ごめんなさい。(3)
「まあ、このホテルの紅茶がきっかけで?」
「そうなんですよ。私が前に好きだって言ってたのを覚えててくれて。で、私がそのお返しに彼の好きなお菓子を差し入れしたら、今度はそのお礼にって食事に誘われて、その日に彼から付き合おうって言われたんです」
「素敵。なんだか映画みたいなお話ね」
私はテーブルの向かいではにかみながら恋人との出会いを聞かせてくれている女性を、微笑ましく眺めていました。
突然声をかけた私に、女性は若干訝しむ素振りをしましたが、私も一人のランチなので付き合ってくれたら嬉しいと説明すると、人懐っこい笑顔で頷いてくれたのです。
レストランスタッフの手を借りて席を移動した私達は、お互いに簡単な自己紹介をしてから、クリスマスランチをスタートさせました。
彼女はこのホテルの近くにお勤めで、先ほど席を立たれた男性はやはり恋人だそうです。
彼は別の企業にお勤めで、営業のお仕事をされてるとか。
それを聞いた私は、営業なら急な呼び出しも仕方ないのかもしれないわね…と、同情がますます濃くなっていきました。
彼女はとってもおしゃべりが上手で、まだまだ続きます。
今日のようにデートが彼の仕事でキャンセルになることはしょっちゅうで、あまりにも常態化していたことから、先週、ちょっとした喧嘩に発展したそうです。
そして今日はその埋め合わせもあり、彼が有給休暇を取ってくれて、少し早いクリスマスデートを楽しむはずだった……と。
それにもかかわらず今日もやっぱり仕事で呼び出される彼に、とうとう彼女の中でも我慢の限界に達してしまったということでした。
確かに詳しい事情をお聞きすると、同情すべきは彼女の方にも思えてきます。
私も夫の仕事の都合で約束を二転三転、或いは取り消しにされたことも数えきれないほどございますから。
叶えられない約束の虚しさは、身を以て実感しておりますし、それは時に傷となって心に残ってしまうことも、承知しております。
ですが、私は彼女のように若くはなく、年相応の経験を踏まえた心の整え方も学んでまいりましたので、その傷が広がらないようにする手立てくらいは彼女にお伝えしたいと、僭越ながらそう思ってしまいました。
彼女の様子を窺ったところ、キャンセルされたことは腹立たしいようでしたが、彼自身のことはとても大好きだというのが溢れ出ています。
二人が付き合うきっかけになったエピソードなど、頬を朱色に染めながら語ってくれる光景は非常に可愛らしく思えました。
ですから私は、年長者のお節介と承知のうえで、彼女に私と夫の話を聞いてもらうことにしたのです。
「それじゃあ、今度は私と夫のこともお話していいかしら?」
「ぜひ聞かせてください!」
彼女はとても愛想よく言ってくれました。
「実はね、私の夫の勤務先もこのホテルの近くなの」
「そうなんですか?」
「ええ。それでね、結婚前から私と夫にとってここは憧れのホテルでもあって、いつか、二人でクリスマスにお食事に行こうと約束していたの。でも夫はとても忙しくて、私も結婚してからは子育てでバタバタしてしまって、ほら、クリスマスって当たり前だけど年末でしょう?年末は何かとやらなきゃいけないことが目白押しで、子供達へのクリスマス準備で精一杯だったのよ」
「主婦とかお母さんって大変ですよね。本当に尊敬します」
「まあ、どうもありがとう。でもそういうわけで、私と夫の約束は今も叶えられないままで、私は今日はじめてこのホテルに足を踏み入れたのよ」
「え、今日がはじめてなんですか?でもそんな憧れのホテルなら、結婚式とかでは使わなかったんですか?」
「結婚式は夫の実家の方にある神社で挙げたの。その流れで、披露宴も実家近くのホテルだったわ。でも本当のところを言えば、ここに来ようと思えば来られたのよ?子育てもひと段落してきた辺りから、ちょこちょこっとその機会はあったの。だけど、なんだか夫とクリスマスの約束を叶える前に他の用事で訪れるのは、ちょっと避けたい気持ちだったの」
「そうだったんですか……」
「ああ、そんな残念そうな顔はしないで?あなたはとっても優しい人なのね。でも、私はそこまで悲観的には考えていなかったのよ。家族のために毎日忙しく仕事を頑張ってくれる夫が大好きだし、尊敬もしているから。クリスマスの約束は叶えられなくても、普段のお休みには家族との時間を優先させてくれて、子供達も一緒にいろんなところに連れて行ってくれる、いい夫でありいい父親だったの。だから私はクリスマスの約束が叶えられなくても、”ああ、今年もだめだったのね” 程度にしか感じていなかったのよ。でもね…」
実はそのいい夫は、私が大事にしていたクリスマスの約束をすっかり忘れていたわけで、そうと知った時の衝撃を思い出し、私はついクスっと笑みを漏らしてしまいました。
「何がおかしいんですか?」
「いえ、実はね、私がそんな風に大切にあたためていたクリスマスの約束、夫は覚えていなかったのよ」
「ええっ?!」
彼女は驚きを叫んでから、慌てて両手を口に当てました。
幸い、周りの方々にはあまり気付かれはしなかったようです。
「………それ、本当なんですか?」
「もちろん。あるとき私が夫に尋ねたら、見事に忘れていたのよ。結婚して、子供が大きくなってきた頃だったかしら」
「それは、何と言ったらいいか……そんなことがあるんですね」
「酷いでしょう?いいのよ、遠慮なくそう言ってくれて」
「いえ、そんなことは……」
「私もそれを聞いた時はショックだったわ。でもね、彼ったら、大慌てで謝ってきたのよ。本当に申し訳ないって思ってるのが伝わってきて、私は怒ったり拗ねたりする暇がなかったくらい。だって、自分は覚えていないんだから、そんなの私が勝手に作った約束だって否定することもできたのに、夫はそうしなかった。もともと夫には、仕事にかまけて私に甘えてしまってる自覚はあったんですって。だからクリスマスの約束のことも、私を100%信じてくれた。私にとってはそれだけでも嬉しかったのよ」
「……その感じは、私もちょっとわかります」
「まあ、本当?共感してもらえて嬉しいわ。だけど夫はそれ以降、今度は逆にその約束がずっと頭の片隅にあったらしいの。そしてずっと気にしててくれたらしいわ。去年、夫の仕事に余裕が出てきて、ある程度時間にも都合がつくようになった時、はじめて夫の方からクリスマスの約束を持ち出してきたのよ。『ずいぶん待たせてしまったけど、あの約束を叶えよう』と言ってくれたわ」
「わあ、素敵!それこそ映画みたいなセリフですね」
「そうかしら?どうもありがとう。だけど、このホテルのクリスマスは予約を取るのが難しくて、去年はタイミングを逃してしまったのよ」
「クリスマスはすごい人気ですものね。彼も一か八かで電話してみたら偶然キャンセルが出たところで、そのおかげで今日予約できたみたいです」
「無理を承知で連絡してみるなんて、あなたの彼氏も優しい人なのね。それだけ、お二人にとってここが大切な思い出の場所になっているということかしら?」
私がにっこり言うと、彼女は少々照れたように視線を浮かせました。
どうやら図星だったようです。
私は、若いカップルの微笑ましい姿に触れ、ほんわかとした温かさをいただいた気分でした。




