宣告2
沢城の存在が部屋から無くなると、静寂が支配する。
また涼平は、無機質な壁や天井を相手に考えにふける。
最後に言葉にしたかったのは、進路の事だった。
十六年の人生の半分以上を音楽に費やして、目標もなく過ごしている日々に悩んでいた。
音楽の道を進んで欲しいという期待に、応えられない自分自身に罪悪感さえ覚えた。
ピアノを弾けば、音楽の道を目指せば、早い話なんだろう。
でも涼平は、もう音楽で誰かを苦しめたくなかった。
2年前の様に…。
「良い先生だな」
誰もいないはずの部屋の窓から、声が聞こえた。
虫の泣き声や外から聞こえた音ではなく、すぐ隣から自分に投げかけられた言葉だった。
それに反応すると、窓辺に見知らぬ女の子が立っていた。
「うわぁぁ!」
咄嗟に反応して後方に仰け反ると、ベッドから落ちそうになる。
「変な声を出すな」
彼女は怯える涼平を、落ち着ける様に穏やかなトーンで話す。
「お、お前は誰だ?何処から入った?」
さっきまで、確実に部屋には自分一人だったし、入り口のドアが開いたら流石に気付く。
「個室とはいえ、大声を出すと周りの人に迷惑だぞ」
「俺の質問に答えろ」
冷静に諭す様に話す彼女に、声を荒げて質問を投げる。
「元々、此処にいるよ」
元々?
ずっと前から部屋にいた、という意味だろう。
「自分は、幽霊とでも言いたいのか?」
そうだ、沢城が入ってくる前から部屋に自分しかいなかったはずだ。
こんな物が少ない空間では、物音一つたてずに、ずっと部屋にいたとしても気付く。
そうなると姿形が見えなかったということになる。
「幽霊か…面白い解釈だね」
くすっと笑ったが、動揺している涼平に冗談が通じないと思ったのか、真剣な表情で彼女は続ける。
「いや、私は死神だよ」
「死神?」
黒い帽子に黒いTシャツに黒の短パンと、本当に黒ずくめで部屋に現れた彼女は、いきなり自分を『死神だ』と言い出した。
妄想癖でもあるのだろうか、関わりたくないな…と、率直に思う。
そんな妄想癖の彼女は、ポニーテールに括っている黒髪も整えられていて、瞳も大きく口も小さい。
沢城の綺麗さと違って、どちらというと身長は小さく小柄で可愛いイメージだろう。
街ですれ違えば、振り返る男性もいるような外見をしている。
ただ自分の事を死神とか言い出す変人であることに、涼平は凄く残念な気分になった。
「その表情は信じていないね」
「当たり前だろ、むしろ信じろというほうが可笑しい」
自分の事をいきなり「私、死神です」なんて言って信じる輩なんて、滅多にいないだろう。
涼平の意見に納得したのか、自称、死神の彼女は少し考えると、涼平のベッドの脇に近寄ってくる。
「なっ…」
身構えるが、それを無視する様に彼女は片付け忘れていた果物ナイフを持ち上げる。
それの切っ先を、自分の胸に向ける。
「お前、何をするんだ?」
「これをこうやってだな…」
「ち、ちょっと待て」
自分に突き立てる様な彼女の動作を、急いで抑止する。
「何だ?」
その涼平の挙動に、彼女が不思議そうに首を傾げる。
もちろん、その後の質問は、
「お前、何をしようとしているんだ?」
「こうやって、自分の心臓にナイフを突き刺そうとしているのだが」
見たままの答えが返ってくる。
「そんなことしたら、死ぬだろう」
当たり前の事に当たり前の確認をする。
「お前が私が死神だと証明しろと、言ったのだ」
「確かに言ったが…」
しかし、それで「はい、そうですか」となるわけが無い。
自称、死神の少女が妄想のせいで、自分の目の前で自殺されたら堪ったものではない。
「じゃあ…」
「あ…」
涼平の抑止も虚しく、彼女は自分の胸にナイフを突き刺す。
まるで水に入れる様に、すっとナイフが肉体に入っていく。
