赤色のお習字
1
息子はそっと、ドアを開けた。
「おや? まだ起きていたんですか、お父さん?」
問われた父親はそこでやっと気付いたかのように、頭を上げた。
「お前こそどうした。こんな時間に」
「いや、少し喉が渇きまして」
「なら、その手に持っている物は何だ?」
父親は顎をしゃくった。息子は慌てたようにそれを後ろに隠そうとしたが、やがて諦めて肩をすくめる。
「……小うるさい女どもが寝静まったようなので、ポルノ鑑賞でも楽しもうとしていたところです。――見つかったのがお父さんでマシだったかな」
彼が手に持っていたのは、十八禁のアダルトDVDとボックスティッシュだった。それで何をしようとしていたかは、もはや訊くまでもなかろう。
「そういうお父さんこそ、どうされたんですか? 見たところ何か悩んでいたようですけど」
父親は組んでいた腕を頭の後ろに回し、天井を仰ぎ見た。
「最近起きた事件のことでちょっとな。明日の朝一に捜査会議が開かれるから、頭の整理をしていたのだ」
事件! と息子は目を輝かせる。事件ときたら、それは殺人事件に決まっている。何故なら、彼の父親はT県警捜査一課の陣頭指揮を任されている人物だからだ。ちなみに階級は警視。
「僕でよければいくらでも知恵をお貸ししますが」
「いらん。阿呆の知恵など借りたところで行き着く先は袋小路に過ぎん」
「まあまあ。そんなツンツンしなさんな。息子がする親孝行だとでも思っておけばいいじゃありませんか。
――とりあえず、コタツにでも移動しましょうか。この時期、夜は冷え込みますから」
ふぅ、と父親は息を吐いた。
「相変わらず人の話を聞かん奴だな。誰に似たのやら」
「おやおや」
「ふん。まあいい。しかしどうせなら、酒でも飲みながらやるか。お前の話は酒でも入っていないとついていけんしな」
「なら夜食も作りますか。おコタに入りながら夜食をつつくというのも乙なものです」
「軽いやつで頼む」
「了解」
そして親子二人は部屋を出た。
2
日本酒のワンカップを一口呷ってから父親は語り始めた。
「被害者の名は山田たかし。K高の学生だ。学年はお前と同じで高三。演劇部に所属していた」
息子はちくわきゅうりに辛子マヨネーズをかけながら、
「僕と同い年で亡くなられたのは災難ですね。
遺体の発見状況などは?」
「そう急かすな。タバコくらい吸わせてくれ」
タバコに火をつける間、父親はコタツテーブルの隅に置かれたアダルトDVDを注視した。パッケージにはバストの大きな女性が惜しげもなくそれを晒して扇情的なポーズをとっていた。血は争えんな、と彼は思った。
「死体が発見されたのは被害者が住んでいたアパートの一室。まあ、リビングだとでも思っておけばいいだろう。そこの床に倒れていたところをたまたま訪れた彼の兄が発見した」
「たまたま訪れた、とは? 発見者はたかし君のお兄さんだったのでしょう?」
視線はししゃもに落としたまま、息子が尋ねる。息子はそれに塩を振りかけていたが、父親は一尾横取りし、頭からかぶりついた。
「被害者の兄――名はひろしというんだが――は、すでに結婚して家を出ている。彼は被害者と同居していたわけではないのだ。といっても、たかしのアパートとそう遠くない場所に住んではいるがな。
ちなみに、彼らの両親は海外で仕事をしているとかで、まだ高校生にも関わらず、たかしは一人暮らしをしていた。――事件のことを報告したら、とても後悔されているようだったよ」
「それはお気の毒に。
ところで、たまたま訪れた、ということですが、そういうのは前々から結構行われていたことなのでしょうか?」
ししゃもをかすめ盗られた息子は、ちくわきゅうりを自陣の深いところに寄せて、防御の姿勢を見せた。そしてそれを口の中に放り込んだ。
「頻度的には月に一回のペースで、だ。彼の嫁、娘も連れてな。両親からたまには様子を見に行ってほしいと頼まれていたらしい」
死闘の末、勝ち取ったちくわきゅうりを父親も口に放り込んでみた。彼としてはマヨネーズよりも、塩を振りかけて食う方が好みだったが、まあこれはこれで悪くない。
「死体についてだが、頸動脈損傷による失血死が直接の死因だった。即死ではなかったにしろ、ホトケになるまでそう時間はかからなかっただろう。
凶器は家庭用の一般的な包丁。ひろしに確認したところ、たかしが使っていた物に間違いないそうだから、出所を洗っても意味がない。当然、指紋などの残留物もなかった。どうやら犯人が殺害後、丁寧にふき取ったようでな」
