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花瓶

作者: 八十島コト
掲載日:2026/07/06

 大阪に単身で赴任してから、早いもので二年の月日が流ようとしていた。

 一昨年の三月中旬、石原達郎は上司から四月一日付けで大阪へ異動するようにと内示を受けた。それには、課長代理という昇格の肩書きも付け加えられていた。達郎はまだ三十三歳だったので、その年齢での課長代理への就任は、同期の間でも群を抜いて速かった。 その意味で、達郎はこの昇格がとても嬉しかった。だが、妻の智子がいっしょに大阪に同行してくるかどうか、半信半疑だった。夫が三十三歳で、妻が三十二歳の場合、夫が転勤になったら、たいてい夫婦そろって転居するものである。たとえ、妻が定職に就いていたとしても、わが国の慣習は、まだまだこの年齢での夫の単身赴任や夫婦の別居を容認していなかった。だから、妻がパートタイマーやアルバイトではなく、きちっとある企業に正社員として勤務していたり、また可能な限り働き続けたいという意志があっても、夫の転勤によって、その意志が貫けなくなる場合がほとんどであった。

 妻の智子も会社勤めをしていたが、会社を退職をしたくないほど、その職業に執着はなかった。また、関西という地域が特に嫌だとか、関西に対するアレルギーがあるというわけでもなく、ましてや子供もいなかったので、夫に付き添って、大阪に行くのはとりわけて抵抗はなかった。

 だから、周囲は、達郎たちが夫婦揃って大阪へ行くものと見ていた。

 だが、現実はそうではなかった。石原夫婦の場合には事情があった。この年の二月、智子の母親が脳卒中で倒れたのである。幸いにも発見が早く、救急救命士の資格を持つ横浜市の救急隊員が駆け付け、すぐに適切な処置がなされたために、一命をとりとめたのである。しかし、右半身に後遺症が残り、松葉杖なしでは歩けなくなり、その後の相当な介護とリハビリテーションが必要となったのである。

 智子の父親は既に他界し、たった一人の姉は北海道に嫁いでいたので、母親の住む実家の近くに住んでいる智子は、当分の間母親の面倒をみなければならなくなった。

 こうして、夫の達郎は大阪への単身赴任を余儀なくされた

 ところで、達郎たち夫婦は、この時結婚六年を経過しており、その生活にはマンネリと気だるい惰性が訪れていた。だから、単身赴任をすれば、毎日妻の顔を見ないで自由気ままに生活が送れるので、達郎はそれも悪くはないと思っていた。元々地方出身者である達郎は、一人で外食をしたり、洗濯をすることには慣れていたので、それさえこなせば、後は気楽な時間が持っていたのである。

 それにあわよくば、二十代の若い女と浮気でもできるのではないか、というほのかな期待があった。だから、単身赴任に対する意気込みは大であった。ただ、智子の手前、それを考えて、ほくそ笑むわけにもいかなかったので、達郎は内示を受けた後、意図的に機嫌の悪いしかめ面を装っていた。その上、母親が病身であるとはいえ、妻の理由で亭主が単身赴任をせざるをえなくなったのは、妻に対する夫の大きな貸しであると言って、智子に対して恩をきせていた。

 智子は、亭主に付き添って行きたかったが、渋々その時の状況に従わざるをえなかった。だから、亭主を大阪に単身赴任させていることを、いつも恥ずかしく思っていた。


 平成五年も一月末を迎えようとしていた。世間ではたいていの企業が、毎月二十五日が給料日であるが、達郎が勤務する会社も例外ではなかった。その日、給与明細をもらった達郎は、それを開封もせず、昼食を食べた後、銀行ATMに直行した。御堂筋沿いにある都銀の現金自動支払い機には、今日振込まれたばかりの給料を引き出そうとするサラリーマンやOLたちが長い列を作っていた。

 達郎は、その日の夜、以前から目を付けていた総務部の吉沢美里と食事をすることになっていた。美里は入社三年目の二十五歳で、中肉中背よりやや細身だったが、ほど良い胸のふくらみが、形の良い上向きの乳房を連想させた。すらりと伸びた細い脚が、タイトなミニスカートときれいに調和していた。多少茶色味がかったつやのある長い髪が、背中を十センチほど隠していた。目鼻立ちが整っており、総合的に判断しても、かなりの美人の部類に入るものと思われた。したがって、多くの男性に言い寄られているものと推測された。しかし、こういう美人に限って、ろくな男と恋をしていないことが、多々あるので、恋人がいようがいまいが、達郎の気にするところではなかった。それに達郎自身が妻帯であり、浮気の相手には別に恋人がいた方が、こちらに没頭されることもないので、むしろ都合が良かった。

 美里は、昨年の十一月頃から達郎のいる営業部営業第二課に、総務関係の書類を届けるために、顔を出すようになっていた。彼女は、それらの書類を直接課長に渡すのであるが、課長が不在の時は、必ず課長代理である達郎に手渡して行った。

 達郎は、美里を見た瞬間、自分の好きなタイプだと思った。

 男は、女を第一印象で好きになるものである。その意味で、その現象はネクタイを選ぶ時と同じである、と達郎常々は考えていた。というのは、男がネクタイを選ぶ際、何十本という中のうちから、最初にぱっと見た瞬間、気に入ったものが一番良く、第一印象で気に入らなかったものは、いくら眺めていても、着用する気にはならないものである。男が女を好きになる時もこれと同じで、初めから好きでないタイプの女は、後から好きになることはほとんどなかった。

 これに対して、女は若干違って来る。女は男を好きになる時、最初は何とも思わなかったとか、初めはどちらかというと嫌いなタイプだったのに、後になって好きになることがよくある。最初の第一印象は悪いのに、後から男を好きになることがある。

 達郎は美里を見た瞬間、こいつを抱きたい、と思った。三十過ぎの妻帯者であれば、自分の好みの若い女を見たら、そう思う者も少なくないだろう。

 達郎は、初めのうちは、美里に対して、書類を持って来てくれた時など、はい、ご苦労さんと言う程度で、視線も合わせずにあえて気があるような素振りは見せなかった。だが、そのように対応していながらも、機会があったら夕食にでも誘ってやろうと考えていた。その機会というのは、つまり他の社員に気付かれない、二人っきりの状況になるということであった。

 ただ、せっかくその機会が訪れても、美里が好ましい反応を示さなければ駄目である。つまり、好結果を得るには、達郎に対して好意を寄せていなければならない。課長や部長ぐらいになれば、図々しくもなるだろうが、まだ課長代理の達郎としては、誘いをかけて失敗して、その後の女子社員との気まずい状況を考えた場合、勝算のない勝負に討って出るわけにはいかなかった。

 美里が達郎の所へ来るようになってから、一ヵ月が経過した頃、達郎は意識的に美里を見つめたり、笑顔で迎えたりした。ある時は、あらかじめ購入しておいた飴やキャンディーを手渡したりして、美里の反応を見た。すると、美里の耳がほんのりと紅くなるのがわかった。これなら、いけるかもしれない。達郎は即座にそう思った。それに、その頃を境にして、美里の化粧がいくぶん濃くなったような気がした。自分のために化粧を濃くしてきたのだ、と都合の良いように考えた。過信し過ぎとも思えたが、とりあえず、後はその機会を待つことにした。

 それから待つこと一ヵ月、やっと先週その好機が訪れた。達郎が金曜日の三時頃、得意先を回るために、外出しようと一階に降りたら、売店で書類を抱えた美里が買物をしているのが見えた。達郎は、何も買うものがなかったが、売店に行き、とりあえずまだ読んでいなかった週刊誌を掴んだ。この間、わざと美里には気がつかない振りをしていた。すると、こんにちは、と小さな声ではあったが、美里の方から話しかけてきた。達郎は、この時ぞとばかり、雑談をしかけた。

「いつも悪いねえ、書類届けてもらって」

「いいえ、私も机に座ってばかりいるので、ちょうどいいんです」

 山梨出身とはいえ東京弁を話す達郎に対して、美里は言葉そのものは標準語を返したが、明らかに関西弁のイントネーションが残っていた。それが京都弁なのか、神戸弁なのか、あるいは河内弁なのか、達郎には判別できなかったが。

「こんな所で、買物しちゃって、さぼってるなあ・・・・・・」

 達郎は、悪戯っぽい眼差しを投げかけた。「すいませーん、おなかがすいちゃって、皆で食べるお菓子を買っているんです」

 美里は、若い娘特有の甘えるような声で言い訳をした。

 美里の左腕には、菓子が二袋抱えられていた。

 売店の店員から釣り銭を受け取った後、達郎は二、三歩歩き出した。美里もそれに引きつられて、歩き出した。達郎は、売店のおばさんの視線を意識して、わざとそこから遠ざかったのである。売店の店員とはいえ、どこで誰とつながっているかわからない、用心にこしたことはなかった。

「皆でお菓子食べるっていうことは、あの大山さんもいっしょ・・・・・・」

 達郎は、わざと顔をしかめて言った。大山というのは、総務部のベテラン独身者で、猛烈に性格が歪んでいて、器量も悪い中年の女のことだった。若手の女子社員からはお局とか主とか言われ、その悪評は社内中に広がっていた。

「は、はい・・・・・・石原課長代理も、大山さんのことご存じですか」

「皆、お局とか言ってんだろう・・・・・・」

「は、はい・・・・・・」

 美里は素直に答えた。

「え、やっぱり、ほんとに言ってんだ・・・・・・実は俺、大山さんと親戚なんだ。今度会ったら、吉沢美里がお局って言ってたって、言っておくよ」

「え、ほんまに、ご親戚なんですかあー」

 驚きの余り関西弁が出た美里は、その場に立ち止まった。そして、見る見るうちに顔が硬直した。

 それを見て、達郎はわざと顔を険しくした。そして、周囲には誰もいないということを確認して、

「嘘だよー」

 と言っておどけてみせた。

「もう、脅かさないでくださいよ・・・・・・」

 胸を撫で下ろした美里は、ほっとしたのかニコニコしていた。

 この好ましい雰囲気を達郎は逃がさなかった。

「もし、良かったら、来週あたり、晩ご飯でもいっしょに食わないか、おごってあげるよ。どうせ俺、一人で外食しなきゃならないし・・・・・・」

 達郎は、美里を夕食に誘いながらも、それは毎日の外食のついでであり、自分が美里に好意を寄せているからではないのだ、と言いたかった。また、その方が美里も誘いに乗り安いと思われた。

「ええ、私なんかに、ご馳走していただけるんですか・・・・・・」

 美里の反応には、ためらいも躊躇もなかった。夕食は翌週の月曜日、つまり本日二十五日と決まった。


 銀行のATMをボーっと眺めながら、達郎は先週のシーンを回想していた。そして、次に美里の裸体を想像した。胸、腰、脚、その描写は美里のからだ中全てに行き渡った。

 考えてみれば、一昨年の四月に大阪に来て以来、当初の目論み通り浮気を現実のものとして実行することができずにいた。それまでの東京での六年間の結婚生活でも浮気をすることができなかった。結婚後二年間ぐらいは、他の女と寝ることにさしたる欲求はなかったが、年々欲求が高まっていた。その頂点に達した頃の単身赴任だったので、まさに渡りに船だった。

 ところが、その単身赴任生活もふたを開けてみれば、期待通りに物事が進まなかった。初めのうちの三ヵ月間は、新しい職場に慣れることに精一杯だった。おまけに地域柄、東京弁を話すと相手が胸襟を開かないので、一日も早く関西弁を習得しようと躍起になっていた。東京なら、関西人はそのまま関西弁を話すくせに、こういう連中に限って、関西で東京弁を話すと、露骨に嫌な顔をするのであった。下手でも良いから関西弁を話すことによって、取引先にはその努力の跡を評価されるのである。これにはずいぶんと気を使った。

 一方、達郎の上司の部長と課長との人間関係にも気配りを怠れなかった。

 達郎の仕える部長の富山は、次には一応重役の席が待っているので、それを意識してか、本人の実力は別として、右往左往していた。それまでの功績は達郎にも良くわからなかったが、社内での富山部長の評価は真っ二つに割れていた。ただ、悪い評価を下す人たちの傾向をみると、比較的仕事のできるタイプの社員で、新しいものにどんどん取り組んでいこうとする前向きの者に多かった。これに対して、富山部長を良く評価する人種は、古いタイプの人間で、仕事のめり張りがつかず、夜は用もないのにだらだらと会社に居残り、挙げ句の果てには、缶ビールを買って来て、デスクで宴会を催すような輩が多かった。こういう連中の先導役が富山部長だった。

 もう一つ富山部長には変わった経歴があった。それは以前新聞記者をしていたということだ。十年前まで、某新聞社の社会部長をしていた。その時、社内の派閥抗争に破れ、閑職に追いやられそうになったところを、大学の先輩である現在の会社の副社長に拾われたということであった。だから、営業部長とは名ばかりで、仕事ができず、むしろ社内の荷物になっていた。おまけに、アル中で、ぼけも始まっていたので、部下の間では”アル中ハイマー“と呼ばれていた。また、哀しいことに新聞記者時代の悪弊が抜け切れず、朝の出勤時間は守らないし、机の上には足を上げる、昼寝はするし、夜はビール片手にエンドレスで会社に居残り、電車で帰れるのにもかかわらず、タクシーチケットを使って帰宅する。家までのタクシー代の一回の料金が一万五千円、ひと月二十日間で実に三十万円を費消していた。部長の富山は、新聞記者の常識が、社会の非常識であることに気がついていなかった。

 達郎は、この新聞記者という人種には嫌な思い出があった。入社三年目から五年目にかけて所属していた宣伝部時代に、達郎が担当していた商品のテレビCMに起用したタレントが大麻不法所持事件を起こした。この時、ある新聞社の社会部の記者から、夜中の一時に電話でたたき起こされた。大麻を吸うようなタレントをCMに使っていた企業としての責任をどう考えているのか、との質問だった。この日夜、たまたま、宣伝部長や課長が捕まらず、仕方なく達郎の家にかけてきたのである。

 この時、達郎は新聞記者というのは、本当に常識のない連中だと思った。

 何も初めから大麻をやるとわかっていたら、そんなタレントをCMに起用したりするわけがないだろう。起用したタレントが、たまたま起こしてしまったのだから、責任はと言われても答えようがなかった。それも、非常識な深夜帯の時間に電話をかけて来なくてもよいだろう。どうしても、コメントを朝刊に間に合わせたいのだろうが、夕刊になったって、世の中が引っ繰り返るほど困ることでもあるまいし・・・・・・達郎は新聞記者に対して、呆れ果てた、そのような嫌な思い出があった。

 ところで、この常識のない元新聞記者の富山部長の行為は、当然経理当局や営業部の担当役員にも知れ渡っていた。しかし、自己改革のできない哀しい社員として、彼らには相手にされていなかった。

 また、社内では、富山部長を生ゴミと言う者があったが、達郎は彼を生ゴミ以下だと考えていた。何故なら、生ゴミならまだ再生がきくが、もはや彼を再生させるのは百二十%不可能だったからだ。

 部長がこのような体たらくだったから、その下に属する第一から第三までの各課長には、逆に精鋭が配置されていた。人事当局も営業部担当専務も、そのあたりには、当然のことながら十分に配慮していた。

 達郎の所属する営業第二課の梶本課長は頭の回転が速く、猛烈なやり手だった。その営業手腕は、大阪支社内はおろか、東京の本社内にまでとどろいていた。次の定期異動では、そのまま大阪支社営業部の部長に昇格するか、東京本社のしかるべき営業セクションの副部長クラスに抜擢されるものとみられていた。

 直属の課長が、仕事の上ではこのような好人物だったから、その意味では達郎もやりがいがあった。課長のスピードについていけば、自分の道もこれまで以上に開ける。それに、東京の人事部長の話では、梶本課長から是非とも優秀な社員を部下の課長代理として、大阪によこしてくれ、という要求があったので、同期の中でも一番成績の良い、達郎が選ばれたということだった。だから、梶本課長の期待は裏切れなかった。

 達郎は、課長との良好な人間関係の構築と円満な遂行に全力を挙げて取り組んだ。だから、とても愛人を作って浮気をするなどという余力はなかった。

 そうはいっても、単身赴任の生活もこの四月が来れば、三年目を迎えるので、そろそろ当初の目的を達成しようかと思っていた。最近では、今の単身赴任という恰好の条件を逸したら、一生浮気なんかできないのではないか、と思うようにさえなっていた。少し弱気がみえ始めていたのである。