しかし、そこから血が噴き出すわけでも、彼女が倒れるわけでもなかった。
そう、彼女は目の前でナイフを胸に突き刺したままで、平然としているのだ。
「これでどうだ?」
「『どうだ?』と、言われても…」
自慢げに堂々と刺さったナイフを見せてくるのだが、正直にあまり気持ちいいのものではなかった。
しかし、ここまで綺麗に刺さっている様に見えると、疑問を感じる。
こういう事をして、驚かして楽しむ奴の心当たりが一人あった。
「お前、戸松の友達か何かだな…手品で俺をだまそうとしても無駄だぞ」
幼馴染みの戸松は、こういう他人を驚かす事に労力を惜しまないタイプだ。
ドッキリをしかけて、ビックリする人間を録画してネタにしそうだ。
「しかし、凝ったシナリオだな…」
まるで謎を解明した探偵になったかの様に、涼平は胸を張る。
その態度に彼女は深い溜め息をつき、胸にナイフを刺したままで窓の方に向かう。
彼女が窓を開けると、生暖かい風が部屋に入ってくる。
そんなのおかまい無しに、窓の縁に足をかける。
「お、おい…何を…」
「飛び降りて地面に激突して見せれば、お前も信じるだろう」
何を言っているのか理解するのに時間が必要だった。
要するに、彼女は死なない事を証明する為に、地面に落下して見せてみるという事らしい。
「ここ八階だぞ…」
一応、確認する。
「それがどうした?」
「いや…何でもない」
確認虚しく、彼女は平然とした表情で答える。
そんな彼女を止める事さえ、無駄に感じる。
「ちゃんと落ちた後、見ておけよ」
「分かった、分かった!信じるよ!」
彼女の身体が、一度体重を後ろに移動させた時点で、本気で飛ぶ気だと感じて声を張り上げた。
これが妄想であっても無くても、地面に落下した人を見るのが気分が良いわけが無い。
それはさっきのナイフで実感させられた。
「そうか、説明が省けて助かる」
あっけらかんと彼女は、窓の縁にかけた足を元に戻す。
肩で息をしながら、涼平は彼女が死神した前提で話を進める事にした。
「で、その死神様が何の御用ですか?」
「お前は先日、交通事故にあったな?」
「ああ、もしかして俺がもうすぐ死ぬとか…」
確かに、死神が来る理由とすればそう言う事になる。
名前を書いたら人が死ぬ様なノートも拾った記憶も無いし、死神が悪霊を退治している場面を目撃したわけでもない。
「違う」
「そうか、良かった」
彼女の即答に胸を撫で下ろす間もなく、次の言葉を投げかけられる。
「お前はもう一度死んでいる」
「は?」
彼女の言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
今の自分は生きているという事実と、死んだという彼女の証言に矛盾が生じる。
「お前はその事故で命を落としている」
「何を言っているんだ?」
「言葉のままで、他に意味などないぞ」
「いや、俺生きているし、さっきも先生と会話したし…」
事故で死んで意識だけになって、幽体離脱みたいな状態になる事は漫画やテレビの中では、よくあることだろが、実際にさっきまで沢城と話していた事実がある。
話の筋が通らない事に苛立を覚えた。
「お前は一度死んだが生き返らせられたんだ」
「生き返らせられた?…いったい誰に?」
「私だ」
「何の冗談だ?」
笑ってしまいそうになった。
彼女の言っている事は支離滅裂だった。
そもそも死んだだの、生き返らせただの荒唐無稽な話だ。
辻褄が合わない時点で彼女の言葉が、妄想なんだと疑問を持ち始めた。
「冗談じゃない、お前は死ぬ予定ではなかったから生き返らせたのだ」
淡々と喋る言葉にすら、怒りを感じた。
「それで何で俺の前にいるんだ?」
「簡単に言うと、そうだな…お前を試す為だ」
限界だった。
試す?何の為に?
