適齢期
沙希ちゃんのライブ以降、私と美奈ちゃんは、ときどき遊びに行くようになった。
あまりいい顔をしなかった真人も諦めたのか、私を信用することにしたのかは分からないけれど、最近は、
「美奈によろしく」
と言ってくれる。
このことを美奈ちゃんに電話で話したら、
「へえ、真人くん成長したねえ。二丁目に連れて行ったって知ったら、どうするかなあ」
なんて言うので、思わず、
「絶対にやめてよ! 真人には言ってないんだから!」
と強い口調で言い返してしまった。真人が知ったら、どんな行動に出るのか……想像すらしたくない。
あの日、美奈ちゃんと〈aki's bar〉で過ごした時間は刺激的だったし、何より楽しかった。
私にとって美奈ちゃんは、新しい世界を教えてくれる大切な友だちなのだ。会えなくなったりしたら寂しすぎる。
ある日のこと。もう少しで仕事は終わり、という時間に美奈ちゃんからLINEがきた。私の会社の近くで打ち合わせだったという。
《今日は直帰できるんだ。食事でもしない?》
というメッセージに、私は《OK》のスタンプを送信した。待ち合わせ場所はJR表参道駅の改札口になった。
会社を出る前にトイレへ。化粧直しをしていると、
「随分と念入りなのね。さてはデートだな?」
と同僚の由美子に茶化された。
「そんなんじゃないわよ。友だちと食事に行くの」
「ホントに~?」
ニヤニヤしている由美子と鏡越しに目線が合った。
「ホント、ホント」
私は口紅を化粧ポーチにしまいながら言った。
「じゃあ、友だちを待たせてるから、先に帰るね」
「うん、お疲れさま! デート、楽しんできてね」
と手を振る由美子に、「違うって」と言い返そうとしたけれど、やめた。
由美子にはそう思わせておけばいい。私には真人という彼氏がいるわけだし。
私は足早に会社を後にした。
「ちょっといい店を見つけたんだ……とは言っても、この前、取材したところなんだけどね」
美奈ちゃんが連れて行ってくれたのは、表参道駅からほど近くにあるトラットリア。ピーク前だったせいか、すんなりと店に入れた。
窓際の席に案内されてメニューを開いたときに、
「佐藤さん、この前は、ありがとうございました」
とコック・コートを身にまとった、四十代ぐらいの男性が声をかけてきた。
「こちらこそ。今日は友だちを連れてきました」
と言って、美奈ちゃんは笑顔を浮かべた。
「こちら、オーナー・シェフの吉田さん。友だちの近藤さんです」
と美奈ちゃん。
「ようこそ。ゆっくりしていってくださいね。ご注文はお決まりですか?」
と吉田シェフ。
「涼子ちゃん、任せてもらっていい?」
と美奈ちゃんが言うので、私は「うん」と頷いた。
「それじゃあBコースと、赤ワインをボトルで欲しいんですが……お勧めの赤って何ですか?」
と美奈ちゃん。
「そうですね……キャンティ・クラシコはどうでしょう?」
と吉田シェフ。
「いいですね、お願いします」
と美奈ちゃん。吉田シェフは笑顔で頷いて戻っていった。
「慣れてるのね。カッコイイ!」
と私が言うと美奈ちゃんは、
「仕事柄、こういう店には取材でよく来るから、そう見えるだけだよ」
と照れくさそうに笑った。
ほどなく、ウエイトレスがキャンティ・クラシコとワイングラスを持って来て、私たちに注いでくれた。
「じゃ、乾杯しよう」
「うん」
軽く持ち上げたワイングラス越しに、美奈ちゃんの優しそうな笑顔が見えた。
「キャンティって、よく聞くけれど、おいしいのね」
と私。ワイングラスを置いて、生ハムのサラダに手を付けた。
「うん。クラシコだけあって、香りも飲み心地も最高だね」
と美奈ちゃん。ワインを口に含んで、おいしそうな表情を浮かべた。
「ワイン、詳しいの?」
「レストランを取材することが多いから」
「へえ……じゃあ、たくさん飲んでいるのね」
と私。美奈ちゃんは私に顔を近づけきて、
「ネットとかで調べはするけれど、実際に飲んだことのあるワインは少ないの」
と小声で言った。
「そういうものなの?」
思わず私も小声になる。
「全部、飲んでたら、いくらお金があっても足りないよ」
と美奈ちゃん。ペスカトーレを取り分けてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
