01.登代大橋の子
前のは長くなりすぎて終わりそうもないので没、スイマセン
こちらはちゃんと終われる…はず…
登代彦は孤児であった。
ふた親が何者であったかは知らぬ。
子が親に棄てられたか、親が賊に屠られたか、いずれにせよ登代彦は、物心のついたころにはすでに、同じくして親のない幾人かと、都外れの大橋の下に蝟集って暮らしていた。
河原に棲まう孤児らには、登代彦のように親を知らぬものも多く、皆が皆ろくに口を利けず、己の名も謂えぬ有様だった。
登代彦の名も親より下されたものではない。登代彦はそのころ人が名乗るべき名をもつものであることも知らなかった。
貧し窮した世のなかは、身なし子にはいっそうのこと生きるに難い。
橋上を行き交う都人は、足下の遺孤らに憐れこそ覚えども、我が身の憂えを背に負わば、みな見ぬふりでうつむき行き去る。
まして都はここのほかにも、これと同じ浮児溜まりが数多あり、そのそれぞれにここと同じかそれ以上の数の餓えた孤児がいた。
十あまり居た大橋の孤児は、辛うじて草の根や川虫、まれに屍んでうち揚がる川魚などを食んでいたが、やがて病み衰えて、季節の過ぎるたび一人二人と斃れていった。
二年が過ぎるころには、登代彦のほかに残った最後のひとりがとうとういき絶えた。
長くを共に過ごし、しかしその名もわからぬ女児の骸が、次第に爛れてゆく側らで、人の死も生も未だ知らぬ登代彦は、なに思うことなく寝起きした。
その日、登代彦が常のように腹に入れられるものを求めて河原の石を返していると、頭上より「あれか」「居ったぞ」と声があった。
人語を知らぬ登代彦が、声の言う意味はわからぬまでも、その音にこたえてふり仰ぐと、男が二三、大橋の欄干より身を乗りだして登代彦のほうを指さしていた。
橋の上を往く人が、橋の下の孤児らに目をとめること自体、それまでにないことだった。
どうすべきか考えもつかず、登代彦がそのまま河原に坐りこんで見ているうちに、男らは橋を渡り土手へ回り込み、河原へ下りた。
そのまま足早に、登代彦の側までやって来るなり顔をしかめて
「これはまた汚いな」
「仰せつけとはいえ、御前へ差し立てるにはあまりに……」
「そこの河へでも放りこめば、幾分ましにはなるまいか」
と口々にこぼした。
登代彦がやはり言葉がわからず呆けていると、そのうちに埒が明かぬと男のひとりが、登代彦の腕を掴み引き上げようとした。
この期に及びさすがに怖じた登代彦は、奇、と啼いて男の手を振りほどくと、発条板のごとく跳ね退り、歯を剥き出して唸った。
「やれやれまるで人とは思われぬ。猿か豺のようじゃ」
「縛り上げでもせねば連れてゆけぬか」
「捕り縄の支度なぞして来なんだわ。それよりもこの様で召人に仕立てられるものか」
男らが弱ったようにまた言い合っていると、
「遅いぞ己ら! 聖上をお待たせして一体なにをしておるか!」
と、雷鳴のごとき怒声が頭上より降ってきた。
男らが突然のことにたまらずして身をこごめ、それからそろりと橋を見上げると、そこには鬼の形相をした白髯の禿げ頭が男らを見下ろしていた。
その覇気だけで竦み上がり蒼白となった男らが、もそもそと何か答えようとする前に、
「間怠い奴らめ! よい、儂がゆくからそこでその童を逃がさぬようにして居れ!」
言い捨てるやずしずしと、大橋も揺らがんかという足音を響かせ、たもとへ向かっていった。
三人の男は、今度こそ弱り果てた顔を互いを見合わせ、一同にかぼそい溜息をついた。
待つことしばし、男らは一応言われたとおりに、登代彦が逃げぬよう見張っていたが、登代彦は変わらず男らと間をとって身構えてはいるものの、どうやら己のねぐらを離れいずこなりへか逃がれようとは考えつかぬらしかった。
そうするうちに今しがたの大男が土手へまわってくるのが遠目に見えたが、何やら様子が違っている。
