行ってきます。
一歩ホテルに入ると、外の賑やかなクリスマス景色とはまた違った、落ち着いた、どこか品のあるデコレーションに迎えられた。
私は大きなスーツケースを係に預け、レセプションで名前を告げた後、なんとなく中央に飾られた大きなツリーに近寄り、眺めていた。
本物の樅ノ木を使っているそのツリーは、煌びやかだけど、アットホームな印象もあって、眺めていると、ふと、家族のことを思い出したりした。
けれど私が母親の顔を思い浮かべた瞬間、突然横から小さな衝撃があった。
何かにぶつかられたのだ。
それは軽いもので、たいした強さでもなかったのだが、ぶつかってきた相手は ”しまった・・” という顔でこちらを見上げていた。
衝撃の犯人は、小学校に入る前くらいの、小さな男の子だった。
「すみません!お召し物大丈夫ですか?こら、走っちゃだめって言ったでしょう?」
男の子の母親らしい女性が申し訳なさそうに声をかけてきたが、男の子はしゅん、としていて、逆にこちらが申し訳ない気持ちになってしまう。
ぼんやりしていたのは、私の方なのに。
「大丈夫ですよ。それより、叱らないであげてください。私もぼーっとしてましたので・・・。ね?ツリーがあまりにも綺麗だから、ついはしゃいじゃったのよね?」
男の子に話しかけると、その子はみるみる笑顔になって、「うん!」と返事した。
「こら!その前にお姉さんに言うことあるでしょう?」
母親がそう諭すと、あ・・・と男の子は思い出したように私に頭を下げた。
「ぶつかって、ごめんなさい」
可愛らしい謝罪に、わたしは自然と笑顔になってしまう。
「いいのよ。ちゃんと ”ごめんなさい” ができて、偉いね」
私の言葉に、男の子はますます嬉しそうにして、母親の手をしっかり握ったのだった。
すっかり気分があたたかくなった私は、その後ベルマンに名前を呼ばれるまで、無意識にその親子を目で追っていた。
いい母親だな・・・・そんなことを考えながら。
「こちらが本日お泊りのスイートルームでございます」
非の打ち所がないベルマンに案内されたのは、ホテル上層階のコーナーに位置するスイートルームだった。
「お荷物はこちらでよろしいでしょうか?」
ジュラルミンの大きなスーツケースをバゲージラックに置いてくれたベルマンに「ありがとうございます」と言うと、彼は清潔感溢れる笑顔で応えてくれた。
それから簡単に部屋の説明をすると、
「では、後ほどルームサービスをお持ちいたしますので、どうぞお寛ぎくださいませ」
と告げ、部屋から出て行った。
一人きりになったスイートルームで、早速お部屋チェックでも・・・といきたいところだが、その前に忘れてはいけないことがあった。
私はスーツケースとは別に持っていたショルダーバッグからレザーのフォトフレームを取り出した。
折り畳んで持ち運べる、二面タイプのものだ。
そしてホワイエを通り、リビングルームのテーブルの上に用意されていたフルーツやチョコレートの隣に開いて置いた。
左側が、母一人の写真。
そして右側は、若い母がまだ幼児の私を抱いている写真である。
「お母さん、お母さんの憧れだったスイートだよ。・・・・とうとう一緒に泊まることはできなかったけどね・・・・」
私は広いソファに座って、その無駄に広すぎる座面に、なんだか寂しくなってしまった。
写真の母は穏やかに微笑んでいても、何も話しかけてはこない。
ふと、フォトフレームから視線を動かすと正面の薄いカーテン越しに夜景が広がっているのに気が付いた。
私は立ち上がり、壁にあるスイッチでカーテンを開いた。
ジ、ジ、ジ、ジー・・・・というのんびりした音とともにカーテンが左右に開いていく。
コーナーの特徴でもあるゆるくカーブされた大きな窓が露わになると、その向こうには煌びやかな都会の灯りが広がっていた。
「きれい・・・・」
長くこの街に住み、こういう夜景は何度も目にしているのだが、このホテルからの夜景は特別なのかもしれない。
私はテーブルに置いたままだったフォトフレームを取りに戻ると、また窓辺に立った。
「・・・・・・あの日の夜景よりは、五倍増しかな?」
そして数年前、母と二人で泊まった時のことを思い出していた。