「なるほど。抜け目がない奴みたいですね、犯人は」
感心するかのように、息子は緑茶をずずっとすすった。
「そういえばまだ現場のことについては聞いてなかったですね。
その辺についてはどうでしたか?」
最後のししゃもをかじりながら息子が言った。
父親は吸い終わったタバコを灰皿に押し付け、
「死体には格闘の形跡などは見受けられなかった。恐らく、不意を突かれたところを包丁でスパッとやられたんだろう。
それとは対照的に、部屋はかなり荒らされていたんだが、その様子が少し妙でね」
「……妙、ですか。ははーん。さては素人が物取りに見せかけるために荒らしたとか、そんなところですか?」
父親は頷いた。
「少し煙くなった。換気するか」
立ち上がって窓を開ける。彼はそのまま窓枠に肘をついて新しいタバコに火をつけた。
「部屋が荒らされていたということだが、しかし財布などの金品については手つかずのままだ。そこいらがプロの犯行としてはずさんな印象を受けてな。たぶん、素人が訳も分からずただ荒らしただけなのだろう」
「あるいは強盗殺人に発展することを恐れたのか。確か、強盗致死傷罪が適用されれば、無期か死刑かの二択でしたよね?」
「被害者が死亡していれば、そうなる。犯人がそこまで考えていたかは分からんが」
深夜の涼しげな風がタバコの煙をゆらゆら揺らしていた。心地よい酔い具合だ。
「それにしても、今までの話を聞く限り、犯人はたかし君の知り合いの中にいそうですよね。物取りに見せかけたこともそうですけど、凶器の包丁もたかし君のを使ったわけでしょう? 少なくとも彼が警戒せずに家に上げるくらいには親しかったに違いない」
「俺も同意見だよ。それに、もう一つ示唆的な証拠もある」
振り返らず、外を見たまま父親は答えた。
「示唆的な証拠、とは?」
「たかしの部屋にあったゴミ箱から入念に洗われたビール缶が一本見つかっている。現場はリビングだと言ったよな? 死体が倒れていたのはそこのテーブルの傍だったのだが、その上にはコップが倒れていた。中に入っていたオレンジジュースをこぼして。たかしが死ぬ直前まで飲んでいたに間違いないものだ。そしてそのちょうど対面にコースターが置かれていた」
「つまり、たかし君が首チョンパされるまで、彼がオレンジジュースを、犯人が缶ビールを、互いに顔を突き合わせながら飲んでいた、ということですか?」
「その可能性が高い、というのが俺ら警察の見解だ」
「……ふむ。ビール缶から指紋などは出ましたか?」
「入念に洗われた、と言ったろう。だいたい、指紋が検出されていれば、こんな悩んでなどない」
「たかし君の家にはビールが常備されていたのですか? 彼、僕と同じ未成年のはずですよね?」
「そういうことに関しては真摯だったそうだぞ。ひろしが訪ねてきて飲むときなども、彼は一滴も口にしなかったらしいし」
「ということは、ビールは犯人が外から持ち込んだ……?」
「件のビールはひろしが好んで飲むメーカーとは違っていた。そう見て間違いないだろうな」
3
換気も済んだし、少し肌寒くなってきたので、父親は窓を閉めてコタツに戻った。ワンカップの日本酒は飲みきり、夜食もほとんど片付いている。腹も膨れて酔いもある。このまま寝てしまおうか、と父親は考えた。
「事件についてはこれで全部ですか?」
全部ではない。あと一つ、捜査本部内でも物議を醸した厄介なデータがあったのだが、それをこの目の前の息子に言うと確実に面倒くさいことになることが分かっていた。ここで切り上げるかどうかで父親は迷った。しかし、息子がそれに対してどんな見解を持つのか(ほんのちょっぴりだが。素粒子の半径くらい)気になるのも確かだ。
結局、好奇心には勝てず父親は観念することにした。
「実をいうと、あー、あれだ。被害者が残したメッセージがあってな。えーと、その、あれ」
「ダイイングメッセージ!」
息子は身を乗り出した。父親はそれを手で振り払いながら、
「あー、そう呼ぶんだったか。まあそういう類」
「お父さんも人が悪いですね。そういうおいしいことは最初に言っておいてくださいよ」
こうなるから嫌だったのだ! 息子の目はキラキラしている。
「……そういえば、たかしもお前と同じ人種だったとか言ってたな。探偵小説のファンだったそうだ」
「その言い方は古いです。今はミステリと呼ぶんですよ。せめて本格と言ってください」
「んなことは知らん」
「それで。どんな内容だったんです?」
「それを言う前に、先に状況を説明しておこう。