 大阪に転任して以来、妻智子との夜の交渉は半年に一回ぐらいの割合だった。元々智子はそれに関して、興味や欲求を抱いていなかった。それに、こどもも好きではなく、産みたがってもいなかったので、この点において、智子にはさしたる欲求不満は蓄積されていないようだ、と達郎は認識していた。

 ATMの順番が回ってきた。金を引き出すと、いつもの給料日の午後より多くの残金があった。毎月妻の智子が住宅ローンの代金を別な銀行の口座に振込むために、給料日の午前中には、達郎の給与振込みの口座から五万五千円ほど引き出すのが慣例となっていたからだ。智子のやつ、まだおろしてないな、と思いながら、達郎は今夜の軍資金として三万円ほど引き出した。

 キャッシュカードを財布にしまうと、再び美里の顔が浮かんだ。今夜いきなりホテルに誘うのは強引過ぎる。とりあえず飯を食べて、二度、三度と回を重ねてからホテルなり、自分のマンションに連れて行くべきだろう。ただ、過去の経験から、余り慎重に行き過ぎると、飯をご馳走してくれるただのおじさんで終わってしまうので、そこは注意しなければならなかった。恋愛を大事に運ぼうとし過ぎると、せっかく微笑みかけている運命の女神にも、見離されてしまう。

 楽しみはこれからだな、と美里の裸体を想像しながら、達郎が銀行のキャッシュコーナーを出た瞬間、胸ポケットに収納しているPHSが鳴った。

「はい、石原ですが」

「あ、課長代理ですか、後藤ですが、たった今、北海道のお姉さまからお電話がありまして、至急折り返しかけて下さるようにとおっしゃっていました」

 電話は、課員の後藤京子からだった。

「え、北海道の姉から・・・・・・」

 今までに、北海道の義理の姉である聡子から、達郎の会社に電話がかかってくるようなことは一度もなかった。

「はい、確かに、そうおっしゃっていました。ずいぶん、あわてているご様子でしたよ」

 達郎は後藤との電話を切った。PHSでは遠距離の北海道にはかけられないので、公衆電話を探した。近くの電話ボックスにはあいにく人が入っていた。ちょうど信号が青に変わったので、御堂筋を渡り、駅前第三ビルの中に入って、公衆電話を取った。三度目のコールで、聡子が出た。

「あ、達郎さん、大変なの、智子が交通事故に遭って、重体らしいの・・・・・・」

「え、智子が・・・・・・」

 突然の知らせに、一瞬達郎は次の言葉が出なかった。

「そ、それで、け、けがはどこなんでしょうか」

「頭を打ったらしいの・・・・・早く行ってあげないと・・・・・・母は、あのからだですけど、どうにか歩けますから、とりあえずタクシーと新幹線で今病院に向かっています。私もすぐに立ちますから、達郎さんも急いでください」

 妹が交通事故にあって、重体におちいっている、聡子の狼狽している様子が声から伝わってくる。

 達郎は、羽田行の飛行機の便の出発時間を反芻していた。伊丹と関空とに分かれているので、この梅田からは伊丹へ行く方が速かったが、飛行機の時間によっては、関空へ行って、乗る方が速く到着する場合もあるので、双方の出発時間を手帳を開けて確認しようとした。

「病院は、どこですか」

 達郎も、このまま会社へは戻らずに病院へ直行しようと思った。

「金沢にある、金沢第五病院という所です。駅の近くらしいです」

「か、金沢!」

 智子は、どうして金沢にいるのか。達郎は、驚いた。

「母の話だと、お友だちと一昨日から旅行に出かけているらしいの・・・・・」

 東京ではなく金沢・・・・・・それなら羽田行きうんぬんの話ではない。金沢に一番速く到達する手段を改めて考え直さなければならない。

「とにかく、急ぎます」

 と言って、達郎は電話を切った。

 金沢・・・・・・

 智子が交通事故に遭遇した場所が金沢であることが、達郎は不思議でならなかった。


 結局達郎は、JRを利用して、金沢に向かった。けれども、金沢第五病院に到着した時には、既に智子は死亡していた。享年三十四歳だった。

 警察の話では、智子は、歩行者用の信号機が青の点滅が終わり、赤になった時に飛び出したところを、左折してきたライトバンにはねられたとのことだった。歩行者用の信号機が赤とはいえ、横断を終了しきれない歩行者や飛び出してくる者がいることは十分に予想されるので、車を運転していた者の前方不注意ということだった。智子に連れはいなかった。

 一方、医師の話では、智子は車にはねられ、地面に叩きつけられた時に、左の側頭部を打ち、頭蓋骨が陥没し、病院に運ばれてきた時には、意識がもうろうとしており、緊急手術の最中に死亡したとのことだった。

 達郎は、警察と医師の話を聞きながら、智子は友だちと旅行に来ているのであれば、どうして、その友だちがいっしょにいないのか、気になっていた。友だちとは、どこかで別れて、その後に事故に遭ったのだろうか・・・・・・たいてい女性同士が東京から金沢など遠隔地に旅行に来た場合、親戚や知人がいる時を除いて、途中で別行動をとることは、ほとんどありえない。それに、智子は、どこへ行くのにも、ふだんから友だちといっしょに行動しており、一人で旅に出たことなど、学生時代を通じて聞いたことがなかった。

 この点は、智子の母も姉の聡子も同感だったらしい。金沢市内にある葬儀屋の車で、智子の遺体を東京に搬送する途中、その話題になった。母の話によると、智子は友だちと行くとだけ言っていたので、誰といっしょに行ったのか、わからないということだった。

 ただ、達郎には、智子の親しい友人に、二、三人心当たりがあった。中でもよく旅行していた友だちに、伊藤千絵というのがいた。もしかしたら、彼女といっしょだったのではないかと思った。だが、一人ずつ、智子といっしょだったか、と尋ねるわけにもいかないので、彼女たちには単純に智子の死亡を連絡して、その反応を見よう、ということで三人の意見が一致をみた。

 達郎たちを乗せた車は、夜明けの高速道路を、東京方面に向かって突っ走っていた。


 弔問客は突然の訃報に茫然となっていた。達郎が連絡した智子の全ての友だちは、一様に驚き、涙していた。だから、少なくとも達郎が知る限りの智子の友人の中には、今回智子と金沢に同行している者はいなかった。

 幸いにも弔問者の中で、智子が金沢旅行の最中に災難に遭ったと聞いて、それに対して疑問を呈する者は誰一人としていなかった。 どうやら、疑問を持っている者は、達郎と母親と姉の三人だけだった。しかし、通夜から葬儀が終了するまで、達郎はその二人とその話題には触れなかった。もっとも達郎を除いて、母と姉との間では、その件について話がなされていたかもしれないが。

 結局、達郎が会社に出勤したのは、智子が死亡してから、十一日目の二月四日の木曜日だった。土、日をはさんでいたので、会社を休んだのは七日間、これはちょうど妻が亡くなった時の忌引きの日数だった。

 周囲の者たちは、口々に弔慰の言葉を発していた。

 総務部の美里とは、偶然帰宅途中に梅田の丸ビルの前でいっしょになり、食事のキャンセルを詫びると、事故当日の日に、達郎のいる営業第二課に書類を届けた時に、課員から達郎が早引きしたことを聞かされていたので、待ちぼうけをすることはなかった、と言っていた。

 達郎は、美里のミニスカートから伸びる脚を見ながらも、何故か性欲が湧かなかった。この何日間もの間の一連の作業に疲弊しきっていたからだ。

 地下鉄の梅田駅で美里と別れ、その後ろ姿を見ていると、妻の智子の姿とオーバーラップした。交通事故で頭を打ち砕かれた智子がかわいそうでならなかった。そう思うと、涙が出てきた。だが、人込みの中で涙を見せるわけにはいかなかったので、目をつぶって、涙の蒸発を待った。しばらくして、目を開けたが、蒸発しきれない涙がするりと頬をつたわった。

 達郎は、この時、自分が本当に智子を愛していたことを実感した。         

 この週の金曜日の夜、達郎は飛行機で帰京した。

 近頃では、新幹線よりも飛行機の方が、街の金券屋の実勢料金が安かったので、達郎はもっぱら飛行機を利用していた。この先、香典返しの作業やら、四十九日の法要やらで、何かと帰京する機会が多いので、交通費もばかにならないから、金券屋で飛行機の回数券を買い込んでいた。

 横浜のマンションに戻ると、ちょうど智子の母親が来ていて智子のアルバムを見ながら泣いていた。

「お母さん、大丈夫ですか。哀しいのは僕も同じですけど、あんまり気を落としちゃ、お母さんのおからだにも差し障りがありますから、元気を出して下さいね」

「・・・・・・ええ、わかっていますよ・・・・・・」

 右半身が不自由な母親は、左手で涙を拭いていた。

「ところで、達郎さん、このアルバムの続きを知りませんか。これ、去年の四月で終わっているのよ」

 見ると、年寄りの几帳面さからか、母親は智子のアルバムを古い順番に並べていた。

 達郎も思い出が沢山詰められているアルバムを順にめくった。

 それらは達郎との旅行、女友だちとの旅行の写真が中心だった。智子とは学生時代から付き合っていたから、彼女の行動はほとんど把握していた。少なくとも、自分以外の男と旅行するようなことはなかった。智子は、達郎が初めての男だったから、他の男を知らないはずだ、と達郎は確信していた。

 アルバムを順番に見ていくと、一番新しい物でも、去年の四月二十八日だった。友だちの伊藤千絵と青森の弘前に桜を見に行った時の情景だった。写真はそれで終了しており、次のページ以降にはまだ収容するスペースが空いていたが、何も入っていなかった。

「これで、終わりじゃないのかなあ・・・・・・」

 達郎は、智子のアルバムの保存の仕方に関して、今まであまり関心がなかった。

「去年の夏の長崎や秋の四国なんか、あっても良さそうなのにねえ・・・・・・千絵ちゃんといっしょだったはずなのにねえ・・・・・・」

「撮らなかったんじゃないですか」

「・・・・・・」

 義母はまだ涙を拭いていた。

「今夜、この古い方のアルバム、持って行ってもいいかい」

「ええ、いいですよ」

 達郎は、智子の学生時代のアルバムを三冊持ちながら、義母を家まで送った。義母の家、つまり智子の実家は歩いて二分ほどの所にあった。

 部屋に戻って来て、テーブルの上に並べられた智子のアルバムを改めてめくってみた。 最後の写真は、去年の四月末、伊藤千絵との弘前旅行。母親とは違って、別段それに対して、達郎は何とも思わなかった。それより、どうして智子は金沢に旅行したのか、いっしょに同行したのは誰なのか。義母には友だちとだけ告げており、今だに誰なのかわからない。

 通夜と告別式の日に、智子といっしょに金沢に旅行していたと名乗りをあげてきた者はいなかった。別にやましくはないことなので、普通なら主人の達郎に対して、弔慰のついでに、旅行中の思い出話などを教えてくれたって良さそうなものだった。

 まてよ、ということは、いっしょに同行した者は、何だかのやましさがあるので、夫である達郎に名乗り出ることができないのではないだろうか・・・・・・

 達郎は、もう一度通夜と告別式の日に出席者が記入した帳面をめくった。その中には、会社名や帰属している組織を書き添えていない者など、達郎の心当たりのない名前が十八名あった。女十一名、男七名だった。

 翌日の土曜日、この十八名を義母に尋ねたところ、親戚が男二名、女三名、町内に住む義母の友人が男二名、女三名、そして、智子の付属中学時代からの友人が新たに一名判明した。これで残りは、男三名、女四名の合計七名だった。

 おそらくこの七名は、智子の勤務する会社関係か、学生時代からの友人であると思われた。達郎は、まず会社の同僚でもあり、親しい友人でもある中島康枝に電話をかけて、七名の確認をした。すると、男三名全てと女の二名が会社の上司や同僚だった。

 康枝は、智子が事故に遭った頃、盲腸で入院していて、葬儀に顔を出せなかったことを詫びていた。

 電話を切った後、これで康枝がいっしょに金沢に行ったのではないことは確かであると思った。智子がいっしょに旅行をする可能性が高いのは、康枝か千絵のどちらかだった。達郎は残る千絵に電話した。

 五回コールすると、千絵本人が出た。

「このたびは、ご愁傷さまです・・・・・・」

 千絵の静かな声が返ってきた。

「ありがとうございます・・・・・・ところで、伊藤さん、今、通夜と告別式に参列した方の名簿を整理しているんですが、まだどういう関係の方かわからない方が二名おりまして、伊藤さんにお尋ねしたいのですが・・・・・・」

 と言って、残りの二名の女性の名前を告げると、一人は付属の高校時代からの友だちで、そのまま系列の大学へは進まず、他の大学へ入った者で、千絵も良く知っていた。そして、残りの一名は、千絵は詳しく知らないが、多分大学時代からの友人ではないかとのことだった。

「ところで、伊藤さん、うちの智子とは、色々と旅行に行かれていたみたいで・・・・・・」

 達郎は、もしかしたら千絵がいっしょに金沢に行ったのではないかと思い、かまをかけた。すると、

「ええ、もう沢山の思い出がありまして・・・・・・金沢にもいっしょに行こうって言っていたのに智ちゃんは先に行っちゃって・・・・・・こんなことになるのなら、私がいっしょに行って上げれば良かったわ」

 という答が返ってきた。やはり、この感じだと、金沢へ同行したのは千絵でもなさそうだ。

「そういえば、去年も長崎や四国に付き合っていただいたそうですねえ・・・・・・」

 達郎は、一応去年の旅行の話もふってみた。すると、

「・・・・・・」

 ほんの一瞬だけ間があった。おかしいな、何か隠しているのかな、達郎がそう思っていると、

「・・・・・・思い出すと、涙が出てきちゃって・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」

 とむせぶ声がした。どうやら千絵は、電話の向こうで泣いているようだ。

 達郎は、静かに電話を切った。

 わからないなあ・・・・・・智子は一人で金沢に行ったのだろうか・・・・・・達郎は、どうして金沢に智子がいたのか、ますますわからなくなってきていた。


 日曜日の夜に大阪のマンションに戻り、翌日の月曜日から、いつものように出勤した。 達郎は、部下を伴って昼食に出た。途中の大阪駅前第二ビルと第三ビルの間で、交通事故があった。ちょうど、救急車が来て、けが人が運ばれるところだった。

 智子もあのようにして、運ばれたのだろうか・・・ついつい達郎は、智子が運ばれる場面を想像した。

 その救急車には、付き添いの者がいっしょに乗り込んだ。

 そうだ、智子が運ばれた時、誰かいっしょに乗り込んだ者はいなかったのだろうか・・・・・・いっしょに乗っている者がいたら、それが同行者だ。

 その週の土曜日、達郎は金沢に行った。そして、駅から一番近くにある金沢東南消防署に入って、智子を搬送した救急隊員が誰なのか尋ねた。すると、応対に出た所員が色々と調べてくれた結果、当日救急車が出たのは、東南署ではなく、もう一キロ先の南西署だった。それは、交通事故の発生現場が東南署よりも南西署の方が近かったからだ。

 達郎は、親切に教えてくれた東南署の署員の書いてくれた地図を頼りに、南西署に向かった。途中、地図に印が付けられていた事故の発生現場を通った。近所の人でも置いたのか、菊と百合の花が備えられていた。

 達郎は、思わず立ち止まった。そして、頭を下げ、合掌した。

 南西署はその事故現場から三分とかからない所にあった。東南署から連絡でも入っていたのだろうか、応対に出た二人の署員が、事故当時智子を搬送した人たちだった。

「それで、何か」

 だいぶ年配の署員が達郎の質問を促した。「実は、当日家内が運ばれる時に、誰かいっしょに救急車に付き添って、乗り込んだ者はいませんでしたでしょうか」

 年配の署員は、もう一人のからだの大きい方の署員と顔を見合わせて、

「いいえ、誰もいませんでしたよ」

 と確信を持って答えた。

「そうですか・・・・・・」

 やはり、智子は一人だったのろうか・・・ 達郎は、落胆した。わざわざ金沢まで来たというのに、智子の同行者が判明しなかった。

 すると、達郎の落胆ぶりを見て、励まそうとでも思ったのか、それまで黙っていたからだの大きい方の署員が口を開いた。

「だけど、だんなさん、ずいぶん愛されていたんですねえ・・・・・・シンノスケさん、シンノスケさんって、譫言で何度も何度も呼んでいましたよ・・・・・・」

 それを聞いた達郎は、頭からハンマーで思いっきり叩かれたような気がした。

 もしかしたら、とは思っていたが、やはり智子には男がいたようだ・・・・・・あんなにおとなしそうで、虫も殺さないような顔をしていた智子が、俺をだましていたなんて・・・・・・俺が単身赴任を利用して、若い女と浮気をしようと企んでいたのに、女房に先を越されていた・・・・・・それでは、本当は、俺の単身赴任を一番喜んでいたのは、智子だったのかもしれない・・・・・・