知人から歌舞伎の招待券を譲ってもらったとかで、母が『せっかくならいいホテルに泊まって贅沢しちゃおう』と電話をしてきた時、真っ先に頭に浮かんだのはこのホテルだった。
一等地に建ち交通の便がいいというだけでなく、ホテル従業員のホスピタリティが素晴らしいと職場でも評判だったからだ。
地方出身で大学からこちらだった私は、その存在は知ってはいたけれど、当時社会人一年目だったこともあり、まだ足を踏み入れたこともないホテルだった。
母がスポンサーになってくれるとのことだったので、私ははじめてこのホテルに泊まることにしたのだ。
私が予約を取り、母も名前は聞いたことがある有名なホテルに泊まるのをとても楽しみにしていた。
平日だったので私は昼間仕事をし、夜、歌舞伎鑑賞を終えた母とホテルロビーで待ち合わせをした。
ホテルに入ると正面には威厳のある階段があり、まだ大人の女性には程遠かった私は、その重厚な華やかさに気後れしないように姿勢を正して母を探した。
ところが階段横にあるソファに腰かけていた母は私を見るなり、
『こっちこっち!』
と、大きく手を振ってきたのだ。
そして近寄った私に、
『ねえ、さっき花嫁さんがいたのよ。すごく素敵だったわ』
と、年甲斐もなくはしゃいで言ってきた。
まるで少女のように。
その声は落ち着いたホテルのロビーに響いて、私は少々恥ずかしい思いをした。
どうやら、このホテルで結婚式を挙げるカップルが正面の階段を使って前撮りをしていたらしい。
平日の夜ということで、人の少ない時間を見計らって撮影することがよくあるそうだ。
部屋に案内してくれたベルマンから聞き出した情報に、母は上機嫌で『そうなんですか』としきりに頷いていた。
そして部屋で二人になると、肝心の歌舞伎の話ではなく、母の関心ごとは先ほど見かけたらしい花嫁さんでいっぱいだった。
『日本の人だとは思うんだけどね、まるでどこかのお姫様みたいで、とても一般人には思えないくらい綺麗だったのよ。もともと綺麗な人だったのかもしれないけど、やっぱりこういうホテルだと雰囲気がそうさせるのかしらね・・・・』
『高級ホテルに入ればみんなが美人になるわけじゃないわよ?』
娘ならではの口ごたえをすると、母は『そんなこと分かってるわよ』と笑った。
『でもね、結婚式なんて一生に一度のことなんだから、せっかくなら綺麗な思い出にしたいじゃない。カジュアルでアットホームなお式もいいけど、お母さん、あなたにはこういうところで結婚式を挙げてほしいわ。ほら、見て見て、お部屋からの夜景も素敵じゃない』
窓に掛かっているカーテンをくぐって外の夜景に感嘆する母。
『このフロアでこんなに素敵なら、もっと上だと夜景ももっと明るく見えるのかしら』
『・・・・・・そうかもね。スイートルームだったら明るさ五倍増しかもね』
適当に冗談でそう返したのだが、母は本気で納得したように
『やっぱりそうよねえ。スイート、いつか泊まってみたいわ。あ、もちろんお父さんにはナイショでね』
うっとりするように窓に頭をくっつけて、そんな憧れを口にしていた。
それからしばらくして、母たっての希望で予めオーダーしていたルームサービスが届いた。
なんでも、このホテルに宿泊すると友人に話したところ、”それならアレを食べなくちゃ” と教えられたそうだ。
『へえ・・・これが、そのシャリアピンステーキ?』
丁寧にテーブルセットしてくれたスタッフが部屋を出ていってから、私は母に尋ねた。
『そうそう。お肉が柔らかくってね、美味しいんですって』
もう待っていられないとばかりにいそいそと椅子に座った母は、私が席につくのとほとんど同時にステーキをカットしていた。
マナー違反でしょうと思いながらも、母の嬉しそうに頬張る姿が微笑ましくて、私は娘ならではのお小言は引っ込めることにしたのだった。
『お料理も美味しいし、やっぱり素敵よね。本当、いつか、こんな素敵なホテルで結婚式を挙げられたらいいわねえ・・・』
ステーキをたいらげた後、母が感慨深げにそう言った。
それはひとり言のようにも聞こえたので、私はあえて返事はしなかったけれど、母が本心からそう思っていたのは伝わっていた。
