行ってらっしゃい。
フレンチトースト、パンケーキ、ブリオッシュにパン・オ・ショコラ
他にもたくさんの焼きたてパン達たち。
ハム、クリスピーベーコン、新鮮な色とりどりの野菜と、各種のドレッシング。
目の前で好みのオーダーで調理してくれる卵料理はちょっと行列もできるけれど、ふわっふわのオムレツをひと口食べたら、行列なんて全然苦じゃなくなってしまう。
洋食だけでなく、味噌汁や香の物、焼き魚や、胃に優しそうな煮物も並んでいて、
デザートも種類豊富で目移りが止まらない。
このホテルの朝食ビュッフェはどこを切り取っても完璧で、いつも私の心を弾ませてくれる。
大袈裟でなく、私にはテーマパークや高級メゾンよりも魅力的な存在なのだ。
宿泊客でなくても利用できるので、私は月に一度・・・場合によっては二度の時もあるが、自分へのご褒美として、この贅沢な朝食を堪能することにしていた。
ファミレスとは違って容易く通えるわけではないけれど、私が頑張って働いて貰ったお給料を私がどう使おうと、誰かに文句を言われる筋合いはない。
こういう自由に振る舞えるところが独身女の醍醐味だと思う。
・・・もっと欲を言えば、毎朝ここで朝食をとってから出社したいものだが、毎日4000円の出費は、いくら独身の自由気ままな財布とはいえ、なかなか厳しい。
贅沢はほどほどがいいのだと、私は自分に言い聞かせていた。
このホテルビュッフェとの初めての出会いは、会社の同僚達とのいわゆる ”女子会” だった。
私が勤める会社はこのホテルから歩いてすぐのところにあり、ロビーラウンジは入社当時から上司や先輩方のお供で何度も訪れたことはあったのだが、ビュッフェを利用したのはその女子会が初めてだった。
同じ部署の同僚が、日曜のランチビュッフェに誘ってくれたのだ。
そして一歩踏み入れたとたん、私の心を鷲掴みにした―――――
それまでもそこそこのランクのホテルビュッフェは経験あったけれど、このホテルのそれは、他とはまったく違って見えたのだから。
なんと言ったらいいのか、とにかく、パン一つにしても、コーヒー一杯にしても、他のところでは感じられなかった ”きらきら感” というか、そういう、気持ちを晴れやかにしてくれるものがあったのだ。
・・・いい歳して ”きらきら感” なんて、言葉のチョイスがちょっと恥ずかしいけれど。
とにかく、まるでクリスマスプレゼントを目の前にした子供のような、そんな高揚感に包まれたのだ。
そしてその女子会ですっかりこのホテルのファンになってしまった私は、毎月の家計簿項目にこのホテルの朝食代を付け加えたのだった。
「ああ、美味しい・・・」
コーヒーカップを口元に運び、思わず声が漏れてしまう。
ひとり言に反応がないことにももう慣れきっているので、特に寂しいとは思わない。
コーヒーの馥郁とした香に癒されていると、少し離れた席で
「パパ―――!」という男の子の声がした。
高級ホテルと位置づけられるこのホテルだが、賑わいのあるビュッフェレストランでは家族連れも多く、その声も決して不快なものではなかった。
けれど何となくそちらを見遣った私は、そのテーブルに見知った顔を見つけ、反射的に顔を伏せてしまった。
そこにいたのは、入社当時面倒をみてもらっていた上司だったのだ。
彼はその後欧州に赴任となり、確か今はロンドン勤務である。
そういえばそろそろ一時帰国の頃だったかな・・・
頭の中でそう考えながらも、私は低い位置から久しぶりに見る上司の姿を観察していた。
―――彼は、私の憧れの人だったのだ。
このホテルのビュッフェは女子会が初めてだったが、このホテル自体に初めて連れて来てくれたのは、彼だった。