彼女の言葉足らずの理屈は、到底理解出来る物ではなかった。
「もう変な冗談か妄想は止めてくれ、死んだ人間が生き返るわけがないだろう」
そうだ、死んだ人間が生き返るはずが無い。
それは涼平自身が一番よく知っている。
言葉を発して、彼女が無言でいる事に気付いた瞬間に意識が暗転した。
そして、無重力感の後に地面に強く打ち付けられた。
瞼を開けると、地面にひっくり返る形で倒れていた。
「あいてててて…」
急な事で何が起きたか判断出来なかったが、地面に倒れてしまったようだ。
上半身を起こすと、自称、死神の足元が見えた。
ベッドから転がり落ちてしまったのだろうか。
「急に意識が…あれ?」
上半身を起こして、視界の異変に気付く。
上半身だけを起こした際に、見える物が見えない。
自分自身の下半身が映っていないのだ。
感覚だけがそこに存在しているように感じれるのに、視認出来ない。
手を目の前に持ってくる素振りをしても、視界に入る事は無かった。
「なっ…どうなっているんだ…?」
とりあえず、現状を把握しようと、ベッドを掴んで立ち上がる。
こんな不思議な現象が起きているんだ。
原因はこいつ、死神と名乗る彼女の仕業としか考えられない。
「お前、いったい…」
言葉の途中で、もう一つの異変に気付く。
起き上がるために掴んだベッドには、人が横たわっていた。
そう、ベッドで寝ているのは涼平自身だった。
「お、俺が倒れてる…どうなっているんだ?」
「今、お前を仮死状態にして、意識だけを外に出している状態にしたんだ」
幽体離脱とかオカルト番組で、よく取り上げられているやつだろうか…。
すっかり感心してしまったが、そんな場合じゃない。
「何をすんだ!今すぐ元に戻せ!」
慌てて涼平は、彼女に詰め寄る。
しかし、彼女の対応は至って冷静で、
「私の話を全部信じるか?」と、まるで脅迫するようなトーンで返す。
「信じる!信じるから!」
そう涼平が言葉にした瞬間、また目の前が真っ暗になり意識が途切れる。
そしてハッと目を覚ますと、今度は見慣れた無機質な天井が視界に広がった。
「も、戻れた…のか?」
辺りを見回しながら、上半身を起こす。
本当に数秒の事だろうが、意識が無くなると言うのは気持ちが悪いものだ。
「何かまだフワフワしている」
頭を抑えながら、自分の意識をハッキリさせようとするが、彼女はそんなの待ってくれない。
「話を元に戻すぞ」
「その前に、質問がある」
今までの彼女の話が事実と認識せざるを得ない状況で、整理する時間が欲しかった。
だが、どうしても確認しておきたい事があった。
「今度は何だ?話が進まないのだが…」
「俺は生きているのか?」
そうだ、生き返らせたとか、死んだとか色々と言われたが、それが一番大切だった。
しかし、彼女は『そんな質問か…』と残念な表情をして答える。
「…今のところは…という言い方が正しい」
「そうか」
少し肩を落とす。
「それは、一時的に何らかの理由があって、生きている状態に戻されたということだな?」
「そうだ」
「話を戻していいか?」
「ああ」
落胆もして疑問もあったが、その理由の説明を今からしてもらえると思い、それ以上の言及は避けた。
「お前は、別の人間の代わりに交通事故に遭ったのだ」
「身代わりになったというわけか…」
確か、子供を庇って事故に遭ったんだった。
「いや、その別の人間と偶然にも同じ行動をした結果、事故に遭ってしまったんだ」
「どういう事だ?」
「詳しくは分からないが、その日の出来事が原因みたいだな」
彼女の言う、代わりの人間というのは庇った子供ではないようだった。
説明を解釈すると、涼平と同じ様な行動を取るはずだった人間が別にいた―――はずだった。
「それで…」
「ああ、こちらの手違いもあるからな。お前を生き返らせて良い存在かを、確かめる事になった。」
その『手違い』という言葉に苛立つ。
「手違い?」
「そうだ、本当はその人間が来なくて、誰も死なないはずだったんだが…」
「それじゃ、俺がたまたま…」
「そうだな、まさか同じ行動を取る人間が2人もいるとはな、思いもしなかった…」
呆れた様な態度を取る彼女に、限界突破した苛立を隠せなかった。
手違いだというのに、謝罪も反省もない態度に怒りすら覚えた。