 智子の浮気、達郎は全くそれに気が付かなかった自分が情けなく、やるせなく、哀しかった。

 しばし、達郎は沈黙した。署員は達郎が哀しんでいるのではないかと気づかった。

「お気持ち、お察し申し上げます」

 二人の署員は、改めて頭を下げた。

 気をとり直した達郎は、

「それから、何か、他のことを言っていませんでしたか」

 と尋ねた。シンノスケだけでは、どこの誰なのかわからない。

 二人は顔を見合わせた。そして、互いに考え込んでしまった。

「何か言っていたような気もしますし、うーん、それ以外は、思い出せないなあ・・・・・・」

 からだの大きい方の署員が言った。

「それでは、何か思い出していただいたら、僕の所に電話をください」

 と言いながら達郎は、名刺を出そうとした。が、名刺をつかもうとした瞬間、ためらった。そして、再び名刺入れを閉じると内ポケットにしまい、代わりに手帳を取り出した。中にある白紙のページに電話番号と名字を記入して、切り取って渡した。

 名刺を渡したら、達郎が、シンノスケでないことがわかってしまう。

 達郎は、静かに金沢南西消防署を後にした。


 大阪のマンションに戻ると留守番電話が点滅していた。達郎は、録音再生のスイッチを押した。

「えー、わたくしは、金沢南西消防署の金丸と申しますが、えー、これは大したことではないと思いますが、あの日、奥様が言っていた言葉に、だんなさまのお名前の他に、テンチョウ、テンチョウと、二度ばかりおっしゃられていたのを思い出しました。えー、つまらないことで、お役に立てないとは思いますが、念のためご連絡いたします。それでは失礼いたします」

 テ、テンチョウ・・・・・・テンチョウとは何のことだ。ラーメン屋の店長か寿司屋の店長か、それともハンバーガーショップの店長なのか。まったく予想がつかない。ただ、店長という以上、どこかの店の店長であるのには間違いない。達郎は、智子の知人、自分の知人で店長という肩書きの者がいるかどうか、必死で思い出そうとした。

 しかし、心当たりは全くなかった。

 普通店長とは、どんな時に呼ぶのだろうか。たとえば、ある店が単独で一ヶ所だけで営業していれば、そのトップのことを店長とは呼ばずに、社長とか、和食系飲食店ならお頭とか大将と言うはずである。店長という呼び方をするのは、その店の他にも、いくつかの本、支店があって、つまりその会社が複数の店で経営している場合が多いはずである。チェーン店などが良い例だ。たとえば、寿司屋を経営していた場合、一軒だけであれば、お頭と呼ぶだろうし、チェーン店の一つであれば店長と呼ぶ。

 智子が口にしたというテンチョウというのは、いったいどんな業種のどこの店長なのだろうか・・・・・・達郎には、どうしても思い当たる節がなかった。

 いずれにしても、シンノスケとテンチョウ、それが達郎のことではないのは間違いがなかった。やはり、智子には男がいたのだろう・・・・・・智子に男がいたなんて信じられない。いつ、どこで知り合ったのだろうか。勤務している会社にいるのはさえない男ばかりで、どうしようもない、といつも非難していたから、社内にいる男とは思えない。だが、いないという確証もない。

 達郎は、もう一度、通夜、告別式の記帳票をめくってみた。しかし、シンノスケという名前はどこにもなかった。シンノスケという男は現われていなかった。ということは、我々の前に、顔を出せないということか。もし、智子がこのシンノスケという男と浮気をしていたとしたら、当然シンノスケは我々の前に現われることはできない。よく、テレビドラマや映画で、亡くなった者の葬儀に、愛人が現われて、焼香をするシーンなどがある。が、実際は、生前二人の関係をひた隠しにしていたのなら、その後に訪れる悶着にも耐えられるだけの余程の自信がない限り、葬儀に顔を出すことはできない。

 シンノスケとテンチョウ、この二つは一人の人物の共通項か、それとも別々の人物か・・・・・・どちらだろうか。達郎は悩んだ。

 一人の人間が、死に際で発した言葉であるから、かなりの重みのある内容に違いない。シンノスケにテンチョウ、達郎は何度も繰り返しながら、考えた末、それらが同一人物であろうと推測した。つまり、どこかの店の店長をしているシンノスケという男、と推定した。

 達郎は、何としてもこのシンノスケという店長を突き止めなければ気が済まなくなってきた。

 ベッドの中で、シンノスケ、店長、シンノスケ、店長と何度もつぶやきながら、眠りについた。


 どこかの店の店長をしているシンノスケという人物がいったい何物なのか、わからないまま、一ヵ月が経過した。といっても二月は二十八日しかないので、実際には四週間だった。

 今日、三月十四日の日曜日がちょうど智子が死んでから四十九日目に当たり、法要を行うことになっていた。

 達郎は、寺の住職に法要を依頼し、近くの宴会場を予約しておいた。

 義母はからだが不自由だったので何も手伝えない。その点、義理の姉の聡子は智子の実の姉であるから、積極的に手伝って、活躍してもらいたかったが、母親に付き添うためにそれもあまりできなかった。聡子の亭主は、極めて機転のきかない凡庸な男だったので、ほとんど役に立たなかった。

 このような状況であったから、実際に全体に目を行き届かせながら、動き回って仕切らなければならなかったのは達郎一人だった。 納骨をした後、死者の霊を弔うため、食事と酒を振る舞った。

 達郎が、四十九日の法要に集合してもらった人たちに対して、礼の挨拶をした後、宴が開始された。

 開催中も達郎は、あちらこちらのテーブルにビールをつぎに回った。日中は酒の酔いの回るスピードが速い。親戚の者を初めとして出席者の中には完全に酒の酔いがまわってしまう者が出始めた。すると、今までのような残された亭主に同情的であった雰囲気が、少しずつ変化してきた。

「全く、亭主が、智子ちゃんをかまって上げなかったから、旅行なんかに出て、事故に遭っちまったんだよ。智子ちゃんは亭主に殺されたようなもんだよ」

 と発言していたのは、智子の伯父にあたる人物だった。達郎が、ビールを持って、斜め前の席に座っているのがわかっていながら、大きな声を上げて話していた。

 また、ある者は、

「亭主が大阪で羽を伸ばしているから、女房が旅行に行ったりするのよ。向こうに、女でもいるのに違いないわ・・・・・・」

 と言っていた。

 それらを聞いて、達郎は立腹した。お前さんの姪の智子は、男と金沢に浮気の旅行をしていた途中で交通事故に遭ったんだぜ。お前らの一族は女が浮気をすることを奨励しているのかよ、馬鹿野郎・・・・・・と達郎は、ニコニコとほほ笑みを絶やさずビールをつぎながらも、腹の底ではそうつぶやいていた。

 それにしても、智子が死んでからもう四十九日が経った。このくらいの時間が経過すると、人々から故人の死亡の直後の悲しみが薄らぎ、だんだん冷静で、辛辣な意見を言えるようになってくるのだ。四十九日とは実に巧妙に計算し尽くされた”間“であると、達郎は感じた。智子が死んだ当初は、その死は誰もが寝耳に水であり、遺族に対しても優しいいたわりがあったが、それらは時間の経過とともに徐々に消え去り、挙げ句の果てには、亭主に対する非難の声まで上がってきた。

 ああ、世間というのはこういうものなのかな・・・・・・人が死んだって、家族を除けば、親戚や知人の生活にはほとんど影響はないのだから・・・・・・所詮、他人ごとだ。

 そんな風に考えながら、達郎はビールをつぎ回っていた。一通り挨拶を兼ねてつぎに回るのが礼儀と思ったからだ。

 智子側の親戚のテーブルの末席にいた義母の妹という老人が、ビールは飲めないと言うので、烏龍茶を頼んだ。ところが、ちょうどてんぷらを運んでいる最中であったウエイトレスが、なかなか烏龍茶を持って来なかった。しびれを切らした達郎は、自分で取りに行こうと席を立った。宴会場の廊下は鰻の寝床のように細長くなっていた。途中左を曲がるとトイレだった。達郎は立ったついでに用をたそうと左に曲がった。トイレは突き当たって左側が男性、右側が女性で、入り口の前に薄いつい立てが置かれていた。

 達郎が、つい立てを通り抜けてトイレに入ろうとした瞬間、女性側のトイレから出て来た女の声がした。

「智ちゃん、だいぶ惚れてたみたいよ・・・・・・買物をするのも店長がいるデパートばかりだって、いつも言ってたもの・・・・・・」

 達郎は立ち止まり、声のする方を目で追った。すると、二人連れの後ろ姿が見えた。一人は智子の友人である伊藤千絵だった。

 『だいぶ惚れてた』『店長がいるデパート』、達郎は、大きなヒントをもらった気がした。

 智子が惚れていた男は、どこかのデパートのどこかの店の店長をしているのに違いないと思った。


 四十九日の法要が無事に終了したのは、午後三時頃だったが、達郎は、そのまま横浜のマンションには戻らずに渋谷に出た。そして、大手の書店に入り、ビジネス書のコーナーに向かった。

 達郎は、陳列棚から分厚い会社職員録を取り出した。この本には、上場企業の管理職以上の氏名が載っている。達郎は、百貨店のページをめくった。まず、竹坂屋が載っていた。代表取締役会長、社長をはじめ、専務、常務、取締役などの役員の後に、本社各部の部長が載っていた。氏名の他に、生年、出身都道府県、出身校、入社年、趣味、そして現住所が列挙されていた。

 本社の部長が終了すると、各店の店長の名前が並んでいた。

 あいにく、この百貨店には、シンノスケという名前の店長はいなかった。次に、東海百貨店、これも同様に探したが、どこの店にもシンノスケという店長はいなかった。

 達郎は、この作業を何度も繰り返した。東京都内に本社があるものだけではなく、地方の百貨店もあたった。しかし、シンノスケという店長はどこにもいなかった。

 おかしいなあ・・・店長クラスなら、絶対に載っているはずなのだが・・・達郎は、首を捻りながら、その本の発行年月日を見た。 ―平成四年七月一日発行―

 去年の七月か・・・ということは、少なくとも七月以降の人事異動の結果は網羅されていないということになる。それを知るには、今度の七月まで待たなければならない・・・・・・だが、店長になるくらいの者は、その前の段階からどこかのセクションの部長クラスに名前を列ねていたっておかしくはない。そこで、店長の名前以外にも、つまり、部長クラスの中にもシンノスケという者がいないか、もう一度百貨店の初めのページに戻って、調べ直した。

 それにもかかわらず、シンノスケという名前の持ち主は、どこにも見当らなかった。もしかしたら、この当時、まだ店次長であったかもしれない。残念なことに、店次長は掲載されていなかった。

 達郎は、この職員録による探索は不可能だとあきらめた。

 その日の夜、達郎は伊藤千絵に電話をかけた。これまで、千絵は夫の達郎に、智子に関する詳細をあかさなかった。生前の智子との友情を頑なに守っているような気がしてならなかった。だから、事の真相を単刀直入に尋ねたら、千絵の余計に防御が堅くなると推測した達郎は、質問の仕方に配慮した。つまり、シンノスケや店長、果てはデパートなどというキーワードを知らない振りをしようと思った。

「あのー、今、智子のアルバムを見ていたら、伊藤さんがよく写っているので、ついつい智子の思い出話でも聞こうかと思って、お電話しました・・・・・・」

「・・・・・・ああ、そうですか」

 千絵の声は、弾んでも、沈んでもいなかった。

「伊藤さんが、智子と最後に会ったのは、いつ頃でしたか」

「お正月に、いっしょに初詣にいきましたよ。ご主人が大阪に帰られた後、一月七日だったと思いますけど。三が日に初詣に行こうと言っても、ご主人が付き合ってくれなかった、と言っていました。智ちゃん、淋しかったんじゃないですか・・・・・・」

 千絵はいきなり嫌味を言ってきた。確かに、初詣には誘われたが、三が日の川崎大師に行くなんて、その混雑と雑踏を考えてみただけでも、達郎はうんざりして、智子の申し出を拒絶していた。だが、そのことに関して、千絵に何だかんだと言われる筋合いはない。淋しかったんじゃないですか、などとよくも平気で言えるものだ。智子が浮気していたことを千絵は知っていたくせに・・・・・・そう思うと、達郎は千絵に対して腹が立った。同時にこの分では、智子の秘密をあかすことはありえない、と思った。付属の中学時代からの付き合いである二人の女の友情は、堅そうだった。そこで、達郎は、

「やっぱり、智子は淋しがっていたんでしょうか」

 と謙虚な男を装って、誘導した。

「とても、淋しがってたわ。だから、色々な所に旅行したりしていたのよ。最近では、一人旅にも出ていたみたいで・・・・・・金沢も、本当は一人で行っていたみたいよ。ただ、一人で行くって言うと、お母さんが心配するから、お友だちと行くと言っていたみたいだけど・・・・・・」

 ということは、智子は金沢には一人で行っていたのか・・・・・・シンノスケというどこかのデパートの店長といっしょではなかったのか・・・・・・真実を知りながら、千絵はとぼけているのだろうか・・・・・・いずれにしても達郎が知りたいのは、智子がよく買物をしていたその店長というのがどこのデパートにいる者か、ということだったので、

「部屋を整理していると、色々な物が出てくるんですけど、最近あっちこっちで買物ばかりしていたみたいだけど、伊藤さんもよくいっしょに付き合ったりしたんでしょうねえ・・・・・・」

 と買物について、話を向けてみた。

「ええ、たまにはお付き合いしましたよ」

 あっさりと、千絵の答が返ってきた。

「いつも、どこで買物してたんでしょうかねえ・・・・・・」

「そうねえ、銀座が多かったわ。智ちゃんも私も会社から銀座が近いし・・・・・・」

 ち、違うんだよ、俺がききたいのは、町の名前ではなく、デパートの名前なんだよ、と思いながら、尚もしつこく尋ねた。

「何だかブランド品がいっぱいあるんだけど、どんな店で買ってたのかなあ・・・・・・」

「うーん、専門店やデパートじゃない」

「智子は最近どんなデパートに行ってたのかなあ・・・・・・」

「色々な所に行ってたんじゃない」

 千絵がとぼけた。

「たとえば、どこ」

 この時、すこし間があった。千絵はこれ以上、デパートに関しては発言しないかな、と思った。が、

「丸屋や、竹坂屋、梅屋、西急、それから南武なんかじゃないかしら・・・・・・」

 とすらすらと並べ立てた。だが、一番通っていた決定的な百貨店の名前は語らなかった。だが、一応達郎は、千絵が列挙した百貨店の名前をメモした。

 達郎は、これ以上話をしても無駄だと思い、その後適当に言葉をやり取りして、電話を切った。

 千絵は、達郎が具体的な百貨店名を尋ねた時、一瞬、間を置いた。やはり、千絵は知っている。敵もさるものだ、一つの百貨店ではなく、いくつかの名前を上げてきた。こっちを撹乱させるつもりのようだ。

 丸屋、竹坂屋、梅屋、西急、南武、この中にある。達郎はこの五つの百貨店を反復しながら、就寝の準備をした。明日は、朝七時の飛行機で大阪に行かなければならない。この便を利用すれば、梅田には、九時過ぎに到着することができ、九時半の始業時間には十分間に合うのだった。


 朝七時の便のジャンボ機は、ほとんど空席でがらがらだった。航空会社は、満席に程遠い状態であっても、ジャンボ機を飛ばしていた。それは、大阪に着いた後、次の地へ向けて、大勢の客を輸送するためで、機体のやり繰り上、仕方のないことだった。その意味で、早朝の東京・大阪便は、回送を兼ねた運航といえた。