確か、商談相手との待ち合わせだったはず。ここのラウンジで上司の彼と二人、緊張いっぱいになりながら隣り合わせに腰かけたのを、よく覚えている。
整った顔立ちに長身で物腰も柔らかいその上司は、入社当時、新入社員の間でも騒がれる存在だった。
けれど既婚者で、奥様ひとすじだという噂も同時に聞こえてきて、恋愛対象としては外れたけれど、そんなところも素敵だと憧れる女子社員は後を絶たなかった。
つまり、私もその一人だったというわけだ。
年に何度か一時帰国する際、彼がこのホテルに家族と滞在しているという話は聞いていたが、今日がその日だったとは・・・
けれど、本当に偶然なのだから、普通に顔を合わせて、普通に元部下として挨拶すればいい。
そうは分かっていても、あちらはファミリー。
・・・私は、一人ここで朝食ビュッフェに舌鼓を打っている自分が、途端に恥ずかしくなってしまった。
さっきまではお気軽なお一人様を謳歌していたというのに・・・
そうこうしているうちに上司は奥様と息子さんと一緒に席を立ち、レストランから出ていった。
憧れの人に声をかけないままとなってしまったが、挨拶できなかった後悔よりも、大いに安堵する私がいて・・・
憧れの人との偶然の出会いに心ときめかすなんて、若い子だから言えることだと思う。
間もなく三十という年齢になると、それ相応の装備も必要になってくるのだから。
それは化粧や身なりだけでなく、気持ちの上でも。
私は自分一人のテーブルを眺めた後、無意識のうちにため息を吐いていた。
すると、
「なーに朝からため息なんか溢してんだよ」
頭上から、男の声が落ちてきた。
突然のことに構えて見上げると、同期の男が面白そうに笑っていた。
またしても、偶然の出会いである。
「なんであんたがここにいるのよ?」
同期の中でも特に親しかった彼に私は思いっきりしかめっ面で言ってやった。
「お前が昨日『明日ここの朝食ビュッフェに行くんだー』って上機嫌で言ってたからさ、どんなものかと俺も来てみたくなったんだよ」
そう説明すると、彼は持っていた皿とカップを私のテーブルに置き、自分も席に着こうとする。
「ちょ、なに勝手に座ってるのよ。こんなところ誰かに見られたら誤解されるじゃない!」
会社近くのホテルで一緒に朝食をとる姿なんて、もし誰かに見られたりしたら、どんな噂に発展するか分からない。
それでなくても、さっき上司に遭遇したばかりなのだから。
私は手で”あっちに行って”とジェスチャーしながら同期の着席を拒んだ。
けれど彼は私の態度などきれいに無視して、座ってコーヒーなんか啜っている。
私はさっきよりも大きなため息を吐き出すと、この厚かましい同期の撤退を諦めることにした。
「・・・で?ここで朝食をとる為にわざわざスーツ着てきたわけ?」
男の普段と変わりないスーツ姿を指差して問うと、彼はハッ、と短く笑った。
「そんなわけないだろ。誰かさんと違って、俺は今日も休日出勤なんだよ。午後までに出社すればいいことになってるけどな。そうじゃなきゃ朝食の為にネクタイなんか締めないって」
・・・なるほど、それもそうか。
彼の答えに納得した私は、デザートのカットフルーツを口に運んだ。
コーヒーとフルーツのマリアージュが、私のお気に入りなのだ。
さっきまで一人だった食事に会話が生まれて、私は不本意ながらも内心ではちょっとだけ嬉しかったりした。
けれど、同期の男が話し出すとそのささやかな幸福感はあっけなく崩れていったのだった。
「そういえば、あの人ロンドンから帰ってるんだな」
男が言っているのは、さっきまでこのレストランにいた上司のことだろう。
彼もまた、入社当時散々世話になっていたのだ。
「そうみたいね。さっきちらっと見かけたけど」
カットフルーツに添えたヨーグルトをスプーンですくいながら私は答えた。
