初体験
数日後、真人からスマホに電話があって、
「この前は悪かった、ゴメン」
と謝ってきた。いつまでも拗ねているのも大人げないし、真人と連絡を取れないのは、やっぱり寂しい。
「私も言い過ぎたわ。ゴメンね」
と私。
「今週は忙しくて会えそうもないんだ。また電話するけれど……来週、食事に行こう」
「うん、じゃあ、よさそうなお店を選んでおくわ」
楽しみにしてるねと言って、私はスマホを切った。
「なんだかなあ……」
私はベッドに体を投げ出して、独りごちた。
真人とケンカをすると、いつもこうなのだ。たとえ真人自身に非がなくても、数日後には連絡がきて謝ってくる。私を束縛したいはずなのに気が優しすぎるから、ちょっと強く言えば折れてしまう。
もう少ししっかりしてよと思いつつも、私も真人からの電話を待っているのだから、お互い様なのだろう。
もう夜の十時を過ぎていた。そろそろお風呂に入ろうかな、と思いながら体を起こしたとき、スマホが鳴った。
こんな時間に誰だろう……と思って手に取ったら、画面には〈美奈ちゃん〉の文字。私は、
「もしもし」
と言って電話に出た。
「こんばんは、美奈です。夜遅くにごめんなさい」
と美奈ちゃん。
「ううん、大丈夫。この前はありがとう」
「こちらこそ。ところでさ、沙希ちゃんの今度のライブのチケットって、持ってる?」
「持ってないの。取れなかったのよ」
今年の夏のツアーは、
「もっと、みんなを近くで感じたい」
という沙希ちゃんの気持ちが反映されて、収容人数が少ないライブハウスが会場になった。
私は「ファンクラブに入っているから大丈夫」と思っていたのだけれど、ファンクラブ優先チケットの抽選に外れ、一般発売でも取り損なってしまった。
「実は、友だちが急に行けなくなっちゃったんだ。よかったら一緒に行かない?」
と美奈ちゃん。
「え、いいの?」
「うん、私と一緒でよかったら」
「嬉しい! 今回は諦めてたの!」
また真人の機嫌が悪くなるかなと思いながら、私は美奈ちゃんと待ち合わせの時間を決めた。
ライブは二週間後。渋谷で開催される。
美奈ちゃんとの待ち合わせは、渋谷・ハチ公前に午後六時。
少し前に到着してた私は、スマホ片手に、キョロキョロしながら待っていた。
「涼子ちゃん!」
と美奈ちゃんに後ろから肩を叩かれた。
「よかった、分からなかったらどうしようかと思った」
と私。
「ええ? 何で?」
「だって、会うのは二回目だし……」
「スマホもあるのに、心配性なんだね」
と美奈ちゃん。そして、
「真人くんには言ってきた? 大丈夫?」
と尋ねた。
「うん。『分かった、楽しんでおいで』だって」
と私。美奈ちゃんはおかしそうに笑ってから、
「みんなに言われたのが効いたのかな」
と言って歩き出した。
「いつまで効果があることやら」
なんて話をしながら歩いていたら、ライブハウスに着いた。
私たちぐらいの年ごろの人たちが行列を作っている。その横を、スタッフTシャツを着た男性が、
「整理番号順に並んでください。六時半に開場します」
と大声を張り上げながら歩いていた。
「涼子ちゃん、こっち、こっち」
と言いながら、どんどん前の方に歩いていく。
「え!? ホント?」
「うん、私もビックリしたんだけどさ」
と言って見せてくれたチケットには、〈015〉と〈016〉の数字が刻印されていた。
「二列目ぐらいだと思うよ」
と言って、美奈ちゃんは綺麗な笑顔を見せた。
美奈ちゃんの言ったとおり、私たちは前から二列目に立つことができた。沙希ちゃんの汗や息づかいまでも感じられる場所で、ライブを観たのは初めてだった。
「楽しかったあ! 今日のライブは忘れられないわ」
と私。
