ごちそうさまでした。(2)
彼は、私に、仕事を調整して一緒にデュッセルドルフに来てほしいと言ってきたのである。
もちろん私は受験シーズン真っ只中では無理だと答えた。
というより、そんなこと彼はわかりきっていると思っていた。
去年も一昨年も、この時期は私の仕事が佳境になるのを見ていたのだから。
だけど彼は、私が正社員への誘いを断ったのは、こういうときのためじゃなかったのかと言ってきたのだ。
それを聞いた瞬間、私はカッとなってしまった。
「じゃあ、私に今すぐ仕事を辞めろっていうの?」
例の約束がなかったら、もしかしたら声を荒げていたかもしれない。
それほどに私は苛立ったし、ショックだったのだ。
彼の言いたいことはわかってる。よくわかってる。
忙しい彼を支えるため、自宅から近い場所で、週数回一日数時間勤務、夫の転勤についていくための退職も考慮して非正規で。
二人でそう相談して決めたのだから。
でも、正規でなかったとしても、決していい加減な気持ちで生徒と向き合っていたわけではないし、受験生を教えているという責任感だってある。
だから受験が終わるのを待ってほしいと言っただけなのに。
だいたい、よほどのことがない限り異動があるのは毎年春だと、彼がそう言っていたのだ。
今回はそのよほどのことに該当するのだろうけど、だったら、私の仕事の都合も理解してほしい。
なのに彼は、正規じゃないなら辞めてもいいみたいな発言をしたのだ。
確かに私は受験全般を請け負ってるわけじゃなく、ただ英語を教えているだけに過ぎない。
でも、やるからには一生懸命生徒と向き合ってきた。
それは彼だって伝わっていると思っていた。
なのに、もし彼に腰掛けだと思われていたのだとしたら………だめだ、泣きそう。
私はキュッと唇を噛みしめ、彼からの言葉がそれ以上聞こえないように、寝室に駆け込んだのだった。
その夜、涙をこらえながらベッドに寝転んでいた私はいつの間にか眠ってしまって、朝、目を覚ましたときには、彼はもう出かけた後だった。
一晩経って、落ち着いて考えてみると、彼は彼で思うことがあったのだろう。
出張で海外に行くことはあってもせいぜい一、二週間だったし、もしかしたら彼にだって多少は不安があったのかもしれない。
なにより、彼が私の仕事を正規じゃないからといって軽んじたりする人でないことは、誰よりも私がよくわかっているはずなのに………
どうしてあんなにカッとなっちゃったんだろう。
気持に、全然余裕がなかった。
毎年この時期は私は冬期講習やその準備、夫は通常の仕事に加えて年末の挨拶まわりや会食が続き、なにかと忙しい。
さすがに日曜は休めるように調整はしているものの、私の仕事が入ったり、彼の方でも予定変更があったりして、すれ違うこともあったりで。
もうすぐ結婚記念日もあるけど、毎年、その日の前後で二人ともが都合のつく日に、家でちょっと豪華な夕食をとる程度だった。
「でも、今年はそれも無理かもね………」
私は卓上カレンダーをトン、とつつきながら呟いた。
そのときだった。
テーブルの上に置いてあったスマホが鳴り出したのだ。
こんな時間にかかってくるなんて、仕事先の塾くらいだろう。
今日は私は休みだったけど、急な変更でもあったのかもしれない。
この時期は生徒だけでなく講師陣も風邪やインフルエンザにかかりやすいから、ピンチヒッターを頼まれることも珍しくない。
いつもなら、可能な限り応じるているけれど………
昨夜、あんな形で彼とすれ違ってしまったこともあって、スマホを持ちあげながらも私は躊躇していた。
けれど、着信は仕事先からではなかったのだ。
「え………?」
画面に表示されている夫の名前に大いに戸惑ってしまう。
でも、もしかしたら何かあったのかもしれない。
私は不安に駆られながら電話に出た。
「もしもし?…………大丈夫だけど、何かあったの?………え?ああ、うん。今日は休みだけど…………………え?ディナー?………あのホテルで?」