すると男はカチャン、と音をたててカップをソーサーに置いた。
「会ったのか?」
「見かけただけよ。向こうは家族連れだったし、お休みの日まで会社の人間に会いたくないでしょうし」
男の、僅かに機嫌を損ねたような様子が気になったものの、私は普通に答えた。
「・・・でもお前、あの人に憧れてたんじゃないのか?」
「それはそうだけど・・・」
「じゃ、奥さんと一緒にいるところを見てショック受けたから声かけなかったとか?」
「・・・・はい?」
どうも男の言っていることが私の温度と思いっきりズレている気がしてきた。
「だから、お前、あの人が好・・・」
「いやいやいやいや、それはない、それはないから」
私が男の発言を奪って全否定すると、彼は訝しむような相好になった。
「あの人に憧れてる女子社員がいったいどれだけいると思ってるのよ?私もただその一人よ。だいたい、向こうがヨーロッパに行ってから、もう何年もまともに顔を合わせてないっていうのに、その間ずっと私が片想いしてると思ってたわけ?奥さんがいる相手に?どれだけ一途なのよ。言っとくけど私、そんな不毛な恋愛はしないの」
追い立てるように言ったが、それでも彼は信じられないように「・・・それ、本当か?」なんて訊いてくる。
私はちょっと苛立って、
「本当でも嘘でも、あんたに何の関係があるのよ?!」
と言ってしまった。
すると彼はさっきの私のため息なんかとは比にならないほどの深い深い息を吐いて、椅子の背に体を乱暴に預けたのだった。
「・・・・なんだよ、それを早く言えよ・・・・」
「なによ。早く言えって言われても、そんなことあんたから訊かれたことなかったじゃない」
私が負けじと反論すると、彼がふっとこちらに顔を向け、その視線はじっと私を捕らえていた。
「・・・なによ」
何かを言いたげな彼にたじろいでしまいそうになり、私はつい可愛げのない態度をとってしまう。
特に彼の前ではこういう展開になることが多い気がする。
同期として出会い、その付き合いはもう七年になる。
転職したり寿退社した者もいるが、私と彼の関係はずっと変わらず、いい距離感を保てていると思う。
ある時点で、彼とは良い意味でも悪い意味でも発展性のない関係だと感じたからだ。簡単に言うと、男女の枠を超えた付き合い。
互いに入社以来恋人も作らず仕事に励んでいたという共通点もあり、つまり私達は、何のかんの言いながらも、ずっと親しい友人だった。
「いや、お前ずっと男も作らずにいたから、俺はてっきり・・・」
「妻帯者に片想いしてると勘違いしてたわけね」
ばかばかしい。一笑に付したいところだが、それにしては男の表情が些か真剣過ぎるようにも見えた。
けれど私がその様子に疑問を持つよりも早くに、彼は上着のポケットから何かを取り出し、コトン、とテーブルの上に置いて見せた。
それは、ケースに入っていない、裸のままの指輪だった。
白いテーブルクロスの上、裸のまま寝かせて置かれているにもかかわらず、ダイヤだろうか、立て爪の中できらきらと輝いている。
「・・・・なに?これ」
率直な感想である。
すると彼は椅子の背にもたれたまま、
「婚約指輪」
しれっと言った。
「・・・・いや、うん、それはそうとして、なんで、それをここに置いたわけ?」
再度私が問うと、彼は「お前と結婚したいから」とまたもや平然と答えた。
「・・・・・・・・は?」
まったく寝耳に水という態度の私に、彼は僅かばかりに眉根を寄せた。
「誰が、誰と?」
「俺が、お前と」
「・・・・・・はぁ?」
「まあ、お前は全然気付いてないとは思ってたけどな。俺もそろそろ焦ってきたんだよ」
「いやいや、あんたが何を焦ったのかは知らないけど、それで私と結婚って・・・・え・・・・?結婚――――っ?!」