リビングのテーブルにはペン入れと、折り紙が置かれていたのだが、それらはたかしが首を切られた際の拍子か何かで全て床にぶちまけられていた。彼がメッセージを残したのは床に落ちたそれらを使ってだ」
「ペン入れは分かりますけど、何故折り紙が?」
「ひろしが家族連れで来ることもあると言っただろ。彼の娘がよくそれで遊ぶから置いてあげていたらしい」
「ふむ。メッセージはその折り紙に書かれて?」
「ああ。だが、色は赤だ。しかも、使ったペンは赤の蛍光ペンだった。
いいか? 分かるか? メッセージは、赤色の折り紙に赤の蛍光ペンで書かれていたのだ」
「その折り紙の裏地はどうです?」
「それは普通に白だった。表に色がついて、裏側が白のタイプでな。
そしてついでだから言うが、すぐ傍には薄い青や黄色の折り紙も落ちていたし、ペンも黒色のがあった。にも関わらず、被害者は赤紙に赤ペンを選択した」
「たかし君は即死ではないんでしたっけ? ならそれを選択する時間的猶予はいくらかあったわけですが……。しかし、なるほど面白い」
息子は口角を上げた。
「ですが、とりあえずそれは後回しにして、肝心のメッセージの内容を教えてくれませんか?」
「少し待て」
そう言うと父親は立ち上がって、メモ用紙とペンをコタツの上に置いた。そしてペンを紙に走らせた。
「被害者が残したメッセージは、これだった」
x+2y=37
2x+3y=61
4
「頭痛がしてきました」
「高三がたかが連立方程式を見た程度で弱音を吐くな。しかも一次のだ。お前、学校で何をやっておるんだ?」
「それは聞かない約束です」
「次の三者面談が楽しみだな」
「それは姉さんに頼むことにしましょう」
「さて、ダイイングメッセージが数式というのは予想外でしたが、同時に新鮮でもありますね。お父さん、これにたかし君が何かを続けようとした痕跡などは見受けられましたか?」
「さてな。だが、61の1の部分は大きく尾を引いている形だった。恐らく書き終わってからすぐ事切れたのだろうが、どちらかと言えば、伝えたいことを全て書き切ったから力尽きて倒れた、といった方がしっくりくる状況に思えたよ。少なくとも俺には」
「なら、お父さんの直感を信じることにしますか。
ところで、赤紙に赤ペンということでしたが、肉眼ではどれ程判別できる状態だったのでしょうか? たとえば、全然見えなくて、特殊な光を用いないと判別できないとか」
「いや、そこまでではない。ある程度近くに寄せて注意深く見れば、メッセージの内容は充分に判別できた。ただ、遠目で一瞬見た程度では内容はおろか、文字が書かれていたこと自体が分からなかっただろう」
「お父さんの視力は良かったですよね、確か。ということは、近くでは分かるけれど、遠くからでは何も書かれていないように見える状態だった、と。
うん。分析するには申し分ない条件だ」
息子はそう言って、これからが本番だとでもいうように指を組んだ腕を天へ向かって大きく伸ばし、それからまた再び口を開いた。
「では、そろそろ本格的な分析作業に移ることにします。
とりあえず、時間がかかりそうなダイイングメッセージの解読は後回しにするとして、手始めにこれが本当にダイイングメッセージであるかどうかを検討することにしましょうか」
父親は途方に暮れた。
「これ(息子は数式が書かれたメモ用紙を指差して)がダイイングメッセージでないとすると、たかし君が生前この方程式を計算するためのメモにでも用いたとするのが一番自然な想像です。しかしその一方で、計算のメモのため使用する紙として、折り紙――しかも赤色――をチョイスしたというのは首を傾げざるをえない。裏地が白だとするならなおさらです。百歩譲って赤紙を選ぶ必要性があったとしても、わざわざ見づらい赤ペンで書く必要性はないでしょう。見えなくもない程度であったとはいえ、現場には普通に黒ペンもあったそうですし、そんな修行僧みたいなことするなら、白い紙と黒ペンを使えば良かったんです。
以上のことから、このメッセージはたかし君がのっぴきならない状況で書かざるをえなかったもの――つまり死にぎわに残したダイイングメッセージであることが分かります」
「当たり前だ」
「次に証明しておきたいこととして、このダイイングメッセージが犯人のミスリードではないことを確認しておきます」
父親は頭が融解した。