「沙希ちゃんもノリノリだったよね。私、スマホケースを買いたいんだけど、涼子ちゃんは何か買う?」
と美奈ちゃん。
「私もスマホケースが欲しいの」
「何色がいい?」
美奈ちゃんが、スマホケースの写真が印刷されているパンフレットを見せながら言った。
「私、ピンクがいいな」
「私は黒にしよう……買ってくるね。ちょっと待ってて」
と言って美奈ちゃんは、ファンでごった返しているグッズ売り場へ。私は、ロビーの隅っこの方で待つことにした。
行列に並んでいる美奈ちゃんは、遠目からでもすぐに見分けが付いた。Tシャツの上に、黒とブルーのチェック柄の半袖シャツ、ブルージーンズにショートブーツと、カジュアルで普通すぎるほどの格好なのに、背が高くてスタイルがいいから人目を惹くのだ。
『美奈ちゃんって、女の子にモテるんだろうな』
と思いながら眺めていたら、買い物を終えた美奈ちゃんが笑顔で戻ってきて、
「お待たせ! 涼子ちゃんのはこっちね」
とスマホケースが入った袋を手渡してくれた。
「ありがとう。三〇〇〇円だよね」
と言いながら財布を取り出した私に、美奈ちゃんは、
「これは私からのプレゼント」
と制した。
「え……悪いよ」
「記念に受け取ってよ。その代わりと言っちゃなんだけど……この後、付き合って。飲みに行こう」
と美奈ちゃん。
「うん、いいわよ」
「新宿に行きつけのお店があるんだけど、そこでいい?」
私が「うん」と頷くと、
「じゃあ、行こうか」
と言って、美奈ちゃんは歩き出した。
美奈ちゃんが連れて行ってくれた店は、新宿三丁目の駅から歩いて五分ぐらいの場所にあった。『この辺りって新宿二丁目の近くなんじゃ……』と思いながら横を歩いていたら、
「ここだよ」
と美奈ちゃん。
木製の看板に〈aki's bar〉という店名が。この看板がなければ見過ごしてしまいそうなほど、シンプルな店構えだった。
「こんばんは、空いてる?」
「いらっしゃい、美奈ちゃん。カウンター席が空いてるわよ」
と、カウンターの中から声をかけてくれた女性は、私たちよりも年上……三十歳を少し過ぎたぐらいだろうか。人懐っこそうな笑顔で出迎えてくれた。
カウンター席とテーブル席を合わせても、二十人も入れば満席になそうなほどの小さな店。見たところ女性客ばかりのようだった。
「今日はお友だちと一緒なのね。どこかに寄ってきたの?」
「話さなかったっけ? 今日は沙希ちゃんのライブだったの。こちらは涼子ちゃん」
美奈ちゃんは、スツールに腰掛けながら言った。
「初めまして、涼子です」
と私。
「ようこそ、オーナーの亜紀です。狭い店だけど、ゆっくりしていってね。ところで何を飲む?」
と亜紀さん。
「とりあえず生ビール! でいい?」
と美奈ちゃん。
「うん!」
と私。亜紀さんは笑顔で頷いて、グラスに生ビールを注いでくれた。
私と美奈ちゃんは「沙希ちゃんのライブに!」と言って、グラスを合わせた。
私はもちろん、美奈ちゃんも喉が渇いていたんだろう。一気に半分ぐらいまで飲んでしまった。
「ふう、おいしい。生き返るね」
と美奈ちゃん。
「スタンディングって楽しいけれど、お水が飲めないのがネックよね」
と私。
「え?」
「そんなに荷物が持ち込めないでしょ。沙希ちゃんのライブには水分補給は不可欠よ」
「相本沙希のライブって、そんなに激しいの?」
と亜紀さんが尋ねた。
「うん、沙希ちゃんが『私のライブは有酸素運だからね!』なんて言うぐらいですから」
と言って私はビールに口を付けた。
「だから、普通のライブのときには、スポーツ・ドリンクやミネラル・ウォーターを持って行くんですけど、今回はスタンディングだったから……」
