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婚約破棄されました——ええ、"王太子殿下を処刑台に送るために"私が仕組んだことですけれど?

作者: カルラ
掲載日:2026/05/05

 王宮の大広間に、シャンデリアの光が降り注いでいた。

 今夜の舞踏会は、春の到来を祝うものだった。数百本の蝋燭が煌めき、貴婦人たちのドレスが波のように揺れ、どこかから弦楽四重奏の音が流れてくる。セレスティア・フォン・アルディアは、その光景を壁際から静かに眺めていた。

 薄青のドレス。整えられた淡金の髪。感情の読めない、穏やかな微笑み。

 公爵令嬢として十六の頃から磨き上げてきた、完璧な"社交の仮面"だった。

 「セレスティア!」

 声が広間に響いた。

 高く、よく通る、自信に満ちた声。セレスティアは杯を唇に近づけたまま、ゆっくりと声の方向へ視線を向けた。

 王太子レオンハルトが、真ん中に立っていた。

 金の刺繍が入った白い礼服。艶やかな栗色の髪。整った顔立ち。誰もが認める、絵に描いたような王太子の姿だった。しかし、セレスティアはその目の奥にあるものを知っていた。——傲慢と、怠惰と、腐敗の気配を。

 「皆の前で宣言する!」

 レオンハルトは片手を大きく上げ、広間全体に聞こえるよう声を張った。招待客たちの視線が一斉に集まり、音楽が止んだ。

 「セレスティア・フォン・アルディア公爵令嬢との婚約を、本日をもって破棄する!」

 静寂が落ちた。

 一瞬の、完全な静寂。

 セレスティアは——驚いた。

 いや、正確には、驚いた"演技をした"。杯をわずかに傾け、睫毛をゆっくりと瞬かせ、口元から微笑みだけを消す。それだけの動作を、たった一秒のうちにこなした。

 「理由を聞いても?」

 自分でも感心するほど、落ち着いた声が出た。

 「理由だと?」レオンハルトは鼻で笑った。「お前は冷たい。愛がない。隣に立っていても、人形と話しているようだ。私が求めているのは、そういう女ではない」

 ざわめきが波のように広がった。

 「——ミレイユ」

 レオンハルトが手を差し伸べると、群衆の中から一人の女が進み出た。赤みがかった茶色の髪、人懐こい笑顔、どこか庶民的な温かさを漂わせた容姿。男性貴族たちが思わず目を奪われるような、明るい美しさを持つ女だった。

 「彼女こそが、私の真実の愛だ。ミレイユを次の王妃にする。セレスティア、お前はもう必要ない」

 広間の視線が全て、セレスティアに向いた。

 哀れみの目。好奇の目。優越感を隠さない目。

 セレスティアはゆっくりと、深く一礼した。

 「——承知いたしました、殿下」

 それだけだった。

 泣かなかった。取り乱さなかった。食ってかかることも、懇願することも、怒鳴ることもしなかった。

 ただ、一礼して、踵を返して、大広間を出た。

 その背中を見送る人々は誰も気づかなかった——セレスティアの胸の奥に、小さな、小さな安堵の息があったことを。

 ようやく、動ける。


 翌日から、セレスティアは社交界への出席を減らした。

 「お気の毒に」と人々は言った。「あれほどの令嬢が、あんな仕打ちを受けるなんて」と囁いた。

 セレスティアはそれらの同情を、静かに受け取った。否定もしなかった。訂正もしなかった。傷ついた公爵令嬢を演じることは、今の自分に必要な時間を作るための、もっとも効率的な方法だったから。

 邸に戻ると、仮面は外れた。

 書斎の机に広げられていたのは、数枚の書簡だった。セレスティアはそれを一枚一枚確認し、自ら返信を認めた。宛先は複数——王宮の外、王都の外、場合によっては国境の外にまで及んだ。封蝋を押す手際は淀みなく、まるで毎日の業務をこなすかのように静かだった。