「一昔前までのダイイングメッセージものといえば、現場に死者からのメッセージが残され、そして探偵がその意味を解読することによって犯人が判明するといった形式が主流でした。ですが現代ではその図式がほとんど当てはまらない。あまりにも多用されたことによって、テンプレ化してしまい陳腐に思われるようになってしまったからでしょう。代わりに最近では、メッセージが犯人、あるいは第三者によって故意に捏造・改変させられ、捜査陣をミスリードするというパターンが好まれているようです。しかし、今回の事件ではこの可能性は当てはまらない。
何故かといえば、もし犯人がメッセージを捏造したのだとすれば、やはり赤紙に赤ペンで書き残したりはしないはずだからです。捜査陣をミスリードしたいだけであれば、そんな見づらいメッセージは必要ありませんし、それを行う合理的理由も存在しません。白い紙、黒ペンで充分です。
よってこの可能性もやはり潰れて、このダイイングメッセージが捏造・改変されていないということが保証されます」
父親はげんなりした。
「俺には自明なことのように思えるが。全く前進しとらんぞ」
「まあまあ。こういう基礎固めは結構重要なのですよ。
ところで、これがたかし君が書いたメッセージとするならば、どうして赤紙と赤ペンをチョイスしたのか。その理由が分かりますか、お父さん?」
「犯人の目を誤魔化すためだったからに決まっておる。処分などされんように」
「そう。死にぎわに被害者が残すメッセージといえば犯人の名前だと決まってますからね。ダイイングメッセージを書き残したと知れば、確実に処分される。そのためにメッセージを暗号化したのでしょうが、それでも見つかってしまえば処分されてしまう公算は非常に高い。
そこでたかし君は一計を案じた。いわば二重の策です。彼は暗号化によって犯人の名を伏せるだけでなく、赤紙に赤ペンでメッセージを書き残すことにより、メッセージそのものを犯人の目から隠そうとした。いかにもミステリ好きが考えそうなことですし、それでも賭けには違いなかったでしょうが、彼はそれに勝った。かくして我々はたかし君がまさに命がけで残してくれたメッセージを得ることができたというわけです」
にこりと息子は微笑んだ。
「前置きが長くなりましたが、これらの議論から一つの重大な事実が確認されました。
すなわち、このダイイングメッセージは被害者たかし君が残した正真正銘、本物のメッセージであり、これを解読することによって犯人の名をただ一つに指摘できる、ということです。
それでは、いよいよ暗号の解読に着手するとしますか」
5
山田たかし・・・・・・被害者。K高三年。演劇部。
山田ひろし・・・・・・たかしの兄。会社員。
くみ・・・・・・ひろしの妻。主婦。
のりこ・・・・・・ひろしの娘。たかしの姪。
井上けん・・・・・・K高二年。演劇部。
四月一日ひかる・・・・・・K高一年。演劇部。
佐藤ゆみこ・・・・・・K高教師。演劇部顧問。
「これが容疑者の一覧表、ですか?」
息子がリストを読み上げながら父親に尋ねた。
「容疑者、とまではいかんがな。今までの捜査線上で浮かんできた被害者と関わりの強い人々に過ぎない。いうなれば、関係者といったところか」
「しかし、それでもこの方々の内の誰かが犯人の可能性がお高いのでしょう?
彼らのアリバイなどはどうです?」
「犯行が可能か不可能かでいえば、全員可能だよ。彼らに事件前後のアリバイはなかったし、現場から遠い所に出かけていたということもない」
「では、動機は?」
「さて、どうだろうな。少なくとも現段階の捜査では大きな確執というものは発見できていない。
強いて言うなれば、演劇部員の井上けんが被害者と小競り合いをしたことがあるとかというのを聞いたが……しかし所詮はガキの喧嘩レベルだろう。殺しにまで発展するとは思い難い」
「分かりませんよ。最近の、僕らの世代はキレると何をしでかすか分からないとされていますからね。
まあ、ですが、動機については棚上げにしておきましょう。今この場で議論して結論が出るものでもありませんし。我々の会合の目的は、その方面でアプローチするのでなく、純粋な論理的側面から犯人を特定、ないしは絞り込むことですから」
「ほう? そんな崇高な目的があったのか。初耳だな」
「よし!」息子は両手で己の頬を叩いた。
「では暗号に取り組むとしますか。
とっかかりとして、この方程式の解を出しておきましょう。未知数がxとyの二つありますが、式も二つありますので、解を求めることが理論的には可能です」
「知ってる」