「そういえば、みんな飲み物を持ってくるよね。そうか、どうしてだろうって思ってた」
と美奈ちゃん。
「ええ! ホントに?」
「ライブに行って脱水症状で倒れた、なんてシャレにもならないわよ」
と亜紀さん。
「はい、以降、気を付けます」
と言って、美奈ちゃんはオーバーにかしこまって見せた。
生ビールを早々に飲み干した私たちは、ペペロンチーノとトマトとチーズのブルスケッタを食べながら、私はスクリュー・ドライバー、美奈ちゃんはウォッカ・トニックを飲んでいた。
亜紀さんは、この店を始めるまではバーテンダーをしていたそうで、
「料理はスタッフ任せなのよ」
と苦笑い。
「亜紀さんはバーテンダーなんだから、いいじゃん」
と美奈ちゃん。
「うん。おいしすぎて、飲み過ぎちゃいそう」
私は、少しグラスを持ち上げて笑った。
「ところで、ちょっと気になることがあるんですけど」
と私。少し小さな声で言った。
「何かしら?」
と亜紀さん。
「スタッフの方もお客さんも女性ばかりですけど、たまたま?」
「ああ、それはね……美奈ちゃん、何も言ってないの?」
亜紀さんは困惑顔で美奈ちゃんに尋ねた。
「ゴメン、言いそびれた」
と美奈ちゃん。何か言おうとした亜紀さんに、軽く手を上げて制してから私に向き直り、
「ここね、女性専用のお店なの」
と言った。
「え?」
「レズビアンやバイセクシュアルの女性が集まるお店。ストレートの人でもOKだから安心して」
「あ、それで……」
「ゴメン、黙って連れてきちゃって。それとさ……」
美奈ちゃんは私から視線を外し、ウォッカ・トニックを飲み干してから、
「私、レズビアンなんだ」
と、ちょっと早口で言った。
「この前、真人から聞いたわ」
「え?」
「そういうの、ホントはいけないんでしょう? ゴメンね」
「何だ、知ってたんだ。緊張して損した」
美奈ちゃんは、ホッとした表情を浮かべて、
「ウォッカ・トニック、お代わり」
と亜紀さんに注文した。
「怒らないの? 勝手にカミング・アウトをされるのって、アウティングって言うんだっけ? 嫌じゃないの?」
と私。美奈ちゃんは、ウォッカ・トニックを作る亜紀さんの手を眺めながら、
「嫌じゃないって言えば嘘になるけれど、真人くんも悪気があったわけじゃないと思うから」
と言った。
「ホントに、そう思ってる?」
と言いながら、私はあのときのことを思い出していた。
いつまでも不機嫌な真人が、勝手に話してしまった美奈ちゃんの秘密。あんな真人を見たくなかった。
「私、真人のことを怒っちゃった!」
思わず声が大きくなってしまった。私はスクリュー・ドライバーをグイッと飲み干した。
「ええ!?」
と美奈ちゃん。驚いた顔で私を見た。
「『勝手に私に話していいの? 最低!』って、怒鳴っちゃった」
「何で涼子ちゃんが怒るの」
「だって……」
「ケンカにならなかった?」
「う~ん、ケンカになったというか、ケンカにすらならないというか……」
美奈ちゃんは、申し訳なさそうな顔を浮かべて、
「ゴメンね、私のせいだね」
と言った。
「何で美奈ちゃんが謝るのよ、逆でしょう?」
「そう……かな?」
「彼氏の不手際は彼女の責任。真人は私の彼氏なんだから、一応」
「一応って……」
と言うと、美奈ちゃんはおかしそうに笑った。
私たちの話を聞いていた亜紀さんは、
「涼子ちゃんの方が、一枚上手みたいね」
と言いながら、美奈ちゃんの前にウォッカ・トニックを置いてほほ笑んだ。
〈aki's bar〉を出たのは、十一時を過ぎたころだった。
「遅くなっちゃったね。終電、間に合う?」
と美奈ちゃん。心配そうに私を見た。
「まだ平気よ」
と言いながら、バッグからスマホを取り出したとたん着信が。
「真人からだ……どうしよう」
