あの夏彼は……〇〇〇〇〇に泣いた。
高校球児にとって甲子園とは、憧れであり、目指すべき目標だ。
球児は誰もが恋願う乙女のように瞳を輝かせ、憧憬の対象である甲子園の舞台に立つことを夢に見る。
汗水たらし、血へド吐く思いをしながら練習に打ち込み、試合で成果を出すために、誰もが仲間と切磋琢磨して己に磨きをかける。
頭は丸坊主、その身を包む服は泥だらけ、野獣のような咆哮を上げて試合に望む。そのことを男臭い、時代錯誤、という人もいるが、野球とは……いや、高校野球とは、日出ずる国日本が誇るべき伝統であり、愛すべき存在である。
夢破れた者達はその思いを託し、夢に一歩近づいた者達は対戦相手の思いを重ね、自分達の活力とする。
各県の頂きに登り詰めた者達の死闘。
疲労を物ともしない屈強な精神。
我武者羅野球を極めし者達。
甲子園とは野球の枠を越えた――男達の戦いなのだ。
そして今ここに、その甲子園、決勝の舞台に立つ投手がいる。
9回裏、2アウト満塁、カウント3ボール2ストライク、3対3の同点である場面で緊急リリーフをすることになったその投手は――とてつもなく緊張していた。腕は震え、足は震え……まるで生まれたての小鹿のように、全身をびくびくと小刻みに震わせていた。
先発であるエースが早々に捕まり。二番手であるサイドスローのピッチャーが好投はしていたものの、最終回。2アウト満塁、フルカウントのところで脱水症状を起こしてしまい、3番手である彼に出番がやって来たのだ。
ブルペンで肩を温めながら今か今かと出番を待っていた彼は、違う意味で「今か!?」と思った。
自信はあった――どんな場面でも抑えてみせると。
自負もあった――俺こそがエースなのだと。
しかし、今、彼の胸中は……プレッシャーに押し潰されていた。抑えられるわけがない、と。
誰もが夢想することは簡単だ、妄想のなかでは、自分こそが全てであるのだから。だが、現実は違う。この世は不条理であり、思い通りにはいかない。
この舞台の……甲子園の舞台の上に立ち、歓声を浴びながら、優勝投手となる。
幼少気に夢見た思いは今、実現に向けて動き始めている。しかし、彼は現在……怯えていた。見事なまでに怯えていた、少し目も潤んでいるようだ。
よりにもよってこの場面で登板するとは夢にも思わなかった。
甲子園に来て、初めて立つマウンドが決勝の、しかも一球で何もかもが終わってしまうところでの交代だ。鋼の心臓を持った人間でも緊張するに違いない。
もし、この局面で緊張しないという人間がいるとするならば、なにも考えていない馬鹿な人間しかいないだろう。
彼も馬鹿なら良かったが如何せん真面目すぎるきらいがある。練習に打ち込みすぎて軽い熱中症で倒れること数十回……これもよく考えてみれば馬鹿の一種なのかもしれない。
しかし、その真面目、もとい馬鹿な姿勢が監督他、チームメイト達に認められ。それに順づるように実力も伸びていき、この夏、最終学年にして初めてベンチ入りメンバーに選ばれた。
練習の成果をこのピンチで出すことができれば彼は間違いなく夢を現実にできただろう。
それほどまでの底力をこの三年間でつけてきたのだ。が、彼は現在――逃げ出したい思いに駆られたていた。
今の現状を見れば分かる。
体は震え、目は潤み、少し吐き気も催している。
絶対絶命のピンチという鬱屈感。
勝機を一切見いだせない敗北感。
……もう帰りたい。
ヒーローにもヒールにもなれる立場で彼は完全に、心を折られてしまった……ポッキリと
しかし、彼は忘れていた。野球とは――チームスポーツであることを。
俯きながらグローブに納めてある白球に目を向ける。そこには今までの死闘を映し出すかのように、球児の汗とグラウンドの土が刷り込まれていた。
俺はここに立つべきじゃなかった……
最早、敗北が断定したと思っている彼に、救いはない。
この日。この夏。この舞台のために。練習に明け暮れた日々が無駄になってしまった……
皆には申し訳ないが、今ボールを投げたとしたならば、確信を持ってワイルドピッチをしてしまうと言い切れる。何故なら……白球を握る手に力が入らないからだ。
彼の惰弱な精神は身体機能にも影響するまでに至っていた。
もう終わりだ……早く楽になりたい。