三人が目をすがめていると、あとに続いてもうひとりが姿を現した。
男らはその小さな人影を見とめるや、おどろきふためいてその場に伏した。
大男と比べると、半ばほどの上背しかないようにさえ見える。纏う袿衣の長い裾では、土手を下るにはいかにも難儀で、大男に手を借りてようやく河原へ下り立った。
そのまま大男を従えて、こちらのほうへやってくると、平伏する男らの前で立ち止まった。
「面を上げなさい」
若い、未だ娘と言ってよい年頃の涼やかな声がして、
「聖上……」
男らがそろりと顔を上げる。
「なにも女王陛下御自らが御出座しにならずとも……」
男ら────侍従が女王と呼んだ、齢十四、五と見える娘こそ、この邦を統べる主であった。
名を宵綺比命と言う。
宵綺比命はちらりと、後ろに控えた大男を見やって
「田心があまり恐い顔をして行こうとするから。童もそなたらも喰らってしまいそうで心配になったのです」
言われて近衛頭の田心彦は、先ほどの威をどこへやったか、ものも言わず悄然としている。五十を過ぎてなお隆々とした体躯も、今は心なしか縮んでいた。
「それで」
宵綺比命は改めて侍従らのほうへ向きなおった。
「ずいぶんと手間どっていたようですが、何か障りがあったのですか」
問われて侍従のひとりが恐縮して答える。
「畏れながらこの童奴、身なりの甚だ賤しく見ゆれば、聖上の御目を穢し奉るわけにも参りませぬほどに……
その上かように、その、およそ人の子らしからず、どうやら言葉も解からぬようで、御身に万一があってはと……」
しどろもどろの弁は、宵綺比命の柳眉がかすかに寄るとたちまち萎んだ。
「予はそこな幼子を連れて来よとのみそなたに命じたはず。
連れるべきか否かを判ぜよと云った憶えはありませぬ」
いっそう畏れ入って深々と砂利に額づく男らを脇に、宵綺比命は登代彦のほうへと向かう。
いまだ怖じ気ていた登代彦は、それを見て直ぐまた後ろへ跳び退いた。
「その上かほども怯えさせて。
これならば初めからこの身をここへ運ぶべきでした」
宵綺比命は立ち止まると、険を解いて笑みをつくった。
人と交わりをもたぬ登代彦も、たおやかなその面の意は忽ち察して、強ばった四肢を弛めた。
宵綺比命はふたたび歩み寄り、ついには登代彦の眼前に立った。登代彦はもはや逃がれようとはしなかった。
服装で人を測る術を登代彦はとうぜん持たなかったが、宵綺比命がその身に纏う装束は、地を這う浮浪児には及びもつかぬ雲上の身分を示していた。
しかしそれにも増して、その容姿の麗しいことには、いっそ現世のものとすら思われなかった。
とりわけ背なに垂れた髪絹は、高貴な身分の姫にしては大分短かったが、墨染めに藍のひと滴を零した色の、陽をうけ煌めき流れる様が、登代彦が知る数少ないこの世の美しさ、星屑の散る深い夜空を思わせて、その心を強く打った。
わけもわからず魅せられて、登代彦はぽかんと口を開けたまま宵綺比命の立居姿を見上げていた。
その登代彦を、垢じみて泥にまみれ、虱だらけの子供を、宵綺比命はふわりとその懐に抱き入れた。
度胆を抜かれた侍従らは何やら喚いていたが、それにはとりあわずに、宵綺比命はますます強く登代彦をかき抱く。
抱きすくめられた登代彦は、かつて仲間の孤児らと身を寄せ合い寒をしのいだのとはまるで違う、やわらかなあたたかさと絹衣の肌触り、清らかで馥郁たる香に包まれて束の間陶然としていたが、やがて貴い腕の中で、己が身の汚れに生まれて初めて思い至り、居心地が悪くなって身をよじった。
しかし、
「────、────」
耳元でくりかえし囁かれる、登代彦にはわからぬ言葉の響きに、何やら哀しげなもののあることを感じ取ると、阿、とだけ発してから登代彦は抗うことをやめ、その身と心とを彼女のぬくもりに委ねることにした。