と私。
「出た方がいいよ」
「こんな場所で?」
「早く! 切れちゃうよ?」
と美奈ちゃんが急かすので、私は戸惑いながらスマホに出た。
「もしもし?」
「やっと出た! 何度も電話したんだぞ。今どこだよ?」
真人の不機嫌そうな声が聞こえてきた。私は『これはヤバイ……』と思いながら、
「ゴメンね、美奈ちゃんと飲んでたの。今帰るところ」
と少し甘え口調で言った。
「スマホぐらい、出てくれてもいいじゃないか」
「バッグにしまってたのよ」
「何でしまってるんだよ」
「何でって……」
何て答えようと思っていたら、美奈ちゃんが私の肩を叩いた。
「ちょっと待って……何?」
「代わって。私から説明する」
と美奈ちゃん。私は、
「美奈ちゃんに代わるね」
と言って、スマホを美奈ちゃんに差し出した。
「真人くん? ゴメン、ゴメン。彼女さん、借りてるよ」
と美奈ちゃん。
「私が涼子ちゃんを引き留めてたんだ。うん、うん……」
美奈ちゃんは私を見て、笑顔を浮かべながら話をしている。
「ライブの後に飲んだけだよ? たまにはいいじゃん。ちゃんと送るから」
という美奈ちゃんの言葉に、私は「えっ?!」と声を上げてしまった。
真人が何を言っているのか気になって仕方がない。スマホに耳を近づけると、
〈……いいんだけどさ。じゃあ、よろしく頼むよ〉
という真人の声が聞こえてきた。
「うん。涼子ちゃんには、家に着いたら連絡するように言うから。じゃあ、代わるね」
と美奈ちゃん。「はい」と言ってスマホを渡してくれた。
「じゃあ、これから帰る」
「うん、気を付けて」
私はスマホを切った。
「美奈ちゃん、ゴメンね。ありがとう」
と私。
「ううん、気にしないで。それにしても真人くん、かなりだね」
美奈ちゃんは苦笑い。
「そうなのよ。最初のうちはそれが心地よかったんだけど、今となってはねえ……」
私たちは、新宿三丁目の駅に向かって歩き出した。
「へえ、心地よかったんだ」
美奈ちゃんはクスリ。
「付き合い始めって、何でも嬉しいもんじゃない」
「まあね、分からなくもないけど」
「そうだ。私を送るって言ってたけど、いいわよ一人で。子どもじゃないんだし」
と私。美奈ちゃんは私に微笑みなかけながら、
「ううん、真人くんにも言っちゃったし。女の子を一人で帰らせるのは気が引けるから送らせてよ」
と言った。
「女の子って……美奈ちゃんもでしょ」
「私を襲う物好きなんていないよ。さ、急ごう」
と言って、美奈ちゃんが私の手を取った。
美奈ちゃんの手のひらが思いのほか大きくて、ドキッとした。
私のアパートに着いたときには、十二時を回っていた。
「もう遅いし、泊まったら?」
と勧めたのだけど美奈ちゃんは、
「女の子の部屋に泊まるわけにはいかないよ」
と首を横に振るばかり。
「駅前でタクシーを拾うから」
と言って帰っていった。
部屋に入ってソファに座ったとき美奈ちゃんの、
「真人くんに電話してね」
という言葉を思い出した。
『ちょっと面倒くさいなあ……』
と思いながらスマホから電話をかけた。ワンコールで真人が出た。
「もしもし? 今帰ったから」
と私。
「お帰り。美奈はどうした?」
と真人。
「アパートまで送ってくれたわ。タクシーで帰るって」
「そうか……悪いことしちゃったな」
「そうよ。今度、おごってあげてね」
「うん、そうするよ」
「じゃあ、私、お風呂に入るから」
「分かった、おやすみ」
スマホを切って、思わずため息。真人に監視されているような気分になってきた。
「あ~、もう!」
考えても仕方がない。そういう人を好きになってしまったのだから。
「お風呂に入ろうっと!」
私は勢いよく立ち上がり、バスルームへと向かった。