 達郎は、座席を指定された通路側ではなく、窓際に移した。

 滑走を始めた飛行機が爆音と共に離陸し、水平飛行に移った後、達郎はテーブルを下ろした。そして、智子にまつわるこれまでのキーワードを整理した。細かくメモ帳に記入したのだ。

 ☆智子は金沢で死んだ。

 ☆智子は、友だちといっしょに金沢に旅行  すると言っていたが、いっしょに金沢に  同行していた者が名乗らず、今だに誰な  のかわからない。

  千絵の話によると、智子は実際には一人  で金沢に行った。

 ☆死ぬ直前にシンノスケ、テンチョウとい  う二つの言葉をうわごとで言っていた。 ☆智子は誰かにだいぶ惚れていた。

 ☆買物は、店長のいるデパートだった。

 ☆丸屋、竹坂屋、梅屋、西急、南武、この  五つの百貨店に店長がいる。

 この条件を元に、達郎は一つの推測を立てた。

『智子は、丸屋、竹坂屋、梅屋、西急、南武のいずれかの百貨店の、これまた本店か支店のいずれかの店の店長をしているシンノスケという男にだいぶ惚れていた。最近、買物はもっぱらその店長がいる百貨店に行ってた。智子は、そのシンノスケという店長と金沢に旅行に行き、交通事故に遭い死んだ。この店長は、智子の浮気の相手であり、公の場に顔を出すことができず、したがって、通夜、告別式にも現われなかった』

「うーん・・・・・・」

 達郎は、自分の立てた推論に思わずうなった。ここにきて、ようやくまともなストーリーが描けてきた。達郎は、大阪に到着するまでに次の作戦を練った。


 月曜日の午前中は、何かと気忙しかったが、午後に入っていつもの平静さを取り戻しつつあった。

 達郎は、勤務の間に、自分のデスクからNTTの番号案内にかけて、丸屋、竹坂屋、梅屋、西急、南武の各百貨店の本社の電話番号を調べた。竹坂屋のみ本社が大阪だったが、東京の事務所の番号をきいた。その番号を記録したメモを持って、午後の外回りに出た。 梅田の地下街を通り抜け、駅前第二ビルの中に並んでいる公衆電話を握った。通話料の支払いは、家庭の電話料金と合算されて請求がくるCカードを使用した。これなら、カードが切れて、電話がかけられなくなることもなくエンドレスでかけられる。

 まずは、丸屋の代表番号にかけた。所在地は渋谷区だった。

「毎度ありがとうございます。丸屋でございます」

「あのー、ちょっとお尋ねいたしますが、御社のどこかの店長さんで、シンノスケさんという方はおられますか」

「は・・・・・・」

 電話交換手は、達郎の真意が良く理解できなかったようだ。

「実はですね、わたくしある書類が入った封筒を拾得いたしまして、その袋の裏に、何とか百貨店、店長、何とか、シンノスケと書いてあるんですが、百貨店の所と、名字の所が、消えて見えないんですよ。中には、経営に関する数字と思われる大切な書類が入っているようなんですが・・・・・・」

 達郎のうまい嘘に、交換手は真剣になって、社内のしかるべきセクションに相談しているようだ。

 そして、人事部につながれた。

「はい、人事部です。ご用件の向きは承りました。しばらくお待ちください・・・・・・」

 丸屋百貨店人事部は、達郎の申し出に対して、誠心誠意対応しているようだ。

「お待たせいたしました。当社の全店の店長を確認したところ、シンノスケという名前の者はおりませんでした。おそらく、別の百貨店さんかと思われますが・・・・・・」

「ああ、そうですか、はい、わかりました」 達郎は、次に西急百貨店にかけた。ここでも人事部につながれた結果、シンノスケはどこにもいないという答が返ってきた。

 三番目は、南武百貨店にかけた。ここは、総務部が対応したが、やはりシンノスケは見当たらなかった。

 梅屋も竹坂屋も同じだった。

 いない、そんな馬鹿な・・・確かに、四十九日の法要の日にトイレから出てくる時に、千絵がデパートの店長と言っていたはずだ。おかしい・・・・・・いないはずはないんだが・・・・・・

 達郎はがっくりと肩を落とした。そして、あてもなく地下街をさまよい歩いた。


 その週の金曜日も、達郎は横浜のマンションに戻ってきた。

 誰もいない部屋に灯をつけた。リビングルームに入ると、酒を飲もうと、サイドボードを開けた。ところが、そこには酒が一本も置かれていなかった。仕方がないので、押し入れを開けた。そこには、もらい物の酒が封を切らずに、二、三本しまわれているはずだった。案の定、洋酒が三本出てきた。達郎は、そのうちの一本を取った。すると、洋酒の脇に几帳面に収納された箱が五つほど重ねられていた。中を覗くと、未使用のビニール袋、アルミホイール、ポケットティシュペーパー、ゴミ袋などの小物が入っていた。また、その中には沢山の包装紙も含まれていた。青や黄色など色とりどりの物だった。ところが、それらをめくっていくと、途中から同じ包装紙ばかりが重ねられていた。その数は異常に多かった。

 もしや、

 達郎は、それらの包装紙が、智子が惚れていた店長のいる百貨店のものではないかと思った。そして、直感的に、その包装紙があの五つの百貨店のどこにも該当していないのではないかと思った。

 だまされた、千絵にだまされたのだ。

 あの時の達郎の推測が甘かったのだ。千絵が言った五つの百貨店の中には、シンノスケという店長はいないのだ。

達郎は、千絵がわざと自分を撹乱させるために、正解を一つ入れながら、余計なものを交えて、五つの百貨店を並べたものとばかり思っていた。千絵は、電話で尋ねられた時、一瞬の沈黙のうちに、即座に計算して、シンノスケという店長の存在しない五つの百貨店を並べたのだ・・・・・・

 ということは、初めからその五つを除いて、それ以外の百貨店を当たるべきだったのだ。

 異常に多く集められたこれらの包装紙を使用している百貨店が、智子が没入していった店長のいる所に違いない。今度こそ達郎はそう確信した。

 翌日の土曜日、達郎は、その包装紙を持って繁華街に出た。その水色とペパーミントグリーンの二色刷りの包装紙がどこの百貨店の物であるのか、確かめるためにだった。

 まず、渋谷に出た。渋谷には、百貨店が三店あったが、いずれもその紙の柄とは違っていた。次に銀座に出た。すると、地下鉄のホームにその柄と同じ紙袋を下げた人がいた。 銀座にあるな、地上に上がった達郎は、すぐに水色とペパーミントグリーンの二色刷りの包装紙を提供している百貨店を発見した。それは、松越百貨店だった。この百貨店なら、池袋や横浜や千葉、柏、川口、大宮などに店舗を構えているはずであった。

 達郎はその百貨店に入った。受付の横に差し込まれていた各種パンフレットを取った。その中に、全国の支店が列挙されていた。何と、金沢店があるではないか。

 達郎は、さっそく松越百貨店金沢店の代表番号に電話をかけた。

「はい、毎度ありがとうございます。松越百貨店でございます」

「私、日本商事の鈴木と申しますが、佐藤店長をお願いしたいのですが・・・・・・」

「は?・・・・・・当店の店長は佐藤ではありませんが・・・・・・」

「あれ、佐藤さんじゃありませんでしたっけ?あのシンノスケさんですが・・・・・・・」

「あ、それなら、井上ですね、イノウエシンノスケのことだと思いますが・・・・・・」

「そ、そうです。佐藤さんじゃなくて、井上さんでした。記憶違いしていました。佐藤さんという知り合いが多くて、違う会社の佐藤シンノスケさんと勘違いしていました」

 達郎が、自分のそそっかしさを吐露すると、電話の交換手も砕けた声音になった。「それでは、店長の井上に、御つなぎいたしますね・・・・・・」

「あ、すみません、電車が来てしまいまして、また、後ほど、お電話いたします」

 と言って、平穏無事に、何の疑われようもなく電話を切った。

 これで、智子が言っていたシンノスケというテンチョウは、松越百貨店金沢店の井上シンノスケ店長ということが判明した。この瞬間、達郎は何か糸と糸とが結びついたような気がした。

 ということは、以前に立てた達郎の推論を是正しなければならなかった。つまり、

『智子は、松越百貨店の金沢店の井上シンノスケ店長という男にだいぶ惚れていた。その馴染みから、最近はもっぱら松越百貨店を贔屓にして、買物をしていた。そして、その店長と逢引きをするために金沢に行き、そこで交通事故に遭って死んだ。店長の井上は、智子が死んだことを知っていたかどうかはわからないが、いずれにしても智子は不倫の相手だったので、葬儀には出席することができなかった』

 ということになる。

 達郎は、今すぐにでも金沢に行って、この井上という野郎の顔が見たかったが、いったん家に帰った。もう一度何か手がかりになるものでもないかと部屋を捜索することにした。こどもがいなかったこともあり達郎も智子もそれぞれ専用の部屋を持っていた。智子の部屋に入った。収納庫のようなものがあったが、達郎は結婚以来、それに手を触れたことがなかった。どうせ、くだらないものを集めて取っておくだけのもので、興味が全くなかったからだ。案の定、小さな箱を開けると、何年も前のレシートの束や家電の保証書、各種クーポンや割引券、古い年賀状などが出てきた。急ぎ年賀状をめくったが井上シンノスケからのものはなかった。

 その中に宅配便の控えの束があった。達郎は一応それもめくることにしたが、ペラペラの薄い紙で掴みにくかった。

 全く面倒くせえなあ・・・・・・

 とひとり言を発した直後、金沢宛の伝票に行き当たった。宛名は、金沢市城南町3の5の7の503 井上方にして、自分宛になっている。多分、向こうで何日かを過ごすために必要になる物をまとめて、送ったのかもしれなかった。そこそこの日数で逢瀬を楽しむためにだ。

 達郎は、深いため息が出た。

 こんな証拠に残る物、捨てておけばいいものを。達郎は、そう思った。ただ、結婚以来、夫がその収納庫に興味も関心も示さず、手も触れたことがないので、安心してそこに置いておいたに違いない。しかも夫は、遠く大阪に単身赴任して滅多に家には帰って来ない。それになによりも自分がすぐに死ぬとは思っていない。だから、そんなものまで、取っておいたに違いない。

 いずれにしても、これで、店長の井上シンノスケの居所がわかった。


 翌週の土曜日、達郎は金沢に来た。

 駅前の金沢東都ホテルにチェックインした。いったん荷物を置いた後、ホテルの一階にある喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら、フロントでもらった市内のガイドマップに目を通した。その中には、松越百貨店の位置がイラスト入りで大きく掲載されていた。

 やっと、智子の行動が解明できそうだ。

 達郎は、腰を上げるとフロントを出た。街は土曜日の買い物客で賑わっていた。どの人の顔を見ても楽しそうだった。それに比べて、こんなことをしている自分が、内心情けなかった。近頃では、妻の智子の過去を暴くのに躍起になっており、仕事の方は余り良い成績をおさめられずにいた。最初のうちこそ課長の梶本は、妻が急逝したことに同情的であったが、時間が経つにつれ、いつまでたっても立ち直れない達郎を見て、徐々にではあるが見放し始めているようだった。達郎に対する梶本の業務指示の仕方の変化を見て、達郎はそう感じていた。せっかく、同期の中でも速い昇進をして、エリート課長の下に課長代理として、抜擢されたというのに、妻智子の逝去で、人生の予定の何もかもが狂い始めていた。

 だが、達郎は、どうしても智子の生前の行動を解き証かしたかった。それは、彼女の気持ちを理解していなかった自分に対する戦いのような気がしてならなかった。

 松越百貨店金沢店は、メインストリートの中心部に位置していた。

 一階に入った。どこの百貨店でもそうであるように、一階には化粧品売り場が競うように並んでいた。ぷーんと、香水の匂いが鼻を突いた。入店はしたものの、その後、達郎はどうしてよいものか、その具体的な行動が思いつかなかった。しかたなく、受付に行って、店長室はどこにあるのか、尋ねた。

 受付嬢は、一瞬訝しがったが、きちんとした達郎の身なりを見て、ゆすり屋やたかり屋ではないと判断して、安心したのか、快く店長の所在地を教えてくれた。彼女が言うには、店長室というのは特になく、別館の事務室の五階のフロアが営業本部関連のセクションとなっており、そのフロアの突き当たりの真ん中に座っているのが店長ということだった。

 達郎は、一通り売り場を見渡した後、別館の五階に行った。事務所の入り口には、電話機が一台備え付けられている型通りの無人の受付があった。が、来訪者は皆その存在を無視していた。とにかく、人々の出入りが激しく、社内外の者たちの往来が引っきりなしだった。体裁の良い売り場に比べて、百貨店の事務所というのは、がさつで、乱雑であるとは聞いていたが、これほどまでにアバウトであるとは、想像していなかった。

 しかし、それが幸いした。達郎は、出入りの業者を装って、すたすたとフロアの中に入って行った。もし、誰かに何か言われたら、開き直って、店長に会いに来たと言えば良い、達郎はそう決心していた。しかし、達郎の存在を見て、周りの者は、誰一人として言葉をかけてくる者はいなかった。

 どこの会社でもそうであるが、外部の人間の往来の多い所は、いちいち見知らぬ人を立ち止まらせたり、案内したりしないものである。自分がその人を知らなくたって、他の誰かが知っており、どうせその人を訪ねて来たのだろうから、いちいち取り合うのも面倒だからだ。自分が、手間と暇をかけるだけ時間の損だから放っておけば良い、そんな風に考えるのが普通であった。

 フロアを少し進むと、突き当たりに、店長と書かれたプレートが乗せられている席があった。そして、そこに一人の男が座っていた。見ると、頬が痩せこけている貧弱な男だった。顔もたいして二枚目ではなかった。おまけに背も低そうで、頭髪も薄かった。

 一目見て、達郎は愕然とした。智子はあんな男に惚れていたのだろうか・・・・・・あんな貧相な男に惚れていたなんて・・・・・・達郎は、もっと二枚目を想像していた。二枚目であれば、自分に隠れてまで、逢引きを続けていた理由も少しばかりは理解して上げても良いと思っていたからだ。だが、あんな男を、いったいどうして・・・・・・あんな男のどこが良かったというのか、合点がいかなかった達郎は、すぐにその場を立ち去った。

 それにしてもどうして、あんな男に惚れたのだろうか・・・・・・がっかりだ。俺が探し続けていたのはあんな男だったのか・・・・・・

 ただ、それは見た目が悪いというだけで、それだけで男を判断するのは早いかもしれなかった。何といっても、東証一部上場企業の一流百貨店の店長なのだ。もしかしたら、松越百貨店ではこの金沢店の店長を務めることが出世コースなのかもしれないではないか。見た目とは裏腹に、店長の井上シンノスケは、相当なやり手で、切れ者であるのかもしれない。

 達郎は、裏通りに出た。そして、近くにある喫茶店に入って休むことにした。とりあえず全身に襲ってきた疲れを癒そうと思った。

 コーヒーの味は苦かった。

 最初は、井上シンノスケを見た時、その格好の悪さ、貧弱さを見て、落胆した。だが、時間が経つにつれて、だんだん胸が苦しくなってきた。智子があの男に抱かれていたかと思うと、智子がからだを開いて、あのごぼうのようにとがった顔をした男が、その顔を智子の陰部に沈めていたかと想像すると、胸が締め付けられるような思いになった。

 そして、その思いは、徐々に憎しみに変わってきた。

 あの井上という野郎、やましいがために、智子の葬式にも来なかった。何という薄情なやつだ。智子も恨んでいるに違いない・・・・・・ そう思うと、達郎は、井上の顔面に銃でも打ち込んでやりたかった。

 こんなに悔しい思いをしたことが、今までの人生にあっただろうか、こどもの時から勉強もスポーツも万能で、おまけに絵や歌もうまかった。中学から私立校に入り、生徒会長もやった。大学も第一志望の有名校に現役で合格した。大学のクラブでは部長をやり、ゼミでは幹事長を務めた。その時、一番の美人で、誰もが狙いをつけていた一年後輩の智子をものにした。就職も初めから志望していたメーカーで業界第一位の会社に入った。今までの人生を反芻してみても、自分を悩ますような大きな出来事は、何一つとしてなかった。