美奈ちゃんから受け取ったお皿には、貝殻付きのムール貝がふたつも乗っていた。〈ナイフとフォークで取り外すのって、面倒くさい……〉と思いながら格闘していたら、突然、美奈ちゃんが、
「あのさあ……結婚って考えたことある?」
と尋ねてきた。
「結婚? 真人と?」
私はビックリして顔を上げた。
「他に誰がいるの」
「そりゃそうだけど……」
私は、ナイフとフォークを置いてからワインに口を付け、
「この人と結婚するのかな? って、思ったことはあるけれど……何か違うような気がする」
と言った。
「何が違うの?」
「それが分かれば苦労しないわよ。何でそんなことを聞くの?」
私は、美奈ちゃんの口から〈結婚〉という言葉が出てくるとは、思ってもいなかった。レズビアンである美奈ちゃんと〈結婚〉は、結びつかないものの一つだったのだ。
「実はさ、親にお見合いを勧められているんだよね」
と言った。
「え、お見合い?! 男性と?」
私はビックリして聞き返した。
「もちろん男性と。実家が長崎の田舎でね。みんな結婚が早いんだ。だから、二十六歳で男っ気のない私のことを、親はもちろん、親せきじゅうが心配してる」
「それじゃあ、ご両親には……」
「カミング・アウトはしてないよ」
と言ってから、美奈ちゃんはグラスに残っていたワインを飲み干し、自分でワインを注いだ。
「いい迷惑ではあるんだけど、心配する親の気持ちも分かるから……」
美奈ちゃんには、お付き合いしている人がいるんだろうか。私は一度も聞いたことがないことに、今さらながらに気が付いた。
「美奈ちゃんさ……彼女さんは? いないの?」
私が尋ねると、美奈ちゃんは苦笑いを浮かべながら、
「幸か不幸か、独り。二年前に別れてから縁がないんだ」
と言って、ワインに口を付けた。
「そうなの」
「今はパートナーシップを結べる自治体も増えてはきたよ」
と美奈ちゃん。そして、
「今の私に、一生、添え遂げようと思うパートナーがいたら違うんだろうなあ」
と言った。
「添い遂げようと思うパートナーかあ……」
「うん。ストレートの人はどうなのかなと思ってね」
「う~ん……結婚ねえ……」
と言って、私はグラスのワインを飲み干した。
友だちや会社の同僚との間で話題に上る〈結婚〉は、
『パーティ形式の結婚式って、素敵よね』
『海外で結婚式を挙げるのもアリだと思う』
といった軽いノリのものだ。
私には真人という彼氏はいるけれど、結婚の話が出てないこともあって、真剣に考えたことがない。
「まだ憧れの域を出てないような気がする……」
私は美奈ちゃんが私のグラスに注いでくれている、ワインを眺めながら言った。
「ウエディング・ドレスを着たいとか、チャペルで結婚式を挙げたいとか?」
「うん、そんな感じ。美奈ちゃんは? ウエディング・ドレスを着て、バージン・ロードを歩く自分の姿を想像できる? 白無垢でもいいけど」
「え? 私が?!」
美奈ちゃんが驚いた様子で私を見た。そして、
「かなり無理があるよ」
と言った。
「もう一つ聞いてもいい?」
「うん、いいよ」
「嫌な気分にさせたらゴメンね。男性と子どもをつくることは?」
と私。
「それ、なんだよねえ……」
と言って、美奈ちゃんは天井を見上げた。
「どうしても、お見合いしなきゃいけないの?」
「断り切れなくなってきててさ……どうしよう」
と美奈ちゃん。ワイングラスを手に取り、ワインを飲み干した。
私は何と言っていいのか分からなかった。
美奈ちゃんとは原宿駅で別れた。
美奈ちゃんは一番線ホーム、私は二番線ホーム。
階段を上がって向かいのホームを見たら、美奈ちゃんが笑顔で手を振ってくれた。
少ししたら一番線ホームに電車が来た。美奈ちゃんが電車に乗り込むと、どこにいるのか分からなくなってしまった。
この街には、何万、何十万、いや、何百万という人が暮らしている。同性愛者だって相当な人数に上るだろう。
私は、同性愛者は好きな人が同性というだけで、私たちとは何も変わらないと思っていた。環境も改善されてきていると思っていた。
でも、それは間違っていたのかもしれない。
「結婚かあ……」
私は思わず口に出していた。美奈ちゃんのように、親や周りから普通の結婚を迫られる人も多いのだろうか。
『私って同性愛のこと、何も知らないんだな……』
美奈ちゃんと私の間には、越えられない溝があるような気がして、なんだか切なくなった。