「そっちの手違いなのに、やたら上から目線だな」
「私はお前が、死んだままでも一向にかまわんだが、上がお前にチャンスをやると判断したらしい」
涼平は悟った。
今、彼女は自身が『上』という表現を使った相手からの命令で動いていて、本人は乗り気ではないか関心が無いのだろう。
死神だと言うのに、お役所仕事や職務怠慢という言葉がぴったりだ。
「恩着せがましい言い方だな」
「私はお前を殺して、そのまま帰ってもいいんだが…」
しかし、今は彼女のやっつけ仕事に乗らなければならない。
そうしないと、下手すれば死んでしまう。
「分かりました、生き返らせて頂いて、ありがとうございます」
「最初から、そう言えば良いんだ」
偉そうに彼女は、相変わらずの上から口調で話す。
命を預けていなければ、激怒していた所だ。
自らを落ち着かせる為にも、質問を投げようと考えた。
「それにしても、死神にも上下関係があるんだ」
「そこでだ…」
が、無視された。
「お前には他人を一人、幸せにしてもらう」
「幸せに?」
また突拍子もない話が出てきた。
他人を幸せにするなんて、ゴールも何もかも不明瞭すぎた。
人の価値観が様々で、幸せなんてものの尺度は個人差がありすぎる。
「次、お前が私以外に話した最初の人物に、心から幸せを感じさせてみせるんだ」
「どうやって判断するんだ?」
そう、そもそも判定する術が思いつかない。
定期的に、相手にアンケートでも取るとでもいうなら別だが。
まるで誤摩化す様に、彼女は笑って答える。
「それは…笑顔で分かるよ」
「何だ、それ…かなり曖昧だな」
「どちらにせよ、やらなければ死ぬんだ」
支離滅裂な話の後は、ルールも曖昧な人生ゲームだった。
無茶苦茶すぎて、怒る気すら失せる。
しかし、ここで突っ掛かっても、何も始まらないのだ。
今までのやりとりで、それは十分に思い知らされた。
「死ぬのはご免だからな、やるよ」
「懸命な判断だ」
小さく鼻で笑うと、彼女はまた上から言葉を投げつける。
「いちいち、気に触る言い方をする奴だな」
ここまで、他人を苛つかせられるのは一種の才能だとすら思える。
気付くと、窓から入る太陽の光が角度を変え、少し部屋が明るくなっていた。
死神と名乗る彼女の顔は、本当に綺麗な顔立ちをしていた。
ここまで冷徹で無表情だと、人形か何かだと思うくらいだ。
でも反対に、何故か懐かしさも感じられる様な身近さも持ち合わせていた。
「…どうした?」
「何でも無い」
どうも魅入っていたらしい。
凝視して過ぎて、不審に思われたのだろう。
急いで目を逸らす涼平の事など、気に求めず彼女は話を進める。
「ルールは無い、協力者を探しても良いが…」
「こんな事、誰かに話しても信じてもらえるはずが無いだろう」
未だに涼平自身すら、事態を把握してはいない。
こんな突拍子もない話をしても、誰も耳を貸してはくれないだろう。
それどころか、変人か事故で可笑しくなったと言われかねない。
「そうだな…どちらにせよ、私はお前にしか見えない」
それを先に言え、と言いそうになる。
しかし、そんな事よりも大事な事を確認したかった。
「期日とかあるのか?」と、尋ねてみる。
期日が無いと、試練を終わらせられなくても生きていける事になってしまう。
もちろん、タイムリミットはあるのだろう。
「ああ、来年一月一日になるまでだ」
「年内か…もう四ヶ月もないのか」
思った以上に短かった。
桜を眺めたら幸せになる不思議系の少女が対象だったら、完全にゲームオーバーだ。
「他にも質問があれば、私を呼べば姿を見せるよ」
「あんた、名前は?」
そうだ、呼ぼうにも名前を知らなかった。
死神に名前なんてあるか知らなかったが、名前が無いんじゃ呼びにくくて仕方が無い。
涼平の質問に何故か彼女は、少し俯き考えていた。
「『モト』…と呼んでくれれば良い」
「分かった」
思った以上に普通の名前だった。
「健闘を祈るよ、まず相手選びを慎重に行なう事だな」
「言われなくても、分かっているよ」
モトは胸に刺さった果物ナイフを抜くと、机の上に置いた。
ナイフには血の痕はもちろん、刃が欠けていたり、変形している様子も無かった。
「刺さったままだったのか…」
「では、私は失礼するよ」
そうモトが口にして、涼平が瞬きする間に彼女の姿は消え去っていた。