ごめんなさい。(2)
もう間もなくクリスマス当日といった、街が最も高揚感にあふれる頃、私は一人でそのホテルに向かっておりました。
最近急に冷えてきましたから、ディナーではなくランチにして正解でした。
ですが、自分の選択に満足していた私はふと気付いたのです。
ホテルまでは自宅から地下鉄で一本。気温の心配は無用だったと……
地下鉄に揺られながら内心で苦笑が漏れてしまいました。
どちらにせよ、夜は夫と一緒に過ごす予定ですので、何かお土産を買って帰らなくては。
何がいいかしら?
そんなことを考えながら地下鉄の階段を上がっておりましたら、頭上より男性の困惑気味の声が降って参りました。
「――――そうですか………。……いえ、今日はお休みをいただいておりまして………ええ、そうなんです……」
若い方でしょうか、口調は丁寧で、お仕事相手とお話しされてるような印象を覚えました。
盗み聞きをするつもりはありませんが、どうしても聞こえてきてしまう話し声に、私は申し訳なく思いながらも階段を進んでいきました。
すると、にわかに男性の声が固まったのです。
「――――え?今からですか?」
その声が聞こえたタイミングで私は階段をのぼり終えてしまい、広がった視界には、困り果てた顔でスマホを耳に当てている男性が飛び込んできました。
やはり若い方でした。
寒空の下でもコートは着ておらずジャケット姿でしたが、どうもお仕事用の装いといった雰囲気ではありません。
いえ、外見で判断するのはよくありませんが、私にはその格好が綺麗目な休日のお洋服、という印象だったのです。
手に提げたトートバッグはビジネス用だと思えばそう見えるかもしれませんが、それにしてはやや小ぶりにも感じますし。
あまりじろじろ見るわけにもいきませんので、掠め見た範囲での感想ですが。
「……………わかりました。少し……調整に時間がかかるかもしれませんが、そうですね………1時…半、までには何とかします」
通り過ぎた直後、彼からは困惑を経た諦めのセリフが聞こえてきました。
おおよそ、お休みでどこかに出かける途中、お仕事で呼び出されてしまったのでしょう。
私の夫にも時々そういうことがありましたから、私はなんだかシンパシーと同情が芽生えてしまいました。
これからどこへ行く予定だったのかしら?
同情心がちょっとした好奇心をくすぐりましたが、私が一方的にイメージを膨らませる間もなく、彼は電話を切るなり駆け出したのです。
ビュン!という表現は古めかしいかもしれませんが、とにかくそれほどの速度で、彼は私を追い越していきました。
その慌てっぷりといったらありません。
あっという間に小さくなっていく彼の後ろ姿を見やりながら、私はなんとなく思いました。
もしかしたら誰かと待ち合わせをしていたのかしら?
でも自分は1時半には仕事に出なくてはいけない。
だから、少しでも早く待ち合わせ相手に事情を説明する必要があって……
そう考えたら、今日の約束の相手は恋人さんだったのかもしれませんね。
だったら、気の毒に……
忙しいパートナーを持ってしまうと、どうしても ”待つ” 回数が増えていってしまうものなのです。
私は見ず知らずの男性の物語を勝手に空想し、いるかどうか定かでもないお相手の方に自分自身を重ねながら、ホテルに向かうのでした。
※
「こちらのお席をご用意させていただきました」
予約した時間よりも少々早めでしたが、スタッフの方が丁寧に席に案内してくださりました。
「どうもありがとうございます」
椅子を引かれ、なんだか恐縮しつつもお礼を伝えます。
「ご予約では、スープはオニオングラタンスープ、メインはシャリアピンステーキのクリスマスランチと伺っておりますが、ご変更はございますか?」
「いえ、それでお願いいたします」
「かしこまりました。ではお飲み物はいかがなさいますか?」
「では、お紅茶を…おすすめのブレンドのストレートをホットでお願いします」
「かしこまりました。では当ホテルのオリジナルブレンドをご用意させていただきます」
「それは楽しみです」
メニューを決める時間さえもがわくわくするほど、ホテルの中はどこもかしこもがクリスマスの高揚感に満たされているようでした。
正面玄関のエントランスには本物のもみの木を使用したとても大きなクリスマスツリー。
そしてレストランのフロアに移動するまでに通ってきたエレベーターホールや回廊のそこかしこに緑や赤、金銀色の飾りが品よく施されていて、クリスマスを感じない場所を探す方が難しそうでした。
私が予約したレストランはホテルの上層階にあるフランス料理をベースにしたお店でしたが、高級フレンチという畏まり過ぎた雰囲気でもなくて、居心地のよさそうな空間でした。
入口の私の背より高いクリスマスツリーの装飾は見事で、赤ではなくバーガンディー色のボールオーナメントが大人の可愛らしさを演出していると感じました。
テーブルに案内される間も、窓や壁沿いにそれぞれ趣の異なる小さなクリスマス飾りが素敵で、それらにすっかり目を奪われていた私は、よそのテーブルにまで意識を向けることはしておりませんでした。
ですが、オーダーを終え、落ち着いたところで、隣のテーブルから穏やかでない声が聞こえてきたのです。
「いっつもそうじゃない!」
大声というほどではありませんでしたが、騒がしくはないレストランの中ではどうしても目立ってしまいます。
私を含め、ちらちらとそのテーブルに視線が集まりました。
そこで私は気付いたのです。
隣りのテーブルに、先ほどの男性がいたことに。
「できない約束ならはじめからしないでよ!」
声を上げているのは男性の向かいに座ってらっしゃる女性で、どうやら、男性がお仕事で呼び出されてしまったことを責めている様子でした。
男性は反論など一切せず、「本当にごめん」と平身低頭です。
私は電話を受けているときの彼の困惑顔や、駆け出した姿の鮮度が高いままでしたので、少なからず男性を応援する思いでした。
ですが、少しばかり、焦れてもおりました。
どうしてもお仕事で行かなくてはならないとしても、謝罪だけでなくきちんとご自分の気持ちを相手に伝えたらよろしいのに。
本当は行きたくないのだと。
そうしたら彼女の悲しみや怒りも幾らかは和らぐでしょうに……
お二人の関係性は存じ上げませんし、女性のセリフから察するに、こういった出来事が繰り返し起こっているようですが、それにしても男性はもっと感情を示された方がよろしいのでは……?そう思ったのです。
あまりじろじろ眺めても失礼ですし、視界の端で注視しておりますと、女性が男性に言い放ちました。
「もう行けばいいじゃない!好きにすれば?」
ニュアンス的には決して賛同しているわけではなく、自棄になっている感じです。
すると男性はスッと頭を下げました。
「本当にごめん。申し訳ない。この埋め合わせは必ずするから」
最後まで無闇に言い訳めいた発言はせず、静々と席を立つと、そのまま店を出て行ってしまったのです。
私はつい彼の背中を目で追いかけましたが、隣のテーブルからは女性の小さな小さなため息が聞こえてきました。
「…………何よ。埋め合わせなんて、どうせ無理に決まってるのに………」
その口ぶりがあまりにも寂しそうで、私はほとんど考えもせずに、彼女に声をかけておりました。
「お嬢さん。もしよろしかったら、クリスマスランチをご一緒いたしませんか?」