そこで息子はひいひいふうと、息を吸って吐いてを繰り返し、まるで人類史上解けたことのない数学上の難問にでも取り組むかのように、ペンをがむしゃらに動かしまくった。そしてついにはスマホを取り出した。彼は「クラメルの公式、クラメルの公式」と、質問に対して同じ答えを繰り返すことしか能がない政治家の如く呟きながらこの問題に取り組んでいた。
その間暇だった父親はタバコに火をつけ、それをくわえながら、空になったワンカップや夜食の皿を片づけることにした。
結局、息子が問題を解き終えるまで、父親は片づけをすまし、さらにはタバコを六本吸い終わることができた。
「待たせてしまってすいません、お父さん。ようやく解けました。
この問題の答えは、x=21、y=15です」
「x=11、y=13な」
「え?」
「x=11、y=13。検算してみろ。間違いないから」
沈黙が流れた。
「……ま、まあ、誰にでもミスというのはありますから」
「入試でそのミス、しなければいいな」
「ええ。僕もそう願いたいです」
「願うだけじゃなく、勉強しろ」
「前向きに検討しておきます。
このリストの中には、11や13が分かりやすい形で入っている名前はありませんね。この方たち以外でそういった名前をした人間はいませんでしたか?」
「ないな。まあ、見つけられていないだけかも知らんが」
「なら、誕生日が11月13日の人は?」
息子はすぐ言ったが、父親はゆっくりと頭を振って、
「いい加減、そういう無意味な確認は止めろ。考えがあるんだろう? それを先に言え」
「あらら。見抜かれていましたか。
そうですね、実を言うとこの方程式の解がどんな値だろうとダイイングメッセージ解読には全く関係ありません。ですから、わざわざ解かなくとも良かったのですが」
「それ見たことか。まったく、時間を無駄にするな。
たかしがメッセージを書き残せる時間は限られていた。しかも、まさしく瀕死の状態でだ。そんな奴が11と13を伝えるためだけにこんな数式を書き残すか? いやその前に、まず方程式を組み立てること自体が無理だったろう。いくら簡単な数式とはいえ、矛盾なく式を立てるだけでそれなりの手間が必要だ。死の間際にそんなことができる奴なんて、それこそ生粋の数学者くらいではないか」
「お父さんの言うとおり。11と13という数字だけを伝えたいのであれば、その数字をそのまま書けばいいだけで、方程式の解として隠す必要はありません。
したがって、このダイイングメッセージに必要だったのは、11や13といった数字ではなく、むしろ方程式――数式そのものだったではないでしょうか。
というわけで、お父さん。『赤須しき』さんにお心当たりはありませんか?」
「誰だそいつは。どういうアホな考えをしたらそんな名前が出てくるんだ?」
息子は黙ってメモ用紙にペンを走らせた。
『あかいいろ・すうしき』→『あか・すうしき』→『あかすしき』→『赤須しき』
「くだらん」父親は一蹴した。「あまりにもくだらなすぎて言い返すのもアホくさいが、お前に倣って理屈で返してやろう。もし、この連想ゲームがたかしの目論見だとしたら、数式は一つで良かったはずだ。二つ書く必要はない。このダイイングメッセージは連立方程式である必要性があったゆえに、数式が二つあったのだ」
「お見事。さすがですね。
でも、僕だってこんなのを真面目にしていたわけではありませんよ? 余興のつもりでして」
「余興はもう充分だ。もう夜も遅い。そろそろお開きにしてもらいたいのだがな」
「では、そのご要望にお応えしましょうか」
息子は組んだ手に顎を載せて言い放った。
「山田たかし殺害の犯人は、その姪、山田のりこです」
6
父親は何も答えなかった。
「どうして僕がその結論に達したのか、順を追って説明していくことにします。
まず先程の議論から、このメッセージはたかし君が残した本物のダイイングメッセージであり、これを解読すれば犯人の名が判明するということが証明されたのでした。
ですから僕は、お父さんと話している間中もずっと、このメッセージが意味する内容を考え続けていたのですが、しかしながら、突破口は全く見当たらなかった。
そこで、視点を変えて別の方向性から犯人を絞り込めないかと僕は考えたのです。――目を付けたのはビール缶のことです」
やはり父親は何も答えなかった。息子は気にせず続ける。
「ビールの缶を入念に洗った、というのが僕には何となく引っかかっていました。指紋を消すだけなら布で拭くだけでいいのですから。そのせいで、この事件におけるビール缶というものを必要以上に注目させているかのようです。
――必要以上に注目させる。犯人の目的はそれだったのではないでしょうか?
