ほな行こか。(4)
父が、誰よりも先に、あの女性のことを察していた………
よくよく考えれば、それは驚くことでもなかった。
だって父は、普段からお客様のことをとてもよく見ている人だったから。
お客様がいつもより疲れていそうだとか、今日はちょっと腕を上げにくそうとか、声が弾んでいるから何かいいことがあったのかもしれないとか、あの人ははじめて見る顔だとか、この人はどこどこの地方訛りの関西弁だとか、本当に細かく見て、それぞれに合わせた応対をしていくのだ。
父曰く、そんなのは商売人だったら朝飯前なのらしいけれど、その相手の中に、今回と同じように耳の不自由な方がいたこともあったのだ。
あれは、私がまだ実家にいた中学生か高校生だった頃のことだ。
たまたま私が店にいたとき、そのおお客様はいらっしゃった。
馴染みの方でないことは私にもなんとなくわかったけれど、父はすぐに、そのお客様の耳が不自由であることを見抜いたのだ。
あのときも父は、身振り手振りで会話をしていた。
もともと話しながら手を動かす方だったけど、この時ばかりは無闇に動かしていたわけではなく、話の内容に添ったジェスチャーだった。
おかげでそのお客様は問題なく用を終えられ、帰っていった。
そのあと、父に手話を知っていたのかと問うと、『全然知らん』ときっぱり言い放った。
『全然知らんけど、ほんまに伝えよう思たらどんな相手にも伝わるもんや』
父は大したことなさそうにワハハと笑ったけど、私にとっては……少なくとも当時の私にとっては、それは簡単なことではなかった。
その証拠に、街中で外国人観光客に道を尋ねられたとき、私はしどろもどろになってしまったのに、一緒にいた父は、英語なんてまったく話せないにもかかわらず、『ゴー、スリーシグナル、アンド、レフト、ゴー、ツーシグナル、OK?』といった単語の羅列のみで見事に説明してしまったのだ。
父は、そういう人だった。
ハンディキャップとか、言葉とか、ハードルをハードルとして捉えず、ひょいっと潜り抜けてしまう人なのだ。
それは私にはない才能で、社会に出てからはその才能を羨むこともあったと同時に、人目を気にせず間違いを気にしない、ある意味デリカシーのない父だからこその才能なのだとも思っていた。
私は、デリカシーのない父が苦手だ。
でも、デリカシーがないおかげで人の役に立てることがあるというのも知っている。
だいたい、父は、悪人ではない。
むしろ困っている人を放っておけない善人の部類に入るだろう。
…………さっきは、ちょっと感じ悪かったかな。言い方もきつかったかも。
でもやっぱり、お父さんのあの態度は嫌だ。周りの人にも迷惑だろうし。
でも、お店の調整までしてわざわざ大阪から来てくれたわけだし………
それに、例えお父さんが私に何とも思わなくても、お母さんや妹は結婚式前の私に気を遣ってたと思う。
………ひと言、謝っておいた方がいいかな。
でも、このあとは家族水入らずの時間は持てそうにないし………
ひとりきりの控室で後悔と懺悔が湧き上がってくる中、再び扉をノックする音が鳴ったのだった。
「はい、どうぞ」
介添えの方だと思い、悶々としていた顔色を鏡でチェックして居住まいを正した。
けれど、開いた扉から姿を見せたのは介添えの方ではなく、着替えを終えた彼だった。
「もう準備は終わってるって聞いたんだけど………」
彼は扉を開きながら話しかけてきたのに、私を見たとたん、言葉を飲み込んでしまった。
でもそれはお互いさまで、私だって、前に一度だけ衣装合わせで見ていたとはいえ、きちんとした正装姿の彼に思わず見惚れてしまった。
ややあって、互いに見つめ合ってる私達はほとんど同時に笑い出した。
「ごめん、綺麗だよとか、それらしいセリフを言いたかったんだけど、その前に、見惚れてた」
彼はこめかみを撫でながら恥ずかしそうに言った。
「うん、実は私も。やっぱりフロックコートにして正解だったね」
ナイトウエディングなのでタキシードにしようかとも相談していたけど、試着してみて、彼には淡い色のフロックコートの方が似合ってるように見えたのだ。
「俺もそう思った。でも………本当に、綺麗だよ」
彼が、この上なくやわらかく微笑む。
もう何年もの付き合いになるのに、その溶けた表情にドキリとしてしまう。
そして、つい今さっきまで父のことで悶々としていた自分を忘れてしまいそうなほどに、心が温かくなる。
ああ、私、この人と結婚するんだ…………
その実感が、泣きそうになるほど幸せだった。
けれど、そのあと彼がふと思い出したように告げたことで、忘れていた悶々が復活してしまうのだった。
「そういえば、さっきエントランスのツリーの前で、お義父さんとお義母さんにお会いしたよ」
「え……ああ、そうなんだ。妹は一緒じゃなかったの?」
別に後ろめたいことなんてないのに、きゅっと頬が硬くなってしまい、誤魔化すために会話を繋いだ。
「妹さんはヘアメイクに行ってたみたいだよ」
「ああ、そうだった。お母さんは自分でするって言ってたけど、妹はセットをお願いしてたんだった」
会話は、うまく繋げてると思った。
でも、やっぱり彼にはどこか不自然に見えたのかもしれない。
「………大丈夫?」
瞳の奥を心配げに揺らした彼と、視線がぶつかる。
私は大丈夫だと誤魔化したかったけど、彼にはまた見透かされそうだ。
それに彼には父との関係ももう知られているので、ここは正直に「お父さんと、ちょっとね……」と打ち明けた。
すると彼は、ああなるほど……と理解したように頷いた。
「いつもの親子のスキンシップだ」
「スキンシップって、いつもそんなふうにほのぼのした感じで言ってくれるけど、私は本気で嫌がってるのよ?」
「でも俺はお義父さん好きだよ?」
クスクス笑いながら言われると、私の愚痴も引っ込んでしまう。
「……それも、いつも言ってるよね」
「うん。だってほら、俺は父親を知らないからね。お義父さんを見てると、父親っていうのはこんなに大きな存在なんだなって感動するよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ。だって、俺、さっきもお義父さんに感動したからね」
「さっきって、エントランスで会ったとき?」
「そうだよ。あのクリスマスツリーの話をしたんだ」
「願いを叶えてくれるっていう話?」
このホテルの冬の風物詩となっている、本物の木を使用した大きなクリスマスツリー。
いつの頃からか、このクリスマスツリーはひとつだけ願いを叶えてくれるという幸せな噂が聞こえるようになっていた。
「そう。俺がその話をしたら、お義父さん、何て言ったと思う?」
「え?ツリーに何をお願いするかってこと?」
「お義父さんのお願い、何かわかる?」
あの父のことだから、面白そうな話題には乗ってくるだろうけど、真剣に答えるとは思えない。
ウケ狙いの答えか、オブラートに包んだお世辞、或いは自虐か………
でも、彼が感動するほどの回答って何だろう?
「……わからない。さっぱり見当もつかない」
私の答えに、なぜか彼は満足そうに破顔した。
けれど、「お義父さんはね………」と、その答えを教えてくれようとしたまさにそのとき、
トントントン
またもや扉がノックされたのだった。