『でもそうしたら、式の前の夜 ”長らくお世話になりました・・・” ていう挨拶はどこでするの?実家?遠くない?』
結婚繋がりでそんなことを尋ねてみると、母は『なに言ってるのよ』と呆れたように返してきた。
『いつの時代の話よ。別に実家でなくてもいいし、そんなに畏まる必要なんてないわよ。普段通りでいいの。ちょっとお買い物に出かける時みたいな感じでいいのよ。お母さん、堅苦しいのは苦手だもの』
こんな伝統のある格式高いホテルで結婚式を挙げたらいいと言うくせに、堅苦しいのは苦手だなんて、自由な人だな。
まあ、知っていたけど。
私は内心でそんなことを思っていた。
母は、その翌年に病気で亡くなった。
母が何気なく言ったセリフを、なにもずっと覚えていたわけじゃない。
そのホテルで職場の同僚達とランチした時だって、”母と一緒に泊まったな・・・” ぐらいしか思わなかった。
けれど、数年経ってから、ふと、あの母のセリフを思い出したのだ。
私は両手の中にある写真の母を、人差し指でそっとなぞった。
その時、部屋のチャイムが鳴り、私はフォトフレームを近くにあったワークデスクに立てて置いた。
「ルームサービスをお届けに上がりました」
扉を開くと、大人の快活さを感じられる声で告げられた。
シャリアピンステーキだ。
スタッフがリビングルームの窓際に手際よくテーブルごとセットしてくれるのを見つめていると、母と宿泊した日とシンクロするようだった。
ただ、あの日と少し違ったのは、
「こちらは当ホテル支配人からのお祝いでございます。どうぞお召し上がりください」
スタッフの一言と、テーブルの端に置かれたフラワーアレンジとシャンパンだった。
私がお願いするとスタッフは快くシャンパンの栓を開けてくれた。
役目を終え出ていくスタッフに礼を伝えて施錠してから、私は母の写真をシャンパンの隣に並べた。
細かい泡が、可愛らしく泳いでいる。
その横に、母。
「・・・・お母さん、意外とお酒が好きだったから喜んでくれてるかな?」
シャンパンの香がほんのり広がって、少しだけ、優雅な気分に酔えた。
ステーキを口に運ぶと、あの時と同じ味がした。
「美味しい・・・・。お母さん、気に入ってたもんね。また一緒に来られたらよかったんだけど・・・・・」
時は戻らない。
あの日と同じようにホテルはここにあるし、料理の味も変わらないけれど、確実にあの時とは違うのだ。
ちょっとしんみりしてしまいそうになった私は、気を取り直してステーキを切り分けようとナイフを握った。
すると、ソファに置いてあるバッグから電話の着信音が聞こえてきた。
立ち上がり、数歩の距離を移動して相手を確認してから電話に出た。
「もしもし?バチェラー・パーティー中じゃないの?」
《ご新婦様がチェックインされましたよって教えてもらったんだよ》
「まだ今日は新婦じゃないわよ?」
《一日くらいいいだろう?細かいな。それより、変わりない?》
昨年婚約した彼は、からかいながらもいつもこうやって私のことを気にかけてくれる。
「大丈夫よ。私のことは気にせず、独身最後の夜を楽しんで?」
彼も私同様地方出身で、ご家族や親戚方は式当日の明日こちらに来ることになっている。
なので今夜はこのホテルのバーを貸し切りにしてもらい、同僚や友達とバチェラー・パーティーをしているのだ。
ここで式を挙げると、当日と前日、二泊のスイートルーム宿泊をホテルから贈られることになっており、私は明後日からの新婚旅行の荷物と共にチェックインしたのだった。
彼からプロポーズされた時、返事をするよりも前に思い出したのが、あの母のセリフだった。
母に直接花嫁姿を見せることはできなかったけれど、このホテルで式を挙げることはできる。
私が一連のエピソードを告げると、彼も彼のご両親も、私の父も喜んで賛成してくれた。
私はシャンパングラスを弄びながら、母の写真に語りかけた。
「何度も言ってるけど、彼も彼のご家族もとっても素敵な人よ。お母さんにも会いたかったって・・・。
お母さん・・・・私、お嫁に行くわね。
堅苦しいのは嫌がってたから、一言だけ・・・ちょっとお買い物に出かけるような感じで、
行ってきます」
行ってきます。(完)