法律でビールを飲むのを許されているのは、言わずもがな、二十歳以上の成人のみです。現場にビールの缶が残されている。しかもそれは、たかし君が死ぬ直前まで、犯人が飲んでいたものに違いない。こうなった場合、まず疑われるのは大人です。むろん、未成年の飲酒騒ぎが定期的に起こる昨今では、子供の可能性を捨てるわけにもいきませんが、それでも優先的に疑われるのは大人でしょう。
こう考えると、ビール缶は犯人がわざと残した偽の手がかりで、そこから逆説的に考えて、犯人は未成年者だったのではないか。そう結論付けたところで、同時にダイイングメッセージの方もピンときたんです。
お父さん、クラメルの公式はご存知ですか?」
「お前がさっき、ぶつぶつ言ってたやつだな。行列式を使うとかいう」
やっと父親が口を開いた。息子は首肯して、
「クラメルの公式とは、行列式を用いて線形方程式の解を明示的に与える数学定理のことです。この公式、むろん一元の場合にも使えるのですが、たいていの場合は変数が二つ以上ある線型方程式に適用するのが一般的でしょう。つまり、たかし君が残したようなケースについて、というわけです。
ところでこの、クラメルという方――スイスの人らしいですね――は、フルネームを『ガブリエル・クラメル』と呼ぶのだそうです」
「……ちょっと待て。何故そんなに詳しい?」
「そこに食いついてきますか。――ネタを明かしますと、さっきスマホでクラメルの公式を調べる際、ついでに色々と見て回ったんです」
「ふん。通りで説明がウィキっぽいと思った」
「ここで注目してほしいのは、彼のファーストネームである、『ガブリエル』という言葉についてです。ガブリエル――まあ宗教的には色々と含みとか、教義とか、そういうのがある言葉なのでしょうけど、我々のような一般的日本人の宗教観から真っ先に思い浮かぶのは『天使』といわれる空想上の生物のことだと思います。正確には、天使の一人がガブリエルという名をしている、といった方がいいですか。まあ、それはいいとして、ともかく天使です。『てんし』」
「で?」
「彼女の名前、こう書くんじゃありませんか?」
息子は父親が書いた、『山田のりこ』の下に『典子』と付け足した。
「音読みをすれば、『てんし』と読めるでしょう。出典の『てん』に、第四式獅子咆哮死滅粒子始動法の『し』ですから」
「分かりづらい例えだな」父親は眉をひそめた。「お前は、だからこのダイイングメッセージはのりこを指しているのだ、とでも言いたいのか?」
「はい。と言っても、僕がこれを思いついたのは、のりこさんが犯人かもしれないということに思い至ってからですが。彼女が犯人だという前提のもと、ダイイングメッセージを見直して初めて、僕にはこれが解読できたのです。
ビール缶のトリックを用いた際、誰が一番恩恵を受けるのか。演劇部の高校生二人も未成年者であることは確かなのですが、高校生の飲酒というものが珍しくなくなってきた昨今、いまいち効果は薄い。それに対して、たかし君の姪、のりこさんはまだ小学生です。今の社会でも小学生の飲酒というのはあまり聞かないですからね。我々の想定の範疇から大きく外れている。
そういうわけで、僕は彼女が犯人だと仮定し、そしてそれをダイイングメッセージ解読によって立証せしめたというわけです」
一仕事終えたかのように、息子は小さく胸をそって、にやりと笑って見せた(かなりムカつく顔だ!)。しかし父親はあくまで冷静に言い放った。
「それはない。彼女が犯人だとするのは物理的に無理がある」
「物理的? どういう意味ですか、お父さん?」
「お前は一つ、大きな勘違いをしている。
山田のりこは小学生などではない。彼女はまだ四歳の子供なのだ。四歳の子供が包丁を使って高校三年の男を殺害したと見なすのは無理がある。ゆえに彼女は犯人ではない」
7
「……弱りましたね。これはとんだ早とちりをしてしまったようだ」
息子は鼻をかきながら言った。
「そもそも俺は、のりこの歳について言及した覚えなどないぞ。どこから小学生というのが出てきたんだ?」
「たかし君の姪、という単語から無意識的に小学生だと思い込んでしまったみたいです。いやあ、お恥ずかしい。
ですがお父さんも悪いんですよ? ちゃんと年齢について触れてくれないんですから」
「人のせいにするな」
「いえいえ。責任というのは常に他人へ押し付けるためにあるものでしょう?
