく感じた。
けれど、それよりも私は、レストラン入口に釘付けになってしまった。
そこには、ホテルスタッフと何やら話し込んでいる夫の姿があったのだ。
静かなフロアでは、小声でも響いてしまうのだろう。
彼の困ったような声が、私のところにまで届いたのだった。
「でも確かに今日の昼に予約したんです」
夫のそのひと言で、事情はおおよそ把握できた。
レストランスタッフの女性は、心から申し訳なさそうに夫に応対してくださっている。
「左様でございましたか。それは大変申し訳ございません。ただ今確認してまいりますので、そちらのソファにお掛けになってお待ちいただけますか?まことに申し訳ございません」
夫の言うことに微塵も疑いを持っていなさそうなスタッフに、夫も「お手数おかけいたします」と頭を下げる。
そしてその頭を持ち上げ、ウェイティングスペースに顔を向けるや否や、私の姿が視界に入ったようだ。
ビクリと、わかりやすく足を止める夫。
無理もない、待ち合わせの時刻にはまだ早いのだから。
まさか私がもうここにいるとは思いもしなかったのだろう。
けれど動揺は一瞬で、彼はひとつゆっくりと呼吸すると、私に向かって手を振ってきた。
私も小さな微笑みを添えて手を振り返し、彼と足並みを揃えてソファに腰を下ろした。
「早かったんだな」
「せっかくならこの辺りのクリスマスデコレーションを見てまわろうと思ってたんだけど、すごい混雑だったから諦めたの」
「そうだったんだ。確かに人混みはすごかったな」
「あなたの方は………トラブル発生?」
ちらりとレストラン方向を見やりながら訊く。
すると彼はまたひとつ大きめの呼吸をしてから、
「実は、予約ができたなかったみたいなんだ」
肩を落として答えた。
「予約って、事前にしておいたわけじゃなくて、当日だったんだ?」
てっきり、何週間も前に予約しておいたのを彼がサプライズで当日まで隠していたのかと思ったけど、そうではなかったようだ。
彼は若干ばつが悪そうに視線を泳がせた。
「まあ………そうなんだ。今夜の会食が急に中止になったから、今日はきみも仕事がない日だったし、結婚記念日の前倒しのお祝いをするなら今夜だと思ったんだよ。それで、昼休みにダメもとでこのホテルに電話してみたら、ちょうどキャンセルが出たところだって言われて、すぐに押さえたんだけど………」
会食が中止になったというのが事実かどうかはわからないけれど、彼の行動に、昨夜の出来事が関与していないはずはない。
彼が昨夜の埋め合わせをしたいと思ってくれているのだとしたら、素直に嬉しかった。
だから私は、心のままに、ありがとうと伝えようとしたのだが、ちょうどレストランからスタッフが小走りでやって来たので、言葉を飲み込んだ。
「大変お待たせしております。申し訳ございません、ご予約いただきました際の状況を、今一度お聞かせ頂けますか?本日のお昼に、お電話でということでしたが、何時ごろのことで、応対させていただいた者の名前などはおわかりでしょうか?」
女性スタッフは先ほどよりも申し訳なさそうな様子で、これはいよいよ、彼の予約が通ってなかったのだなと予感した。
「今日の正午過ぎです。携帯から電話しましたので………12時5分に発信してます。会社からの電話でしたので急いでまして、スタッフの方のお名前は記憶しておりませんが、男性でした」
「男性……」
彼がスマホで確認しながら答えていくと、女性スタッフはにわかに顔色を変えた。
やはり、その電話自体が正確ではなかったのだろうか。
けれど、さすが一流の接客といえばいいのか、女性スタッフはその場で彼を否定することはせず、「かしこまりました。再度確認させていただきますので、もう少々お待ちいただけますか。申し訳ございません」と頭を下げて、レストランに戻っていったのだった。
その丁寧さには感心してしまうが、よけいな作業をさせてこの忙しい時期に時間を奪ってしまうのは申し訳ない。
予約ができてないなら、他の店を探すか、デパ地下でいつもよりちょっと豪華なお惣菜でも買って帰ったらいい。
彼にそう提案しようかとしたそのとき、私達に声をかける人がいたのだった。
「何かお困りですか?」