 ちきしょう、やっぱり、文句の一つも言ってやりてえ・・・・・・それに他人の女房を寝取っていたのだから、亭主の俺は慰謝料だって請求できる。別に金なんか欲しくはないが、あの男に困窮と苦痛を与えるには、懐に打撃を与えるのも一つの方法だ。達郎は、色々と思案をめぐらせた。

 その結果、やはり、井上に会って、面と向かって、その罪を糾弾するべきだという結論に達した。

 ただ、それは井上のいる会社内ではやりにくい。多勢に無勢だ。井上が自分の形勢が不利と判断した場合、部下に助力を求め、達郎を、悪質なたかりやゆすりだと言って、排除させるかもしれない。そう考えると、井上の家を訪ねるのが賢明だと思った。

 達郎は、何かの執念に取りつかれていた。


『金沢市城南町3の5の7の503』

 これが宅配便の控えに残っていた井上の住所だった。

 これだけでは目的地に到達しにくいと思い、書店で金沢市内を網羅している地図を購入した。

 これで準備万端だ、とりあえず、井上の家を見に行こう。

達郎は金沢駅前から出発している路線バスに乗った。城南町2丁目という停留所で下車した。3丁目という停留所で下車するよりも、3丁目5番地はその方が近かったからだ。

 城南町3の5の7、その番地に位置しているのは、大きなレンガ色のマンションだった。十二階建てで、このあたりでもひときわ目立つ大きなマンションだった。重厚なその建物には、よそ者は絶対に寄せ付けないぞという頑強さがあった。それは、東証一部上場企業である松越百貨店の店長が住居を構えるのに、ふさわしい代物だった。

 達郎はエントランスに踏み込んだ。当然、玄関はオートロックだった。これでは入ることができない。脇に郵便受けがあった。ざっと、数えただけでも八十以上の世帯があった。その中から、井上シンノスケを探した。ネームプレートには、名前の入っている物と入っていない物とがあり、きちんと統一されていなかった。

 ずうっと見回すと、確かに503号室に井上というのがあった。ちょうどその郵便受けからはみ出していた封書をつまんで取り出した。

 見ると、井上信之輔と宛名書きされていた。間違いない、井上松越百貨店金沢店店長の住居だ。

 玄関脇の管理人室で人の声がした。達郎は、すぐにその場を立ち去った。管理人に用件などを尋ねられたらやっかいだったからだ。

 レンガ色のマンションを見上げると、荘厳な鉄筋のコンクリートが、よそ者である達郎の侵入を完全にシャットアウトしていた。

 達郎は、マンションと通りを隔てて向かい側にある小さな児童公園の中に入り、ちょうど空いていたベンチに腰を下ろした。

 砂場では、二、三歳の幼児と母親が遊んでいた。この金沢でも、公園がヤングママの社交の場となっているようだ。

 その母親たちに、達郎は智子を重ね合わせた。年齢的にみて、三十二、三歳、ちょうど智子と同じくらいの年格好だ。もし、自分が大阪に転勤にならずに、そのまま東京にいて、智子との間にこどもが生まれていれば、一歳半ぐらいの幼児がいて、あのようにして遊ばせていたかもしれない。

 智子はこどもが嫌いだったが、達郎は決してこどもが嫌いではなく、本当はこどもが欲しかった。ただ、二十代のうちに母親になることを智子が嫌がったので、もう少し先、もう少し先、というように先延ばししてきたのであった。今思うと、こどもが好きか嫌いかということと、作る作らないは別問題だったので、妻が妊娠を嫌がっても、夫が強引に仕込んでさえいれば良かった。夫婦である以上、こどもができるのは当然の成り行きだったからだ。

 こどもがいれば、ああして平和な家庭を築いていられたのになあ・・・・・・それがどうであろう、今は、智子が急死をとげたために、その死を究明しようと、はるばる金沢の地までやって来て、他人の郵便受けを盗み見ている・・・・・・そう思うと自分自身が情けなかった。


 達郎はいったんホテルに戻った。

 部屋に戻ってあの井上信之輔の顔を思い浮かべると、また無性に腹が立ってきた。

 備え付けの冷蔵庫からビールを出して、思いっきりあおった。さらに、アイスボックスに入っている氷といっしょに、ウイスキーのミニチュアボトルも空けた。

 夕暮れ時の飲酒は酔いが速く、ベッドに横たわったまま、眠りについてしまった。

夢をみた。達郎が、松越百貨店の井上信之輔の部屋に入ると、智子が井上と抱き合っていた。達郎が、叫びながら、ふとんをはがそうとしても、力が出ない。二人は、依然として抱き合ったままだ。その場では、自分が無力だった。まるで、幽霊にでもなって、上から二人のいとなみを見ているようだった。達郎は歯痒くて、たまらなかった。後で井上がマンションから出てきた所を待ち伏せして、ナイフで刺し殺してやろう、と思った瞬間目が覚めた。

 三時間も経っただろうか、ベッドの脇のデジタル時計のグリーンの数字が午後八時五分を表示していた。

 達郎は、身なりを整えると部屋を出た。一階に降りて、レストランで夕食を取った。そこでも、ビールを飲んだ。

 再びホテルを出ると、バスに乗った。そして、先ほどと同じ城南町2丁目の停留所で下車した。

 念のため用意しておいた野球帽をかぶり、サングラスをかけた。

 レンガ色のマンションは、昼間の雰囲気と趣を異にし、夜は一層、重厚感が増し、まるで軍艦が漂着しているような佇まいだった。 503号室のインターフォンを押した。すると、中から中年の男の声が返ってきた。

「はい、井上です」

「・・・・・・ちょっと、お目にかかりたいのですが」

 達郎は、自分の氏名も名乗らずに面会を申し込んだ。酒の酔いが少しだけ残っていた。が、意識はしっかりとしていた。

「は、どちらさんですか」

 見も知らずの人間を中に入れるわけがない。予想した通り、井上は相手の名前をきいてきた。

「石原です」

 達郎は、井上に対する怒りを押さえながら、丁寧語を使った。ここで相手を怒らせては、会うことができない。会わなければ、何も解決しない。

「石原さん?ええと、どちらの石原さんですか・・・・・・」

 この段階では、井上は智子の亭主が訪ねてきたとは思ってはいないようだ。

「石原智子のだんなの石原です・・・・・・」

「・・・・・・」

 相手は沈黙している。やはり、智子と関係していたのには間違いない。

 一分間ほど応答がなかったので、達郎は、相手が切ってしまったのではないかと思い、再びインターフォンのスイッチを鳴らした。「は、はい、入って下さい」

 井上の声がいくぶん上ずっていた。

 オートロックの鍵が開いた。

 達郎は玄関に踏み込んだ。建物の中は、数々の照明によって、まぶしいくらいに白く輝いていた。

 エレベータに乗り、五階で降りた。

 手前の角の部屋の数字を見たら、510だった。どうやら一番向こうの端から順番になっているようだ。

 達郎は、ゆっくり歩いた。不思議とここまで誰にもすれ違わなかった。物音一つ立たないこのマンションには、本当に住んでいる人がいるのだろうか、と思えるくらい静寂が保たれていた。

 突き当たりの非常口の隣の部屋から三番目の所に503号室があった。

 達郎は、チャイムを押した。

 こげ茶色の重たいドアが開かれるかと思ったら、チェーンにつながれたまま、半開きの状態となった。

 部屋の中から、昼間見た貧弱な顔がこちらを覗き込むようにして見ていた。

「何の、ご用件でしょうか・・・・・・」

 井上が眉間に皺を寄せながら言った。

 その言い方が、とても白々しく、達郎はいっぺんに全身の血が頭に昇ってきた。

「何のご用件という言い草は、ないでしょう。あなたは、私に対して、何か詫びることはないんですか」

 達郎は、沈着冷静に発言しながらも、自分のこめかみが怒りで震えているのがわかった。

「・・・・・・」

 ドアのチェーンを外す手が見えた。そして、ドアが開き、男が出てきた。探し続けていた井上信之輔を今、間近に捕えた。

 頭髪が薄く、顔が細長かった。そして、背が低かった。達郎は、一メートル七十四センチだったが、それよりも十センチ以上低く見えた。智子は、こんな男のどこが良かったのだろうか・・・・・・達郎は、改めてそう思った。

「智子とは、いったいどういう関係だったんだ」

 達郎は、いくぶん力み気味に言った。

「ちょっとこっちへ」

 井上は、達郎の声が他の部屋に聞こえるのを危惧したのだろう、廊下を歩いて、突き当たりの非常口のドアを開けた。中には階段があるだけで、人が行き交う気配は全くなかった。後ろから入った達郎がドアを締めた。

 階段の所で、男が二人きりとなった。

「智子、いや智子さんとは、去年の四月からの関係です。私が以前池袋店の店次長をやっていた時に、ある化粧品会社から受けた接待の場に、智子さんもいたのです・・・・・・」

「智子が、接待に・・・・・・」

 どうして智子が、化粧品会社が百貨店を接待する場にいたのだろうか・・・・・・亭主である自分が知らないことを聞かされて、達郎はまた新たな課題を投げかけられたような気がした。

「僕も、どうしてその場に、智子さんがいたのかよくわかりませんが、いっしょに同席していた化粧品会社の田中という女性に連れてこられたと言ってましたよ」

「た、田中・・・・・・」

 化粧品会社に勤める田中、これまた、達郎には心当たりがなかった。そんな女、智子の学生時代の友だちにも、もちろん会社の同僚にもいない。智子が勤務していたのは不動産会社だからだ。

 どうも、達郎には、智子に関して知らないことが多過ぎた。

「それ以来・・・・・・だよ」

 達郎が当惑しているのを見て、井上は、何だこいつは亭主のくせに女房のことを何も知らないのか・・・・・・だから、女房に浮気をされるんだ、とでも思ったのか少し言葉使いが変わった。

「あの日は、僕と別れた後、交通事故に遭ってしまった。駅前で買物があるから、と言って別れた後だったんだ・・・・・・」

 井上がひとり言のようにつぶやいた。

「そ、それなら、どうして、葬儀に来なかったんだ」

 達郎は、愚問をしてしまった。

「僕が、葬儀に行けると思いますか。そんなことをしたら、僕との関係がばれちゃうじゃないですか」

「・・・・・・」

 達郎は、物凄い形相で井上を睨んだ。

「君が、怒るのもわかるけど、僕は無理矢理智子を誘惑したわけじゃないんだから・・・・・・」

 どうやら井上は、完全に開き直ってきた。年齢を重ねた老獪さで、自分よりも一五、六歳年少の達郎に勝てるという確信が持てたのかもしれない。

「な、なんだって・・・・・・」

「智子は、亭主の君なんかより、ぼくに惚れていたんだ。ぼくは、女房に先立たれて独身だったから、いずれは智子も君と離婚して、ぼくと再婚することになっていたんだ。それまでは、お互い絶対に人には秘密にいておこう、と言っていたのに・・・・・どうして君にばれたんだろうか・・・・・」

 智子が、離婚して、再婚する!いったいどういうことだ。俺がいない間に、事はそこまで進んでいたのか。達郎は、二人の男女関係の進捗の速さに、驚愕せざるをえなかった。 達郎の表情を見た、井上は、

「智子は、君に抱かれたって、感じたことはないと言っていた。だが、僕に抱かれている時は、何もかもが真っ白になって、天に昇るくらい幸せだと言っていた」

 井上が勝ち誇ったように言った。

 達郎は、この井上の薄い頭髪が、智子の局部をまさぐっている場面を想像し、立腹の極限に達した。

「だいたい君、女房のからだも喜ばせられないで、文句を言うな!」

「何をこの野郎、人の女房を取りやがって・・・・・・」

 達郎は、堪忍袋の尾が切れた。右手の拳が井上の頬に食い込んだ。勢いでかけ慣れていないサングラスがずれ落ちた。メリッという音がした。井上は勢い良く倒れこんだ。階段の登り口で止まるかのように見えたが、片足を踏み外し、そのまま、背中から一挙に転げ落ちた。最後に、ドボン、というような鈍い音がした。そして、頭を逆さにして、足を階段に上げたまま静止した。

 井上は、全く動かなくなってしまった。普通なら、痛え、などと言って呻くはずであるが。

 達郎は、恐る恐る階段を降りて近づいた。 見ると、頭から小豆色をした血がべっとりと流れていた。血が薄い禿頭を染めていた。眼球は空を仰いでいる。呼吸はしていない。 死、死んだのか・・・・・・

 達郎は咄嗟にその場から逃げた。一目散で階段を降りた。四階、三階、急ぐ足がもつれるようになり、つんのめりそうになった。まだ二階か、こんなに階段が長いとは・・・・・・

 ようやく一階にたどり着いた。急いでドアを開けると、マンションの裏口に出た。ちょうど良い、誰にも見られずに済むかもしれない。

 達郎は、植え込みのある建物の脇を抜けた。すると正面に金網があって、そのまま外へは出られなかった。左側にドアがある。仕方なくそれを開けると、玄関ロビーに出た。

 達郎は、普通の歩速に変えて、何事も起こらなかったように振る舞おうとした。たが、呼吸がぜいぜいして、平静さを保ち続けるのが大変だった。

 玄関のガラスのドアを開けると、右手に管理人室があった。まずい、と思ったが、窓ガラスが締められていたので、ほっとした。

 幸運なことに、ここまでは人に逢わなかった。誰にも目撃されていないと思った。

 通りへ出た。一刻も速く、大阪の家に帰りたかった。このまま急いで金沢駅に行けば、もしかしたら大阪行の最終の特急に間に合うかもしれない。仮に間に合わなくても途中の駅で下車して、そこに泊まっても良い。今はただ、この金沢という土地から、すぐに離れたかった。それは、警察という追っ手から逃げたいという気持ちが先走っていたせいかもしれない。

 達郎は、とにかく電車に乗ろうと考えた。急いで金沢駅に行きたい。それなら、すぐにタクシーを拾わなければならない。

 大通りに出た。客を乗せたタクシーが何台か通り過ぎた。それらを見送った瞬間、ここでタクシーを拾うのは危険だ、と思った。タクシーを拾って犯行現場から逃げる、というのは捕まる犯人がよく犯す失敗例だ。犯人を乗せたタクシーの運転手の証言で、顔が割れたりする。ここで、タクシーを捕まえたら、必ず容疑者と見なされる。

 今、タクシーに乗って、金沢駅に着かなければ、大阪へ帰るのは難しい。ちきしょう、大阪に帰れないか、と思いながらも、今は速く帰ることよりも殺人の証拠を残さないことの方が先決だ。急いでタクシーに乗って、運転手に見られて、余計な目撃者をあえて作ることはない。達郎は、空車を見送った。

 結局、タクシーを拾わずに金沢駅方面へ歩くことにした。

高級なマンションだったので、監視カメラがあるかもしれなかった。そこで、写っているはずの帽子を脱いだ。かぶって歩いているその姿が目撃され、後で証言されないとも限らない。

歩きながら、大阪方面の列車に乗ると、今晩中にどのあたりまでたどり着くことができるだろうかと考えた。途中の長浜あたりだろうか、それとも敦賀か・・・まてよ、深夜に敦賀に着いて、そこで宿を探すのも怪しまれやしないか。犯人は、急いで大阪方面に帰ろうとしたが、列車の関係で、途中の敦賀で一泊することを余儀なくされた。警察はそう推理するかもしれない・・・・・・それなら、裏をかいて反対方向に乗れば良い。そうだ、富山方面へ行けば良いのである。犯罪者の行動は単純だから絶対に家の方向へ帰る。警察もそう読むに違いない。

 達郎は、富山方面へ行くことにした。

 これで落ち度はないだろか・・・・・・もう一度検討してみた。どうやら、なさそうだ、と思った直後、肝心なことを忘れていた、と思った。今晩泊る予定になっていたホテルの支払いを済ませていなかった。これは大変だ。宿泊料を支払わずに、このまま消え去ってしまったら、わざわざ自分が犯人であることを告知しているようなものだ。それに、殺人犯として逮捕されなくても、宿泊料の踏み倒し犯として、刑事事件の対象となってしまう。それがきっかけとなって、十分に足がつく。いずれにしても一度、ホテルには戻らなければならない。絶対に宿泊料金を払ってからでないと、この町を去ることはできない。