突如として男の言った内容が頭に浸透したように、私は今いる場所も忘れて叫んでしまった。
ビュッフェの騒めきの中でもその声は抜けていたみたいで、周囲からちらほらと視線が集まってしまう。
私は慌てて小さく会釈し、場を誤魔化してから、身を屈めて男にクレームを告げた。
「あんたのせいで大声出しちゃったじゃない」
けれど男は相変わらず悪びれない。
「こっちは人生がかかってるんだ。そんなこと気にしてられるか」
そう言った彼は、悪びれるどころか、むしろ正々堂々と正論を掲げている様子だった。
「冗談はやめ・・・」
「冗談なんかじゃない」
今度は私のセリフを彼が奪った。
「お前はずっとあの人を好きだと思ってたから、俺は今まで何も言わなかった。でもあの人が本社勤務になるって聞いて、このままじゃまずいと思ったんだ。あの人の後俺が欧州に行く噂もあるし、いい加減ここらへんではっきりしなきゃと思った。お前が俺のことをただの同期としか見てないのは分かってる。でも俺はそうじゃない」
「ええと・・・・、ちょっと待ってくれる?それって、私のこと、」
「好きに決まってる」
照れもなくそう言ってのける男に、私の方が恥ずかしくなってしまう。
「いや、まあ、それはそうだったとしても・・・、でもいきなり結婚なんて・・・・」
つい小声になってしまった。
「そう言われたらそうだけど、あのな、俺は・・・そうだな、メールしたりデートしたり、いかにも”恋人”って感じのこともいいけど、俺は今みたいに、お前と朝飯を食いたいんだよ。毎朝な。分かるか?その違い。俺は毎朝お前と一緒に飯食って、お前から”行ってらっしゃい”って送り出されたいんだよ。ああ、もちろん一緒に出勤するのもいいけどさ、でも好きな相手に見送られたら、仕事も頑張れると思わないか?俺、外回りの時にお前から”行ってらっしゃい”って言われるの、すげー好きなんだ」
彼の言いたいことは、なんとなく分かる、・・・ような気がした。
メールとか、二人で出かけたりだとか、そんなのは私達の間では日常茶飯事だったから。
だからもっと、深いというか、先に進んだ関係になりたい、というのは、理解はできる。
理解はできるのだが、・・・・彼は一つ、思い違いをしている事があった。
入社当時、同期の女性社員から騒がれたのは、あの上司だけではなかったのだ。
爽やかなルックスの彼はよく一目惚れをされるらしいのだが、何を隠そう私も、その一人だったのである。
入社して、本当にすぐの頃の話だ。
けれどその後、同期として接しているうちに、彼が私を何とも思ってないと感じたから、密かに不毛な恋心を終了させた。
それからは、その穴を埋めるように仕事に打ち込んで。
まさかその彼から、こんなプロポーズもどきをされるなんて・・・・
・・・・プロポーズ、よね?
もしプロポーズの場所を尋ねられたら、このホテルのレストランと答えても嘘じゃないわよね?
現金にも、既にそんなことを考えはじめている自分がおかしくて、笑ってしまいそうになる。
蓋をしたはずの気持ちが、いとも容易くよみがえってしまっただなんて、そんなこと恥ずかしくて、ちょっと・・・、すぐには、彼に打ち明けられるかどうか・・・
「ええと・・・、あのね、」
言葉に迷いながらも、彼に対して否定的でない事だけはちゃんと答えようとした。
だがその時、テーブルの上にあった彼のスマホが震えたのだ。
「もう時間だ。とりあえずこれは受け取れ。返事はすぐじゃなくていいから」
潔く席を立つ彼。
けれど、私の答えはもう決まっているのだ。
だから、急いで出ようとする彼に心からの笑顔を向けて私は言った。
「行ってらっしゃい!」
行ってらっしゃい。(完)