 「帳簿の確認は?」

 傍らに控えた侍女——エリザと呼ばれる、長年セレスティアに仕える女——が答えた。

 「第三期分まで照合が完了しております。予想通りの……いえ、予想を上回る数字が出ておりました」

 「そう」

 セレスティアは短く答え、次の書簡へ手を伸ばした。

 「納屋の件は?」

 「手配済みです。誰にも気づかれていないかと」

 「ご苦労様」

 それ以上のやり取りはなかった。エリザは長年の付き合いから、主人が何をしているかを半分だけ理解していた。——半分だけで、十分だった。

 セレスティアが指示を出し、書状を送り、帳簿を調べ、使用人に動きを与える。その全貌は、まだ誰にも見えていなかった。セレスティア本人以外には。


 彼女がレオンハルトの"問題"に最初に気づいたのは、三年前のことだった。

 婚約から一年が経ち、王宮の事務に関わる機会が増えた頃のこと。王太子の補佐として書類に目を通す中で、セレスティアはある数字の"歪み"を発見した。

 民政への予算配分が、記録と実際の支出とで食い違っていた。

 最初は単純な記載ミスかと思った。しかし調べるほどに、歪みは大きくなった。農村への治水工事費が消えていた。北方の駐屯兵への給料が、半年遅れていた。その一方で、王太子の私的な狩猟小屋が増改築されていた。趣味の馬の購入に、国庫から資金が出ていた。

 歪みではなかった。これは、流用だった。

 セレスティアは誰にも言わなかった。

 レオンハルトに直接問うことも、父である公爵に相談することも、しなかった。なぜなら、彼女にはもう分かっていたからだ——これは氷山の一角であり、問題は資金流用だけではないということが。

 続く半年で、さらに多くのことが見えてきた。

 気に入らない貴族の領地査定を意図的に低く評価させ、圧力によって土地の売却を強いる。無能であっても自分に媚びる者を要職に就け、有能な者を閑職へ追いやる。隣国との通商条約交渉で、個人的な利益を得るための"調整"を行う。

 王太子レオンハルトは、表向きの優秀さの裏側で、王国を静かに食い荒らしていた。

 そしてセレスティアは気づいた——自分が婚約者である限り、この腐敗に直接手を触れることはできない、と。

 王太子妃になれば、証拠を握っていても立場が使えない。告発すれば自分が逆賊になる。黙っていれば共犯者になる。

 だから彼女は考えた。

 長く、深く、冷静に。

 ——婚約を破棄させよう。

 これは復讐ではなかった。

 愛を失った女の怒りでも、プライドを傷つけられた貴族の意地でもなかった。

 これは、粛清計画だった。


 「証拠は、どこまで揃っていますか」

 夜の邸の一室——窓のない小部屋で、セレスティアは向かいの男に静かに問いかけた。

 カイル・ヴァン・エストレア。隣国ヴァルデン王国からの使節として王都に滞在する、三十代の男。端正というより知性的な顔立ちで、常に落ち着いた声で話す。セレスティアが長い時間をかけて信頼を築いてきた、数少ない人間の一人だった。

 「横領に関しては、かなり固い。証人も三名確保しています。ただ」カイルは指を組んだ。「外国との不正取引に関しては、まだ状況証拠の域を出ない。当事者の証言か、物証がなければ、王宮の法廷では弾かれる可能性がある」

 「やはり」

 「セレスティア様、正直に申し上げます。今の段階でも、私の国が正式に働きかければ、ある程度は動かせる。しかし王太子を完全に失脚させ、逃げ道を塞ぐには、まだ足りない」

 「分かっています」

 セレスティアは静かに答えた。

 「だから婚約破棄を急いだ」

 カイルが眉を上げた。

 「急いだ、というのは……?」

 「私が働きかけたのです。ミレイユを彼の視界に入れ、接触の機会を作り、あとは放っておいた。レオンハルト殿下は、ご自分から動いてくれました」セレスティアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。「人は、奪ったと思った瞬間が一番隙だらけになるのです。婚約を破棄したことで、殿下は制約を失ったと思い込む。私という監視の目も、公爵家という後ろ盾も、全て邪魔なものがなくなったと。——その緩みの中で、殿下は必ず動く。今まで以上に、大きく、雑に」