 うーん、色々と問題点は出てくるなあ・・・・・・達郎は、この後の自分の行動に関して、さらに熟考した。

 このまま、宿泊する予定のホテルをキャンセルして、慌ただしく帰るのは、不自然ではないだろうか。どうみてもおかしい。普通、一度チェックインしたホテルをキャンセルすることは余程のことがない限りしないはずだ。それだけで、ホテルの従業員の脳の海馬に大きなインパクトを与え、忘れられない記憶として残してしまう。後は、顔を見られないようにして、明日の午前中なるべくチェックアウト客の多い時間帯を見計らって会計を済ませるのがベストだ。

 結局、その日は当初の予定通り、金沢東都ホテルに宿泊することにした。

 途中細い路地を抜けて道に迷った関係で、ホテルに到着するまでに四十分かかった。その四十分の徒歩が、達郎には一時間にも二時間にも感じられた。

 フロントでは、従業員に視線を向けないようにして、ルームナンバーを言い、キーを受け取った。

 部屋に戻るやいなや、達郎はさっそくテレビをつけた。土曜日の十時半という半端な時間だったので、NHKを初め、どのチャンネルもニュースを放映していなかった。そのまま、NHKをつけっぱなしにした。

 ベッドに座ると缶ビールを開けて、思いっ切り流し込んだ。とにかく、喉がからからだった。二つ目の缶ビールを開けて、半分ほど飲んで、ようやく渇きがおさまった。

 あの男は、間違いなく死んでいる。

 俺があいつを殺したことが警察にわかるだろうか・・・・・・少なくとも、あのマンションに入る時の玄関でも、廊下でも、五階に上がるエレベータの中でも、井上を殴り、一階まで階段を一目散に降りる時も、そして、管理人室の脇を通って、玄関から外に出る時も、誰一人として出逢った者はいなかった。ただ、こちらが気が付かなくても、脇から、あるいは遠目に目撃されているかもしれない。この場合、横顔や後ろ姿を見られていても、正面の顔は見られていないはずだった。これだけでも多少安心はできる。ただ、監視カメラがあれば、それに写っているかもしれない。顔は良く見えなくても、着ている服の種類や色を認識されていることが考えられる。今日、着ているのは紺のスーツにブルーのネクタイで、どこにでもある服装だ。が、念のため明日はチェックアウトが十一時だから、十時に近く洋品店で上着を買って着替えようか。いや、そんなことをしている暇があったら、一刻も速くこの金沢の町から、消え失せた方が良さそうだ。とりあえず、ネクタイのみを外すことにしよう、これだけでも少しは雰囲気が変わるだろう・・・・・・

 いけねえ、指紋、指紋が残っている。指紋がべたべただ。玄関脇のインターフォン、これは色々な住人が暗証番号として、数字のボタンを押すからわかりにくいとしても、503号室のチャイムには残っている。ああ、それに非常口のドアにもある。ちきしょう、あわてていたから指紋を消してくるのを忘れてしまった。しかし、今更どうしようもない。これから戻って消し去って来るわけにもいかない・・・・・・あ、それに、サングラスも階段に落としたままで来てしまった。あれにも指紋は付いている。

 けれども、どうせ指紋があったって、前科者でない以上、俺の指紋だということはわからないだろう。要するに、井上に殺意を抱く容疑者の中に俺の名前が挙がらなければ良いのだ。井上と俺を結ぶ糸は、幸いにも智子と井上が関係を極秘にしていた以上、俺の所には到達しない。

 だが、智子の友だちの伊藤千絵なら、井上の存在を知っている。井上、というよりもむしろ、松越百貨店金沢店々長という存在をだ。千絵なら、井上と智子を結びつけるだろうが、それを新聞かテレビのニュースで知って、わざわざ警察に出頭して、教えたりするだろうか。ましてや、智子は既に死んでいる。死者が生前不倫をしていたと告げて、智子の名誉を傷付けたりするだろうか・・・・・・

 この場合、千絵が警察に言わなければ、井上と俺とを結びつけることはできない。

 しかし、千絵の動向は、要注意だ。千絵が警察にたれ込まないようにするにはどうしたら良いのか・・・・・・そうだ、俺が、智子が松越百貨店金沢店々長との間を感づいていない振りをすれば良いのだ。これなら、大阪に帰ってから、いや、東京に行って、智子の浮気などこれっぽっちも疑っていないように、千絵に対してひと芝居うてば済む。

 いずれにしても、誰も井上と俺を結びつけることはできない。

 ああ、それにしても、死んでしまうとは思わなかった。ただ、殴っただけなのに、からだが小さくて華奢だったので、勢いよくすっ飛んでしまった。殺そうと思っていたわけではないのだ。

 だが、井上は殺されても仕方がない。他人の女房を寝取ったのだから。そうさ、天罰さ、天罰が当たったのさ。あれは、勝手にあいつが階段を踏み外したのさ。俺が悪いんじゃない。

 元はと言えば、井上と智子が悪いのだ。俺はこれっぽっちも悪くない。亭主を裏切っていた女房が交通事故に遭い、その相手が階段から足を踏み外して、転落死。二人とも自業自得ではないか。

 俺は、将来のある身だ。会社ではエリートコースを歩いている。こどもの時から、いつも成績、スポーツともに一番で、学校も一流校を卒業し、有名企業にも就職した。人生のこんな所で、つまずいてはならない。井上のような、もう人生の後半のそのまた後半を折り返したような男に、これからの将来がある俺の人生が目茶苦茶にされてはたまらない。もしかしたら、俺はわが社の社長にさえ、なるかもしれないのだ。今の課長にぴったりと付いていけば、万更ありえないことともいえない。一流メーカーの社長になるかもしれない男が、百貨店の地方店の店長ごときのつまらない男の犠牲になるわけにはいかない。

 達郎は、井上を殴りつけた時にできた右手の擦り傷をさすりながら、絶対に逃げ切ってやろうと決意した。


 翌日の日曜日の朝七時、テレビのニュースをつけていたら、松越百貨店金沢店井上信之輔店長、謎の転落死。警察では、被害者の顔に何者かによって殴打された跡があることから、殴られた後、そのまま階段から落ちて、頭部を打って死亡したと断定。当日現場にいた何者かを傷害致死の疑いで、その行方を追っている、と報じていた。そのニュースは時間にしてかなりの分数を割いていた。画面には、レンガ色のマンションと503号室のドア、そして非常階段の踊り場が映っていた。そして、管理人のインタビューがあったが、犯人らしき人物は見かけなかった、とコメントしていた。

 警察では、住人の解錠が必要なオートロックの玄関から犯人が入ったところをみると、犯人は井上と顔見知りの者で、何だかの恨みを持つ者の犯行とみて、井上の周囲の人間関係を洗う、と報じられていた。

 ニュースは全国ネットで報じられた後、再び石川県を初めとする北陸地方のローカル枠でも再度流された。内容はほとんど同じであったが、今度は、松越百貨店の店員に向けて、店長が殺されてどう思うか、というインタビューが放映されていた。店員たちは、その事実を知らされて、一様に驚いていた。そのニュースの最後でも、店長の周囲の人間関係を洗う、と報じられていた。

 周囲の人間関係か・・・・・・百貨店の店長をしていれば、出入りの業者や部下や地元採用の店員など、多くの人間との接触がある。その中に、一人や二人、いや 十人や 二十人、井上に恨みを抱く者だっているだろう。警察は、まずこの当たりから、捜査するに違いない。


 達郎は、テレビのスイッチを切って、しばらくしてから部屋を出た。そして、一階に下りた。ちょうどフロントが混雑していた。大勢に紛れて、顔を覚えられにくい良いタイミングだ。

 昨日決めた通りネクタイを外した。万が一、目撃者が出た場合、犯人は青いネクタイをしていた、と証言するだろうから、それは外しておいた方が無難だった。

 ホテルのフロントの従業員に顔を見られないように、うつむきかげんにしてチェックアウトをした。

 金沢駅で特急雷鳥に乗り、一路大阪に向かった。 

 マンションに戻って、千絵の家に電話を入れたが、あいにく千絵は留守で、留守番電話が虚しく応答していた。達郎は何も吹き込まずに無言で切った。

 今朝のニュースを見て、警察に出頭しているのだろうか。達郎は気をもんだ。

 夜になって、もう一度電話した。すると、今度はすぐに千絵が出た。

「石原です、こんばんは」

「ああ、こんばんは」

 千絵の明るい声が返ってきた。どうやら、警察には出頭していないようだ。

「今日は、伊藤さんに、ちょっと、相談があって・・・・・・」

 達郎は、わざと照れ臭がるような雰囲気が醸し出せるようなニュアンスで語った。

「実は、智子が死んでからまだ四十九日が経ったばかりだというのに、会社の部長が見合いをしろと言うんですよ。僕はまだ智子のことが忘れられないから、断わったんですけど・・・・・・部長が再婚を勧めるんですよ。僕は智子一筋だったし、智子も僕だけを愛していてくれたから、何よりも智子に悪いと思うんです・・・・・・だけど、いつまでも一人でいるわけにはいかないだろう、と部長も言うんで、一番智子と仲が良くて、智子の気持ちを理解していてくれた伊藤さんの意見をきこうと思って・・・・・・」

「・・・・・・ええ、それはやっぱり、石原さんの人生ですから、天国にいる智ちゃんのことも気になるでしょうが、再婚なすった方が良ろしいんじゃないですか」

 予想もしていなかった相談の内容に、当惑しながらも、千絵は当たり障りのない回答をした。

「だけど、それじゃ、生涯僕だけを愛していてくれた智子に悪いんじゃないでしょうか」 このように言っておけば、俺が智子の浮気など夢にも思っていない、と千絵は思うだろう。そうすれば、井上と智子と俺を結びつけるようなことをしない、達郎はそう思った。「ええ、それもそうでしょうけど、石原さんのお気持ち一つですわ。石原さんが幸せになることを、智ちゃんも望んでいることでしょうし・・・・・・」

「そうですか、伊藤さんにそう言っていただければ、安心です」

 その後、二、三雑談を交わして、電話を切った。

 うまくいった。これで、俺が智子を疑っていることを千絵は認識していない。むしろ、その逆で、智子は達郎一筋だった、と俺が思い込んでいると認識するはずだ。

 だから、井上が殺されて警察が手がかりを探しているからといって、わざわざ智子との関係を知らせたりしないだろう。死んでしまった智子の名誉も傷付くし、純愛を信じている夫にも傷が付く。それに時間と交通費を使って、金沢まで出向いたりしないだろう。

 達郎は、そう読んだ。その達郎の読み通り、千絵は金沢の警察に井上と智子の関係を吐露するようなことはしなかった。

 実際のところ、千絵は、智子からは、ある百貨店の店長と関係を持っているとしかきかされておらず、松越百貨店という名も、金沢の店長であることも知らなかった。だから、以前に達郎から智子がどこの百貨店で買物をしていたのか、と尋ねられた時も適当に答えておいただけであった。

 そのような状況であったから、松越百貨店の金沢店長が殺さたという事件を知っても、千絵にとっては通常の三面記事の価値と何ら変わりがなかった。

 その意味で、達郎の取り越し苦労だったが、このような用心は決して無駄ではなかった。


 ところで、井上の遺体は、達郎が去ってから、約三時間後の深夜十二時過ぎに、建物巡回中の管理人によって発見された。

 さっそく金沢城南署に捜査本部が設置された。松越百貨店という有名企業の店長が殺害されたということで、石川県警察本部の捜査一課からも数人が城南署に派遣された。その中の大東宏治警部が、捜査の指揮を執ることになった。害者の井上は、東京から赴任している単身者だったので、事件の流れによっては、東京の警視庁とも連絡を密にしなければならないことも予想され、大東警部は、いつになく緊張感を持って、捜査にあたることになった。

 また、有名企業の幹部の殺害ということで、マスコミの取材も加熱されることが予想されたので、大東警部は広報係の仕切りを徹底させる一方、捜査員に対するマスコミの夜討ち朝駆けに対しても、徹底した箝口令を引いた。

 初動捜査の基本として、殺人現場の指紋の採取が行われた。その結果、非常口の表側のドアから井上の指紋が、裏側のドアから犯人と思われる者の指紋が検出された。またこれと同一の指紋が階段の手摺りから沢山検出された。さらに、落ちていたサングラスからもその指紋が見つかった。犯人は井上を殴り殺した後、急いで階段を下降して行ったと推測された。

 ところで、このような高級マンションであるのにもかかわらず、なんと、監視カメラが付いていなかった。毎年開催される総会では管理会社の方から監視カメラの設置の提案がなされたが、理事会側は、ここに住む住民たちに限って、事件などを起こすはずもないという意見で一致し、その実現には至っていなかった。

 捜査員は、井上の部屋の中も捜査した。

 部屋はテレビがつけっぱなしであった。その和室の部屋には座布団が一つしかなく、飲みかけのコーヒーカップも一つしかなかった。そして、このカップからは井上の指紋しか検出されなかった。灰皿にたまっていたたばこの銘柄も単一で、いずれの吸い殻からも、井上の血液型のO型しか検出されなかった。一応、部屋に置かれていた家具や調度品から指紋を採取したが、井上のものともう一人女性と推測される指紋しか検出されなかった。部屋の中では争った後がなかったので、捜査本部では、井上が犯人を部屋の外、つまり階段で応対し、その最中に殺害された、とみなした。

 直接の死因は、後頭部の挫傷で、ほぼ即死の状態だった。また、左の頬には殴打による打撲と皮膚の表面には、擦傷があった。この傷跡から、犯人の血液型と思われるB型の血液が検出された。

 監察医は、害者は、左顔面殴打により、身体のバランスを失い、階段を踏み外した結果、転がり落ち、コンクリートでできている壁面に後頭部を打ちつけ、脳を挫傷し、死に至った、と報告した。

 金や物を取っていないことから、犯行は恨みによるものと断定された。また、害者がオートロックを開けて、犯人を呼び入れていることから、顔見知りの者の犯行という見方が大勢を占めた。

 大東警部を中心とした捜査本部は、さっそく井上の対人関係を洗うことにした。


 翌日の月曜日から達郎は、いつもの通り出勤した。

 傷害致死とはいえ、人を殺してしまったことに、大きな後悔があったが、これから開けていく自分の将来を考えた場合、私がやりましたと、おいそれと自首するわけにはいかなかった。

 亭主に対する裏切りと他人の女房を寝取った罪の償いとして、まずは二人とも天に命を捧げ、そして、次に俺の将来を支援するのだ。達郎は、そう考えていた。

 ただ、いつ自分に捜査の手が延びてくるか不安でならなかった。しかし、井上が智子との関係を極秘にしていれば、ここまで警察はやって来ないだろう、と思った。

 この日の夜も、テレビのチャンネルを切り替えられるだけの、ありったけのニュースを見た。が、金沢の殺人事件の続報を伝えているものは一つしかなかった。それも、嬉しいことに目撃者や手がかりがなく、捜査は難航しそうだと言っていた。

 それを聞いて達郎は、ほくそ笑んだ。

 殺人事件なんて、毎日全国でいくつも発生している。いちいち捜査に進展がなければ、ニュースにならないから、マスコミも取り上げたりしない。

 達郎は事件の迷宮入りを願った。

 その願い通り、日が経つにつれて、新聞もテレビも事件の続報を全くといっていいほど、報じなくなった。

 事件から二週間が経過した時、達郎は、念のため大阪の中央図書館に行って、石川県地方の地方紙を事件発生の翌日の第一報の記事にさかのぼって、検証した。

 すると、二つの地方紙とも、初めこそ事件を大きく取り上げてはいたが、その後は全国紙やテレビと同様に、続報は尻つぼみとなり、一週間を経過した頃からは、全く掲載されていなかった。

 なおかつ、両紙とも真相究明には時間がかかりそうだと分析していた。


 事件が起きてからもうすぐ三週間が経とうとしていた。

 その週の土曜日、達郎は、久しぶりに横浜の家に帰った。

 昼過ぎにマンションに着くと、隣の住人が引っ越しの作業をしていた。ちょうど運搬人がタンスを持ち出すところだったので、壁に寄り添いながらよけていたら、中から住人の若い女が出てきた。茶色い髪をした水商売風の女で、上向きの真っ赤な唇が男好きの性格を表わしていた。