顔を俯かせたまま、この場所から一刻も早く立ち去りたいがために。彼は投球することを決めた。
チームメイト全員に心の中で謝り、いざ顔を上げようとした直後、バシッ! という打撃音と共に強烈な衝撃と痛みが頭部にはしる。
驚き反射的にばっと顔を上げると、キャプテンで捕手を務める男が目の前にいた。
いや、捕手だけではない。内野陣全員が、マウンドを中心に円陣を組んでいた。
そして皆が皆、声をかけてくる。
ファーストを務めるフルスインガーのあだ名を持つ彼は、いつも通りおっとりとした声で「落ち着いていこう」と緊張和らぐ声音で励ましドテドテと自分の守備位置へ戻って行った。
セカンドを務める守備職人のあだ名を持つ彼は、ニコニコと白い歯を見せながら「俺のところに飛んでくればどんな球でも取ってやるから」と言って最後に二カッとこの状況を楽しむかのように百万ドルスマイルを浮かべ、全力で自分の守備位置へ駆けて行った。
ショートを務めるトリプルスリーのあだ名を持つ彼は、クールに「お前ならやれる」と確信を持った声で告げる。その後帽子をかぶり直し、クールに守備位置へ戻った。
サードを務める広角打法のあだ名を持つ彼は、何も言わず、ただ目を合わせ瞳に思いを乗せるように見つめてくる。そして幾分か経ち満足したのか「うん」と一言頷いて、自分の守備位置へ戻った。
そして内野だけでなく。
外野のレフトを務める、暴走男。
センターを務める、ハンガー。
ライトを務めるライパチ。
それぞれ三人もこちらに目を向け頷いている。後ろは任せろ、と。
最後に残ったキャッチャーを務めるお袋のあだ名を持つ彼は、一言「ど真ん中に、来い!」と信頼の籠った声を発すると、2度ポンポンとピッチャーの肩を叩き決する舞台を整えるため要の守備についた。
……ああ、本当に俺は
……本当に俺は……大馬鹿者だ。
野球は一人でやるもんじゃない。9人が揃って初めて試合に挑めるのだ。
彼は思う。お山の大将もいいところだ、と。
この試合を任されたとき、自分のことだけしか考えず、周りが見えていなかった。
どれだけ良いピッチャーでも一人では何にもできない。
一人は皆のために、皆は一人のために。
守備について守ってくれている人がいるからこそ、ピッチャーはその力を存分に出せるのだ。
……体が震える。しかし、この震えは怯えてではない。今初めて甲子園で……夢に見た舞台で、投げる喜びが訪れたのだ。そう、この震えは歓喜の震え。
白球を握る手にも、力が宿ってくる。
この力は、継投で託された思いであり、優勝を目の前にした喜びであり、今まで戦い敗れていったライバルたちの願いである。その思いが今自分の力となり白球を握る手に力を与えている。
最初から下らないことは考えず、ただ、皆の思いを乗せてキャッチャーのミット目掛け投げ込めばよかったんだ。
快晴の夏空の下、レギュラーメンバーの誰よりも太陽に近い位置で彼は――初心に戻ることに決めた。俺のあだ名は野球バカなのだからと。
もう怖いものはない。
彼の顔は先程と違い、活気に満ち溢れていた。
「プレイ!」
審判の号令と共に、試合が再開される。
そうして歓声も球場全体から湧き上がる。
夢に見た舞台から見る景色は、想像以上に己をかり立たせた。
――やはり妄想と現実は違う。
現実の方が遥かに――面白い。
彼は憑き物を落とすように大きく息を吐き出すと、プレートに足を乗せた。ランナーもバッターも気にしない、己が見るのはキャッチャーのミットただ一つ。
どっしりと構えたミットは、全てを包み込む包容力さえ感じるほどであった。
あそこに、自分の持てる最大限の力でボールを投げ込めがいい。
もし打たれたとしても、バックが守ってくれる。
チームメイトを頼もしく思いながらセットポジションを取る。
一球。
一球で終わらせて見せる。
彼はこの一球に全てをか……
「ヒックッ!」
ける前に……しゃっくりをしてしまい大きく肩を動かした。
…………一陣の冷風が球場全体を駆け巡る。
「嘘だろ……」と会場のどこかしこから聞こえる囁き声。
時間が止まったかのように動かないチームメイト。
相手のチームも口を大きく開け茫然としている。
そうしてその時は、定められた未来のようにやってきた。
「……ボーク!」
あの夏彼は……しゃっくりに泣いた。