それはそれとして、お父さん。まだ他に何か言い忘れていることなどありませんか?」
さらりと凄いことを言われた気がするが、父親は気にせず、考え込んだ。
「どんな些細なことでも構いませんよ」
「そう言われてもな」
「お父さんにとっては重要だと思えないことでも、僕の頭脳にかかれば犯人へたどり着くための証拠として使えるかもしれません。ほら、もっとよく思い出して」
「ほざけ。そういうことは学校の成績をもっとよくしてから言え。
だいたい、ほとんどのことはすでに伝えている」
「本当ですか?」
「しつこいな。
あと教えてないことといえば……たかしが演劇部の部長だったということくらいか」
「それ見なさい。やっぱりまだあるんじゃありませんか。
部長、ということは主役を演じることが多かったのでしょうか?」
「いや。そうでもない。彼の主な担当は脚本作りだった。特に推理劇をする場合、そのネタについてはほとんど彼一人で考えていたそうだ」
「そういえばたかし君はミステリフリークでしたね。
なるほど。まさに適材適……」
そこで不自然に言葉が途切れる。息子はカッと目を見開いた後、すぐに頭を深くうつむけて、神経質そうに指で額を何度も叩いた。
こういう奇特な行為は息子にはよくあることだった。こういった行動を見るたびに、息子の知能には何か大きな問題があるのではないかと思わざるをえなかった。そして父親のその疑念はおおよそ当たっていた。
気が済んだのか、彼は行為をやめて頭を左右に大きく揺さぶった。
「――お父さん。いくつか訊きたいことがあるのですが」
「何だ」
「まず一つ。たかし君はダイイングメッセージを書き終わったすぐにご臨終なされたということですが、彼の遺体はペンを握ったままでしたか?」
「ああ。そうだ。死体発見時、彼の右手はペンを握ったままだった。赤のな」
「もう一つだけ。たかし君の演劇部での仕事はミステリのネタを考えることなんですよね? 彼はそのネタに対してどの程度までの秘密を守っていたのでしょうか? ネタバレには全然無頓着だったり、周囲の人に触れ回っていたりなんてことは……」
「いや、その逆だ。たかしはネタバレに関して非常に気を配っていたらしい。特に、作成中の劇のネタについては、話すにしても演劇部の一部にしかしなかったほどだ」
「秘密主義! これは申し分ない。うん。理想的だ」
またろくでもないことを考えたなと呆れている父親をしり目に、息子はあくまで無表情で言い放った。
「お父さん。今度こそ犯人が分かりましたよ。
僕たちは大きな勘違いをしていました。たかし君が残してくれたメッセージ。あれはダイイングメッセージなどではなく、もっと別の何かだったのです」
8
ダイイングメッセージではない? ダイイングメッセージであると証明されたと言ったのはどこのどいつだったか。もはや十数分前のことすら思い出せない息子を持つ父親は、ゆっくりとタバコに火をつけた。
「どういうことか説明しろ。これがダイイングメッセージだと証明したのは他でもない、お前なのだぞ」
「そう責められるのも無理はありません。しかし、もう一度よく考えてみますと、不自然な点がいくつかあるのです」
「というと?」
「何よりもおかしいのは、このダイイングメッセージが犯人の手によって処分されていないことです」
「だがお前はそのためにたかしが赤紙・赤ペンを使ってメッセージを書き残したということに合意した。あれは嘘だったのか」
「いいえ。あれはあれで正しい推理だったのですが、別の方向から切り込むとまた違った見方ができてしまうのです。
たかし君はペンを握ったまま亡くなっていたのですよね? とするなら、たとえ犯人がメッセージそのものを見えなかったとしても、遺体の格好を見れば何かを書き残したということくらいは分かったはずです。そして注意深く周辺を観察すれば、メッセージを発見することもそう難しくはない。近くに寄せてみればメッセージは充分に判別できるものだったのですから」
父親は少し考えた。
「しかし、犯人が死体のペンに気付かなかったかもしれない。もしくは、そこまで注意深く現場を観察する余裕などなく、すぐ立ち去ったか」
「どちらもありえませんね。少なくとも、物取りに見せかけるため部屋を荒らすだけの冷静さは持っていたはずですし、凶器の包丁もそうですけど、何よりビール缶を入念に洗うだけの頭を持っている犯人がその程度のことに気付かなかったとみるのは無理があります」
「ふむ。珍しく筋は通っている」
「それに、瀕死のたかし君が落ちた折り紙とペンの中から赤色のものを選び取ったというのも、今考えてみると苦しいものがある。たまたま彼が倒れている近くにその両方が落ちてきたというのなら分かりますが、しかしこれも都合の良い考えでしょう」
「これがダイイングメッセージではない、ということは認めてやってもいい。
だが、だとするならこれは一体何なのだ? お前はこれがメモ書きの類ではないとも言っていたよな」
「もちろんそれも撤回するつもりはありません。通常の用途で使うならば、白い紙と黒ペンを使ったはずでしょうから。
通常の用途で書かれたものではない。とすると、特殊な用途で書き残されたとみるしかない」
「もったいぶらずに先を言え」
「あれは、ネタ、として使ったんじゃないでしょうか」
ぴくり、と父親の眉が動いた。
「ネタというのは、推理劇のか?」
「それ以外に考えられません。
たかし君はこれをトリックのネタとして使ったのです。正確にいうなら、それをテストするため、人に見せるため、書き起こした。ネタのメモ、というより、ネタの披露、としてあれは用いられたと僕は考えています」