 達郎は、今までに見たことがない女だった。きっと大阪に転勤した後に、引っ越して来たに違いない。その彼女がまた引っ越して行くのだろう。ドアの上にある田中というネームプレートを外していた。

「あ、こんにちは」

 達郎の存在に気がついた女が挨拶したので、達郎も挨拶した。近所隣には付き合いがなかったので、この女の顔はよく覚えていなかった。

 部屋に入ると、達郎は久しぶりに掃除をした。

 夕方になって、ブザーを鳴らす音がした。 誰だろう、NHKの集金かなあ、と思いながら、ドアを開けると、隣の部屋の女だった。

「あのー、私、今日でここを引っ越します・・・・・・」

 達郎は、言葉遣いから判断して、この女はとてもインテリとは思えなかった。着用しているミニスカートが、膝の部分のほとんどを露出させているのを見て、誰とでもすぐに寝てしまう女のような気がした。

「あ、そうですか」

 この茶髪の女がどこへ引っ越そうと達郎にはあまり関係がなかった。

「それで、だいぶ前からずっと奥様に差し上げようと思っていたんですが、お亡くなりになられてしまったんで、お渡しできなかった写真があるんですが・・・・・・」

 こんな水商売風の派手な女と智子はいったいどういうかかわり合いを持っていたのだろうか、達郎が首を傾げていると、その女から写真を二枚手渡された。

 達郎は、それを受け取りながら、眺めた。「あ、これは」

 思わず叫んだ。写真には、男女がそれぞれ二人ずつ四人写っていた。一人は智子、その隣には井上、そして、今写真を渡してくれた女、もう一人の男はわからない。どこかの宴席のようだ。酒を飲めない智子が赤い顔をしている。もう一人の男は、この女の肩に手を置いている。二枚目の写真も同じようなアングルだった。

「一年ぐらい前の写真です・・・・・・捨ててしまうつもりだったんですが、たまたま今日ご主人に逢えたので、お渡しします」

「・・・・・・」

「何か、お気にさわってしまいましたら、すみません、処分してください」

 と言いながら、その水商売風の女が帰って行った。

 どうして、智子と井上の写真があるのだろうか。それにあの女も写っている。

 キッチンのテーブルの上に写真をのせて、達郎は考え込んだ。そして、その質問はさっきの女に尋ねるのが最良だと思い、急いで部屋を飛び出した。隣を見ると、既に女が鍵をかけていた。

「すみません、この写真のことで、ちょっと、お話をうかがえませんか・・・・・・」

「え、ええ、でも、あなたに話していいことかどうか・・・・・・」

「ぜひ、聞かせてください」

「・・・・・・話を聞いてしまって、後で私を怒ったりしませんか」

「絶対にしませんよ」

「それじゃ・・・・・・」

 女は達郎の申し出を了承しそうだった。

 達郎は、自分の部屋で話がしたかったが、相手が多少警戒しているようだったので、近くの喫茶店にでもと提案し、部屋に戻って財布を取った。

 マンションの二軒隣のビルに喫茶店があった。ちょうど奥まった所に席が空いており、そこなら人に話が聞かれないで済みそうだったので、達郎たちはそこに着席した。

 ウエイトレスがオーダーをとった後、さっそく達郎が話を切り出した。

「この写真、どうしてあなたがお持ちなんですか」

「・・・・・・」

 ほんの少しの間、その女はためらった後、口を開いた。

「実は、私、化粧品会社で美容部員をしているんですけど、ちょうど去年の今頃、私がうちの社の接待要員に駆り出され、銀座の料亭に向かう途中、智子さんと偶然逢ったんです。その時、うちの社員のうちの一人が美人の智子さんを気に入って、いっしょに接待に同席しないかと、私に誘えと言ったんです。私は、智子さんは絶対に他人の会社の接待になんか、付いて来るはずがないと思っていたんですが、誘ったら、来るって言ったんです・・・・・・」

 化粧品会社、接待、それらは、あの日井上が口にしていた単語だ。ということは、この女が、そうだ、田中、田中だ、さっきネームプレートを外していた。

「あ、あなたが化粧品会社の田中さん」

「そうですが、智子さんから私のことを聞いていらっしゃいましたか」

「え、いや、聞いてません」

 そういえば、智子はその接待の場に、化粧品会社の田中という女性に連れてこられた、と井上が言っていた。いったい、この女と井上と智子がどのように絡むのか、瞬間的に推理を試みたが、頭が混乱して、うまく線で結びつかなかった。

「そ、それで・・・・・・」

 早く話の展開を知りたかった達郎だが、そこに、ウエイトレスがコーヒーを運んで来たので、テーブルの上に広がった写真を伏せながら、女の説明を待った。

「接待の相手は、松越百貨店の池袋店の店次長さんと、一階の売り場を統括していた部長さんで・・・・・・」

 と言いながら、女が伏せられた写真を再び表にして、店次長と部長を交互に指差した。 何と池袋の店次長というのが井上だった。

「こ、この男は・・・・・・」

 達郎が井上のことを尋ねると、

「この人は、もう池袋にはいないそうで、どこか地方の店に転勤になったそうです。名前は忘れましたけど」

 この女はその後の智子と井上との関係を知らないのだろうか・・・・・・いや、そんなはずはない、何かを隠している。

「この男と、うちの智子は、つまり、関係していたということですか」

 達郎は、初耳のごとく装った。

 女はコーヒーを一口飲むと、小さく口を開いた。

「・・・・・・え、まあ・・・・・・はっきりとしたことはわかりませんが・・・・・・」

 その返答を聞きながら、達郎はしげしげと写真を眺めた。

「実は、私ども化粧品会社は、百貨店での売り場の位置を少しでも良い場所に、たとえば、入り口の近くやエスカレーターの近くなど、目立つ所で、人が沢山流れる所に設けるのがとても重要なんです。百貨店の場合、何といっても売り場の位置で売り上げが左右されてしまいますから。そこで、少しでも良い場所を確保するために、百貨店のお偉い方を接待するのですが、そういう時に、私どもみたいなふだんは売り場で美容部員をしている者が駆り出されたりするのです・・・・・・智子さんは、全くの偶然で、もし銀座の交差点で逢って、うちの課長がいっしょに誘えと言わなかったら、そんなことにはならなかったんですが・・・・・・」

「それに、智子が・・・・・・」

 それを聞いて、智子と井上の二人の情景を想像しても、もう達郎は腹が立たなかった。二人は既に死をもって、その罪の償いを済ませているからだ。

「・・・・・・ええ、もう私も引っ越してしまいますから、ここだけの話として、お聞きください」

 と言いながら、女はさらにコーヒーをすすった。

「その先がまだあるんです。その宴席で、もし、先方が気に入られた女の子は、一晩付き合ってしまうんです・・・・・・」

「え、」

 ということは、からだで接待するというのか。化粧品会社の接待というのは、そういう仕組みになっているのか。達郎は、耳を疑った。

「ええ、ご想像の通りです」

 さすがに男馴れしているとみえて、女は感が良く、達郎の気持ちを読んでいた。

「当日は、私ともう一人の美容部員の子がいたので、二人のうちのどちらかを選んでください、とうちの営業担当が言ったんですが、この池袋の人が、智子さんがいいと言い張ったんです」

 な、なんということだ。達郎は、その話を聞いて唖然とした。

「そ、それで、智子はどうしたんですか」

「私も、智子さんは絶対に断わるだろうと思っていたんですが、その人について行ってしまったんです」

「ほ、ほんとうに」

「ええ・・・・・・言いにくいですけど、むしろ、智子さんの方から、積極的に受け入れていたように見えたくらいです・・・・・・」

 これで、この田中という美容部員の女と井上と智子との関係を、線で結ぶことができた。

 それにしても何ということだろう。化粧品会社は、良い売り場を確保するために、接待と称して、百貨店の連中に自社の美容部員を抱かせているなんて・・・・・・金儲けのためには手段を選ばない、ビジネスマンらしいやり口だ。

 その一方で、達郎は、今更ながらに、智子の行動に呆れ果てていた。

 だが、どちらにしても二人とももうこの世にはいない。もうどうでもいいじゃないか。そう思った達郎は、後はこの茶髪の女と会話を楽しもうと思った。

「よく、そういう接待には行くんですか」

 達郎は、好奇の目で尋ねた。

「ええ、たまには・・・・・・」

 女は何のためらいもなく、平然として答えた。

「だけど、そういう接待に駆り出されちゃ、沢山給料をもらわないと合わないねえ・・・・・・」

「もちろん、お金のためですわ」

「金の・・・・・・」

「ええ、当日、接待に付き合った者には、一万円が支給されて、もし、先方のご指名にあずかれば、さらに、五万円になるんです」

 女は、接待の社内規定を解説した。達郎に連れて来られた当初よりも緊張が解けて来たようだ。ちょうどその時、脚を組み替えたマイクロミニのスカートからすらりと伸びた脚線が、達郎の視線を釘付けにした。


 ところで、殺人事件の捜査は難航していた。捜査本部の大東警部は連日頭を抱えていた。

 事件を恨みによる顔見知りの者の犯行と断定して以来、井上の知人の全てが捜査の対象になった。松越百貨店金沢店は、パートタイマーを含めた三百五十二人の全社員が、事件当日のアリバイを求められた。その結果、一人だけアリバイが実証されない者がいた。これは入社三年目の社員だった。しかし、これも後日証明された。彼は、デートクラブのような店に行って、そこで知り合った高校一年の女生徒とホテルにいたことを吐露した。捜査本部は彼を厳重注意にとどめた。

 これらと平行して、当然店長の女性関係も洗われた。

 店長は妻に先立たれ、独身生活を余儀なくされていたが、女性関係に関しては潔癖で、具体的な内容が周囲の者の口からきこえてこなかった。智子との間は誰にも告げていなかったようだ。

 だが、意外な所から発言があった。井上が住んでいたマンションの管理人が、三十歳くらいの女が時々井上の部屋に来ていた、と証言した。それは、井上の部屋から検出された指紋からも裏付けられた。彼女は、井上の机の引き出しから見つかったたった一枚の写真に、ツーショットで写っている女性と推測された。それは四国の桂浜で写したと思われる写真で、昨年の十月の日付が入っていた。

 管理人によると、この女が来訪するのは不定期で、一ヵ月月に二度の時もあれば、二ヵ月間ぐらい来ない時もあったとのことだった。だが、管理人も女の来訪時を全て目撃していたわけではないので、その頻度に関しては断定できなかった。しかし、その女が事件の前三ヵ月ぐらい姿を見せなかった、と管理人が発言したことに大東は着目した。この女が事件に何だかの関連があるのではないだろうか、そう考えた。

 ところが、この女に関する情報は、管理人以外からは全く入って来なかった。だから、名前すらわからなかった。

 大東はこの女性の存在を心に留めながら、平行して、出入りの業者を調べた。総勢二百八十五人だった。当初このうちの五人のアリバイが得られなかった。が、時間を追うごとに証拠が出てきた。そのうちの二人は、事件当日の土曜日のその時間に、風俗店で悦楽を享受していた。だから、照れ臭くてなかなか言い出せなかったが、風俗嬢が彼らのアリバイをそれぞれ実証した。残る三人は、当日在宅していたというものの、一人暮らしで証人が存在せず、アリバイが立証できなかった。だが、いずれの者たちも、末端の出入りの業者で、店長の顔さえはっきりとわからないような有様で、したがって店長との間に構築された人間関係もなく、恨みを抱くような動機もなかった。だから、この三人は捜査本部の判断で白と断定された。

 これらの合計六百三十七人の捜査が完了するまでに、実に四ヵ月が費やされた。そして、その年も既に夏が終わろうとしていた。

 当初百人体制だった捜査本部も徐々に縮小され、その頃には三十名を割っていた。捜査本部の大東警部は、長期戦を覚悟していたが、ここまで容疑者が特定できないと、犯人を検挙するのは、かなり困難なのではないかと思うようになっていた。

 秋になって、更に捜査陣の人数が減少した。それは十月の警察署の職員を初めとする一連の公務員の人事異動とも微妙に絡んでいた。

 その頃、達郎は、智子を亡くした衝撃も、彼女の不倫の相手である井上をふとした弾みで殺してしまった悔恨も、脳裏から消えつつあった。

 ところで、智子が交通事故に遭った当日の夜、食事をすることになっていた総務部の吉沢美里とは、梅雨が明けてしばらくしてから、その当初の約束を履行していた。

 その日、彼女をエスコートした達郎は、二軒目のワンショットバーを出た所で、いきなり彼女の唇を奪った。女房を亡くした中年の男らしく、ゆっくり時間をかけて、口説くべきだったのかもしれないが、必要以上に大事に行き過ぎると、失敗に終わるケースが多い、と女好きの友人からきいていたので、一気呵成に攻撃した。それが功を奏した。結果はとんとん拍子に進み、二度目に会った時にはベッドインしていた。

 夏は新盆だったので、表向きは派手な行動は取れなかったが、それでも八月の終わりの土日を絡めて、三泊四日のグァム島旅行に、美里と二人で行ってきた。もちろん、会社内には内密にしておいた。

 秋になって美里との恋は一層燃え上がった。達郎は、十年以上年の年の差がある美里が可愛くてたまらなかった。美里は、性格は穏やかで、おっとりとしていたが、夜になると豹変した。その変わりように、達郎は驚愕したが、それもうれしい悲鳴だった。

 年若い美里との逢瀬を楽しみながら、新しい年が明けた。

 その頃になると、智子や井上の事件のことなど、記憶の彼方に消えかけていた。


 一方、昨年の秋から十名たらずになった捜査陣を率いていた大東は、井上との関係者を金沢から外のエリアに広げていた。井上と人間関係を構築していた者は金沢だけに留まらなかったからだ。何せ井上が金沢店の店長に就任したのは、事件が起こる前年の七月だったから、むしろ、彼の人生の中で、恨みを抱く者はこれ以前に関係した者の割合が高かった。

 捜査陣は、井上が松越百貨店に入社してからの足跡をたどった。そして、その時々の井上の周囲にいた者の全ての人間が捜査の対象となった。

 井上は、入社時が横浜店、次が本社商品部、次が千葉店、そして池袋店だった。この間に井上と知り合いになったと考えられる実に二千五百三十七人が事情聴取を受けた。しかし、全員が白だった。

 その聴取が終了した頃には再び年が明け、花見の季節がやって来ていた。事件の発生からついに二年が経過しようとしていた。


 一年十ヵ月の交際期間を終えて、達郎と美里の二人は、四月の十日の美里の誕生日に入籍した。達郎が二度目の結婚だったので、披露宴は先延ばしにして、とりあえず籍のみを入れた。

 こうして、達郎の年の離れた妻との二度目の結婚生活が始まった。

 一方、捜査は完全に暗礁に乗り上げていた。大東警部は頭を抱え切っていた。どいつもこいつも井上に恨みを持つようなやつがいなかった。まいったなあ・・・・・・だめかなあ・・・・・・大東は犯人逮捕を諦めかけていた。

 捜査が息詰まるともう一度犯行現場に行ってみたくなるものだが、大東もまた例外ではなかった。この二年間、井上のマンションには何度も足を運んでいた。

 大東は再び金沢市城南町三丁目のマンションに入った。階段の犯行現場をざっと観察した後、井上の部屋に入った。この部屋は井上が生前購入していたものだった。それを相続したアメリカに在住している一人息子は、部屋の中を事件当時のままの状態にしていた。

 玄関脇はダイニング。隣はテレビがかけっぱなしで、コーヒーカップが一つと灰皿が置かれていた和室。次の部屋は、リビングルーム。大東は念入りに部屋を見渡した。サイドボードの上には真っ赤な花瓶があった。当然、この花瓶からも指紋を取ったが、井上ともう一人交際のあったと思われる女性の指紋しか出て来なかった。大東は、この女性が何だかの手がかりを持っているような気もしたが、残念ながら、井上の人間関係の中から特定できる人物は出て来なかった。