「どうもよく飲み込めん。ネタというが、赤紙に赤ペンで数式を書いてどんなネタのつもりだったのだ?」
「それは先程まで僕が証明してきたことをもう一度振り返ればいい。
僕はこれまで、『これがダイイングメッセージであること』と『そしてそれは犯人が捏造したものではないこと』を証明しました。たかし君はこれと同じロジックを展開させ『ダイイングメッセージを解読すれば犯人が明らかになる』という構成のミステリを書こうとしていたのではないでしょうか。数式はそのための暗号で、僕と同じく『てんし』と読める名前の人を犯人としようとしたのかもしれないし、あるいは全く別の解読法を用意していたのかもしれない」
「そこらへんはまさにお前がやってきたそのものだな」
「そこは甘んじて受け入れざるをえません。
ですが、仕方のない面もあった。ミステリフリークの被害者が、ミステリのネタを犯人に披露している真っ最中に殺害されたのですから、その後の推理が彼の脚本上に沿うような展開だったとしても、それは不可抗力というものです」
父親は手で息子を制した。
「待て。どうしてネタを披露している真っ最中に殺されたと断定できる?」
「理由は二つあります。
一つは、犯人がメッセージを処分しなかったことです。遺体がペンを握ったままにも関わらず、ダイイングメッセージと思しき用紙が処分されなかったのは、犯人がそうではないと確信していたからだと思います。ネタ披露している最中に殺されたのであれば、残された折り紙はミステリのネタであって、犯人の名を示すダイイングメッセージなどではないことは明らかです。
もう一つは、数式の最後の1が大きく尾を引いていたことから推測されます。ペンが紙を離れる前に首を切られれば、最後に書いた文字が尾を引くのも納得できるでしょう。となると、ネタを書いている間に殺されたとするならば、当然その前段階として、被害者が犯人にネタを披露する云々のやりとりというか、会話の流れというか、そういうような経緯があったことが容易に想像できるでしょう?」
父親はタバコをもみ消した。
「込み入ってきた。少しまとめるぞ。
事件前後、たかしはオレンジジュースを、犯人はビールを飲みながらリビングで歓談でもしていた。その内に彼らの会話は『これこれこういうネタを思いついた。実際に見てくれ』というような内容にまで発展した。提案したのはたかしの方で、彼は犯人にそれを見せるため、紙に数式を書き記した。赤紙・赤ペンを用いたのはそれもネタの一環だったから。だが、それが書き終わるや否やたかしは犯人に首を切られて絶命してしまう。むろん、ペンは握ったままで。最後には切られた弾みで、彼の身体はテーブルの上にあった他の折り紙、それからペン入れと一緒に床へと崩れ落ちた――。お前は事件の経緯をこういう風に考えているんだな?」
「ええ。そしてそこからさらに一歩進めることができる。
思い出してほしいのは、たかし君のネタに対する気配りです。彼はネタバレに敏感で、作成中のネタに関しては演劇部、それも一部の信用できる人にしか話さないのですよね?」
「確かにそうだ。となると、つまり犯人は演劇部に所属している人間に限られるわけか」
「それだけではありません。加えて思い出してほしいのはビール缶のことです。
たかし君は飲酒に対して非常にまじめな態度を持っていた。そんな彼の前で演劇部の未成年者たち、それも下級生の部員がビールを飲むことができるでしょうか? ましてやたかし君は部長だったのです。部員がビールを飲もうとしても、権限を用いてそれを阻止したであろうことは想像に難くない。
ゆえに犯人は演劇部に所属しており、かつたかし君の前でも堂々とビールを飲むことができる唯一の合理的人物――」
「佐藤ゆみこ、だったのか。演劇部顧問の」
息子はゆっくりと頷いた。
「それから、これは些細なことなのですが、彼女が犯人だとすることで、ビール缶が入念に洗われていたことも説明がつきます。
指紋を消すためだけなら布で拭き取ればいい。犯人がそうしなかったのは、缶に指紋などの陰性のものではなく、一目で分かってしまうような、いわば陽性の証拠が残ってしまったからなのです」
「――口紅、だな」
「だから犯人はビール缶を入念に洗わなければならなかった。自らが残してしまった赤色の刻印を消すために」
親子二人は口を閉ざした。父親はもうタバコを吸おうとは思わなかった。やがて彼の方から口を開いた。
「お前の推論には、いつものことだが、いくつかの点で危ういところがあると思う」
「おやおや」
「だが、確かめてみる価値はある。動機など不明瞭な部分もあるが、明日からは佐藤ゆみこを重点的に洗ってみることにしよう」
後に分かったことだが、被害者山田たかしと犯人である佐藤ゆみこには健全な生徒と教師が持つべき関係以上の親交が結ばれていた。熱を上げていたのはゆみこの方で、たかしが演劇部の一年女子と新しい関係を結ぼうとしていたことに腹を立て、犯行を計画したらしい。日常よくある怨恨の事件だったというわけだ。
父親はコタツから腰を上げた。
「いい加減、俺はもう寝る。朝には捜査会議があるしな。まったく、お前と討論するといつも思うのだが、寿命が十年くらい縮まる気がする」
「ひどい言いようですね」
「お前はどうする?」
問われた息子はアダルトDVDとボックスティッシュを掲げて、
「僕はもう少し起きていることにします。
おやすみなさい、お父さん」
「そうか。ほどほどにしておけよ」
そして父親はドアを閉めた。
――了――