 大東は花瓶を持ち上げて検分した。底には、『90,10,10 S+I』とアルファベッドが刻まれていた。それは、日付と井上信之輔のイニシャルだった。

 捜査本部ではわざわざ花瓶に刻印するほどの記念日である以上、一九九〇年十月十日の彼の足跡を調べたが、特に変わったことは見い出されなかった。

 それから数か月が過ぎた。

その日、大東は母校の後輩の結婚披露宴に出席した。帰宅後、もらった引き出物を家人が整理した。中に、新郎新婦のイラストが入った皿があった。

「こんなお皿、本人以外が使うのかしら・・・・・・」

 そう言う妻の声がした。見ると、皿の中には、二人のイラストのそばに、今日の日付と新郎と新婦の名前が入っていた。二人の名前の間に+という文字があった。

 あれ、どこかで見たような・・・・・・大東はそれがどこで見たものかなかなか思いだせなかった。

 翌日、出勤する際に、玄関の下駄箱の上に置いてある花瓶を見て、それが井上の部屋に置いてある花瓶に刻まれた+という文字であるということを思い出した。

 あれは、確か+の左右に、SとIが刻まれていた。井上信之輔のイニシャルだ。鑑識も捜査本部もそう判断していた。そう、イニシャル、イニシャルなんだ。その時、そう納得した。

 署について、夕刻、部下が互助会から十万円の小口融資を受けるので保証人になってくれと言うので、二つ返事で了承した。大東も若い頃、何度か借り入れ、その度に上司から保証を取り付けていたからだ。

「ここに、署名捺印をお願いいたします」

 部下から形ばかりの書類を受け取って、内ポケットから取り出した万年筆で署名した。そして、そのキャップを仕舞おうとした時、『K,O』という刻印された自分のイニシャルが目に入った。親戚の叔父に大学の入学の際に祝いとしてもらったものだ。それをしげしげと眺めた。

 そうだ、普通イニシャルを刻む時は名前と苗字をローマ字にして、頭の一文字を書くが、その際、間にはたいてい『,』を入れるものだ。それじゃ、『+』が入っている井上の花瓶、あれは井上のイニシャルではないのか・・・・・・・文字はSとIである。井上信之輔のイニシャルと同じだ・・・・・・え、待てよ、もしかしたらそれは別なものの名称と偶然一致したものか・・・・・・

 それでは『+』は何を意味しているのだろうか。それはどんな時に用いるのか・・・・・・

それは、二つの物を合わせるという意味ではないだろうか。そういえば、先日もらった披露宴の引き出物に新郎新婦の間に『+』が入っていた。

大東は、再度混乱しかけた頭を整理し直した。その結果、次のようなストーリーを描いた。

一九九〇年十月十日、どこかで行われたSという頭文字の人とIという頭文字の人が結婚し、記念に花瓶を作り、関係者に支給した。それを受け取った一人が井上もしくは井上の知人で、それを使用していた。

どちらかというと、花瓶に花を生けたりするのは、男より女だ。大東は、花瓶から女性と思われる細い指の指紋が検出されていることから、この女性が持ち込んだ可能性が高いと推理した。

 SとIという名前の二人の事情聴取は済んでいるだろうか・・・・・・・

 大東は念のため、この花瓶をビニール袋に入れ、署に持ち帰った。

「SやIという名前の者は沢山おりますが・・・・・・」

 部下の磯山刑事が、今までに事情聴取を行った三千百七十四名の名簿をチェックした。

「仮にこの中にいたとしても、みなアリバイがありますから、犯人ではありません」

「・・・・・・う~ん、そうだなあ・・・・・・」

「それなら、逆に、この日に挙式を上げたという事実からこの二人を探してみてはいかがでしょうか。結婚式場や引出物屋から当たればわかるかと。金沢市内の結婚式場から始めるか、もしくは、害者の生活圏を調べるかです・・・・・・」

 磯山からの提案だった。

「それじゃ、洗ってみるか。どこの誰からどこの誰に渡ったものかを洗うことにしよう」

 捜査は袋小路に入ってしまっていたので、このような些細なことでも調べざるをえなかった。しかし、この作業も、手当たり次第に試みるしか、他に方策はなかった。

 その時、捜査陣は五人に減っていた。


 翌日、金沢城南警察署の捜査本部は久々に活気を取り戻していた。

 捜査本部では、『S+I ’90,10,10』と記入された引き出物が、井上に渡されたものなのか、それとも第三者に渡されたものを井上が譲り受けたものなのか、そこが知りたかった。

「刻まれた日付の一九九〇年十月十日の時点で、害者はどこの店に勤務していたのか調べてくれ」

 大東が磯山に命じた。磯山は、既に棚の上にしまい込んでいたファイルを取り出した。そして、手垢の付いたページをめくった。

「その頃、害者は池袋店にいましたね」

「池袋か、東京だなあ・・・・・・害者がもらったものなのか、それとも誰かに害者がもらったのか、どちらかだろうが・・・・・・」

 いずれにしても、引き出物が配布された人々を洗い出すためには、どこで行われた披露宴であるかを特定することが肝要だった。

 大東は、考えられる花瓶の流れの経緯をもう一度整理した。

 第一に、井上が披露宴に出席して、花瓶をもらったと考えた場合。

 その頃、井上は、池袋店の営業推進部長から店次長に昇格した直後であり、金沢には全く縁もゆかりもなかった。したがって、東京圏で行われた披露宴に出席した可能性が高い。井上は金沢に転居するにあたって、他の家具、小物類と同様に、花瓶も持って来たと考えられる。だが、男が花瓶など持って来るだろうか・・・・・・

 第二に、井上が関係していた女が、どこかの披露宴でもらった花瓶を持って来たと考えた場合。

 彼女は、井上が金沢に赴任して来てから、男女の関係ができた者と考えるのが妥当であるから、地元の金沢圏で行われた披露宴である可能性が高い。この女は、井上と関係ができてから、彼の部屋に花を生けるために、自分の家から以前に引き出物としてもらった花瓶を持ち出して来たと考えられる。

 可能性としては、女の線の方が高かったので、大東は、金沢市内の結婚式場から、花瓶の引き出物を当たるよう指示した。

 机の上に置かれた赤い花瓶を黙って見つめながら、それを洗えば、新しい人脈に到達するかもしれない。もしかしたら、害者の女がわかる。大東をはじめとして捜査陣はそう考えていた。


 捜査本部の五人は、金沢市内の結婚式場を片っ端から当たった。一九九〇年十月十日にSとIという頭文字の組み合わせのカップルが結婚披露宴をその会場で行ったか、という尋ね方をした。

 その調査を開始した初日こそ、捜査員は各結婚式場を歩いて、確認して回っていた。しかし、余りにも手間がかかり過ぎるし、また捜査員の人数も五人と少なかったので、大東は電話による調査に変更するよう指示した。 その結果、調査の三日目にして、金沢市内の結婚式場、ホテル、宴会場、協会、町の公民館などの公共施設など、結婚披露宴を行うことが可能な全ての場所において、SとIという組み合わせの夫婦が誕生していないことがわかった。

 大東は、次に調査を石川県内に広げた。

 十日ほど経って、やはり石川県内にもこの二人の足跡はないことがわかった。

 次に富山、福井両県を調べた。これには二週間を費やした。

 この経過を見て、大東、磯山とも、この披露宴は北陸地方ではなく、東京圏で行われたものではないかという気がしてきた。東京で行われた披露宴だとしたら、井上が出席して、もらってきた引き出物である可能性が高い。

「やはり、害者がもらった引き出物なんでしょうか」

 磯山がビニール袋に入った花瓶を持ち上げながら言った。この頃になると、花瓶を持ち上げる癖が磯山にはしみついていた。

「うーん、害者がもらったものかもしれないが、もしかしたら、女が東京にいて、東京で行われた披露宴でもらったものかもしれない。したがって、女が金沢の人間だとこだわることはない、東京の女の可能性もある・・・・・・」

「それじゃ、東京都内を洗うことにする」

 大東が、捜査員に最後の発破をかけた。大東は、口にこそ出さなかったが、これで見つからなければ、捜査は迷宮入りになるような気がしていた。

 それはまた部下の磯山も同感だった。

 二人は視線を合わせると、無言でうなずいた。捜査も二年以上が経過してくると、上司と部下の間には阿吽の呼吸が形成されていた。

 捜査本部の五人は、分厚い東京都内の電話帳をめくりながら、我慢強く聞き込み調査を開始した。

 すると、以外にも調査を始めてすぐにそれが判明した。大東警部自らが電話をかけていた相手だった。

 それは東京都千代田区内にある有名ホテルだった。披露宴が行われた後、当日の招待客の引き出物として配布されたものであるということがわかった。

 その日の午後、大東と磯山の二人がこのホテルに急行した。ホテルの支配人は親切に応対してくれた。

 新郎のSというのは、フルネームを千葉真治といい、新婦のIは旧姓を河北逸美といった。この千葉、河北両家の当日の招待客は百二十三名だった。

 ホテル側には、披露宴の招待状を筆耕した関係で、全出席者の氏名と住所が保存されていたが、その中に井上信之輔の名前はなかった。同時に、井上という姓もなかったので、井上の妻が出席していたとも考えられなかった。

 大東たちは、千葉夫妻に電話を入れた。やはり、夫妻は井上とは何の面識もなかった。夫妻に事情を説明して、招待客を洗うことにした。

 この捜査はその夜から開始した。


 それから一ヵ月余りが経過した。

 達郎が勤務する会社は役員改選期を迎えて、社内が落ち着かずに慌ただしかった。今回の改選では、社長が十年ぶりに交替することが決定していたからだ。社長が替われば、副社長以下、専務、常務、平の取締役に至るまで、大幅に布陣が変更される可能性が高かった。すると、次に部長クラス、そして課長、というように、どこの会社でも同様であるが、人事の大異動が始まるのであった。それには当然、派閥争いや抗争が伴うのは言うまでもない。

 達郎にとっては幸いにも、次期社長には営業畑出身の専務が内定していたので、それ以下の布陣には営業色の濃いものとなることが予想された。

 さらに都合が良かったことに、直属の梶本課長が次期社長に通じていた。大阪に赴任して以来、梶本課長には、例の一件があった四ヵ月弱を除いて、ぴったりと付いて来た。全ての仕事を無難にこなし、つい先月にも大きな成果を上げた。だから、自分は悪いようにはされないだろう、と考えていた。

 その日、達郎は、いつものように帰宅して、既に会社を退職して専業主婦に納まっている美里が作った手料理を食べた後、テレビでプロ野球中継を見ながら寛いでいると、玄関のチャイムが鳴った。

 美里が応対に出た。

「あなた、警察の方があなたにききたいことがあるって」

「警察?」

 その頃、新しい生活に入って、会社の仕事も順調だった達郎は、二年以上前の一件など忘れかけていた。

 達郎が、重い腰を上げようとした時、後ろから美里が言った。

「なんか金沢から来たみたいよ」

 か、かなざわ・・・・・・

 その時、達郎の全身から血の気がいっせいにひいていった。

 ど、どうして、今頃・・・・・・まだ捜査をしていたのか、あの件は迷宮入りしたんじゃなかったのか・・・・・・俺に結びつく手がかりはないはずだが・・・・・・

 まずい、心臓がドキドキと高鳴ってきた。「何か、花瓶のことでちょっとききたいことがあるだけみたいよ、すぐに終わるって」

 花瓶、何のことだ、あの時、花瓶なんて見かけなかった。第一、俺は井上の部屋に入っていない・・・・・・すると、まだ俺に容疑がかかっているわけではないのか・・・・・・そう思うと、徐々に心臓の鼓動が治まってきた。

 ここで、応対を拒んだら、余計に怪しまれてしまう。

 達郎は、せっかく野球の試合がいいところなのになあ、とつぶやきながら玄関に出た。

「石川県警金沢城南署の大東です。石原さん、この花瓶に心当たりはありませんか。亡くなられた奥さんが五年前の十月十日に、千葉真治、河北逸美夫妻の結婚披露宴に出席されて、その時に持ち帰った引き出物と同じものなんですが・・・・・・旦那さんはこちらのマンションには、お持ちになりませんでしたか」

 真っ赤な花瓶だった。達郎は、それを手に取ると、念入りに見回した。確かに、智子がもらってきたような気もする。首を捻りながら、

「智子がもらってきたような気もしますが・・・・・・僕はこっちには持って来ていません。多分、智子の実家の方にあると思いますよ・・・・・・これが何か・・・・・・」

 達郎は、何を捜索しているのか心配でならなかった。

「ある詐欺事件ですよ」

 大東が言った。捜査の対象者からそう尋ねられた時には、全ての人に詐欺事件の捜査だと答えた。縁起物の引き出物が殺人事件に絡んでいるとなると、千葉夫妻に気の毒であるとの配慮からだった。

 詐欺事件か、良かった。そりゃ、そうだろう。今頃、あの殺害がばれるはずがない。達郎は、悟られないように胸を撫で下ろした。「どうも、お休み中のところ、お手間を取らせました」

 と言って、二人の刑事は帰って行った。


 二週間後、達郎の会社では人事異動が発令された。

 まず、達郎が仕えていた新聞記者上りの腑抜けの営業部長が子会社へ左遷となった。それに対して、直属の梶本営業第二課長は東京本社の営業推進部副部長に抜擢された。そして、何と、その後を追って、達郎は営業第二課長に昇進した。

 その日、達郎は、社内や取引先から祝いの言葉を、浴びるように受けた。

 今夜は祝杯だ、と思いながら、浮かれ気分で、玄関のロビーを出ようとした時、つかつかと厳つい二人の男が近寄ってきた。一人の男が、凄味のある重低音で、他の社員に聞かれないように、達郎の耳元で囁いた。

「石原達郎さん、井上信之輔殺人事件に関して、聞きたいことがあるので、警察署まで任意同行願います」

「ど、どうして・・・・・・」

 達郎は、その場に立ちすくんだ。

 その日の人事発令に悲喜こもごもとしていた社員たちは、立ち止まる達郎をよけながら通り過ぎて行った。

「後で、じっくり聞かせてやるよ」

 大東警部の渋い低音が達郎の全身に響いた。


 捜査本部は、千葉真治、河北逸美夫妻の結婚披露宴の出席者の百二十三名を一人ずつ訪ねた。その結果、招待客のうち百十五名の家から同じ花瓶が発見された。

 そして、残る四名が花瓶を他人に譲っていたが、これも追跡調査の結果、その所有が確認された。

 後の二名は、花瓶を割っていた。すでに壊していたのだ。捜査陣は、この二人に花瓶を持たせた。そして、その指紋を採取したが、井上の部屋から出てきた指紋や犯行現場に残っていた指紋とは全然一致しなかった。

 これで、百二十三名のうち百二十一名が判明した。

 そして、最後に残された二人は、既に逝去していた。一人は、逸美の母方の祖母だったので、これは後回しにした。もう一人は、石原智子という女で、千葉夫妻によると交通事故で死んだとのことだった。しかたなく大東と磯山は、生前の夫である達郎を大阪に訪ねた。ところが、花瓶は妻の実家にあるだろうと言われ、その日の夜、今度は智子の母親を訪ねた。

 応対に出たのは、松葉杖をついたからだの不自由な母親だった。

 その時、母親から娘の思い出話を長々と聞かされた。その中の一つに、智子が二年前の一月に交通事故に遭って死んだのは、金沢に旅行中のことだったという事実があった。

 それを聞いた二人の刑事は、頭にピンと来るものがあった。

 そして、智子が死亡する前から、からだが不自由であると言っていたこの母親が犯人であるはずがないと考えた二人の刑事は、昼間亭主に触れさせた花瓶をビニール袋に入れたまま、母親に見せた。が、母親は心当たりがなかった。二人は、智子の生前の持ち物を検分したが、そこには花瓶がなかった。

 しかし、几帳面に整理されていた箱の中から宅配便の控えが見つかり、その中の何枚かに金沢市の城南町宛のものがあった。石原方にして、自分宛になっている。不自然だ。同居していたとも思える。

これで、井上信之輔は石原智子と関係があったことが判明された。

 その日の夜、二人は夜行列車で金沢に帰った。金沢城南署に着くやいなや、花瓶に付着している智子の生前の亭主の指紋を鑑識に回した。

 その結果、その指紋が犯行現場に残された指紋と見事に一致した。

 また、智子の母親によると、達郎の血液型はB型とのことだった。それは、害者の頬に付いていた犯人のものと思われる血液型と同じだった。

 捜査本部は、念のため二年前の犯行当日の金沢市内のホテル、旅館の名簿を調べた。すると、東都ホテルから石原達郎の名前が出てきた。


 人生とは皮肉なもので、達郎が連行された日は、達郎が、同期のトップを切って、課長に就任する発令が出された日だった。

                                          ―おわり―

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