 カイルはしばらく黙っていた。

 「……恐ろしい方だ」

 それは侮辱ではなく、純粋な驚嘆だった。セレスティアはそれを受け取り、軽く首を傾けた。

 「恐ろしくなければ、勝てない相手でした」


 セレスティアの読みは、正確だった。

 婚約破棄の後、レオンハルトは目に見えて変わった。

 夜会の頻度が増えた。ミレイユを伴って、各地の貴族の邸を訪ね歩き、盛大な饗応を繰り返した。その費用は全て王宮の財政から出ており、担当の官吏が懸念を示すと、その官吏は翌月には別の部署へ飛ばされた。

 「制約がなくなった」と彼は思っていた。

 冷たい婚約者がいなくなり、自分の行動を疑問視する目が消えた。隣に愛しいミレイユがいる。彼女は何も責めない。何も制限しない。笑って頷いて、好きにさせてくれる。

 ミレイユは、確かにそういう女だった。

 ただし——その笑顔の裏で、彼女は全ての情報を丁寧に記録していた。

 夜会での会話。レオンハルトが酔った勢いで漏らした取引相手の名前。「あいつには黙っていてもらっている」と笑いながら口にした貴族の名前。書庫の鍵をどこに保管しているかという、何気ない一言。

 そういった情報の全てが、翌朝には暗号化された書簡となり、セレスティアの手元へ届いた。

 ミレイユ——本名をミラ・セヴァンという——は、ヴァルデン王国の情報部出身の工作員だった。カイルの紹介で、計画の最初期からセレスティアと協力関係にあった。"略奪系ヒロイン"を完璧に演じながら、内側から王太子の情報を引き出す——それが彼女の役割だった。

 そしてある夜、ミラから届いた書簡に、一行の追記があった。

 ——書庫の場所を確認しました。第七棚、右から三番目。予想通りのものがあります。


 「これが、決定打になります」

 セレスティアが机に広げた書類を、カイルは黙って見た。

 横領の記録だけではなかった。ヴァルデンと競合する第三国への秘密裏の物資提供を示す書簡。そして——王命の文書に、本来ならばあるはずのない"別の署名"が添えられていた。国王の裁可を経ずに発行された、偽造に近い命令書だった。

 「王命の偽造まで」カイルの声が低くなった。

 「おそらく、国王陛下はご存知でなかった。だから殿下は隠していた。書庫の奥に」

 「これが公になれば……」

 「王太子の地位を剥奪するだけでなく、刑事的な問責まで可能になります」

 セレスティアは書類を丁寧に重ね、布で包み始めた。手が、一度も震えなかった。

 「ミラに連絡を。計画の最終段階に入ります」

 「……セレスティア様」カイルが静かに言った。「一つ、確認させてください。今でも、怒りはないのですか。個人的な」

 セレスティアは手を止めた。

 少しの間、考えた。

 「ないとは言えません」と、彼女は静かに答えた。「ただ、怒りは足を遅らせる。だから引き出しの奥にしまっておきました。今日まで」

 「今日まで、というのは?」

 「全て終わったら、少しだけ出してもいいかと思っています」

 カイルは、初めてその夜、笑った。


 王宮の評議会が開かれたのは、それから十日後のことだった。

 テーマは「王国財政の不正調査について」。発端は、匿名の内部告発書——とされていた。セレスティアが周到に準備し、適切な人間の手を経由して提出させた書類だった。

 評議会の場に、セレスティアの姿があることを、レオンハルトは知らなかった。

 「何だ、お前は!」

 扉が開き、セレスティアが入室した瞬間、レオンハルトの顔色が変わった。驚きと、怒りと、そして——微かな恐れが、その表情に混じった。

 「招かれていないはずだ! 場違いも甚だしい、失せろ!」

 「評議会への出席は、貴族の権利として法典第十七条に定められております」セレスティアは歩みを止めなかった。「私は公爵令嬢です。排除するのであれば、それ相応の理由が必要かと」

 「お前は——」

 「終わりを告げに参りました、殿下」

 静かな声だった。怒鳴りでも、嘲りでもなく、ただ、事実を述べるような平静さで。

 レオンハルトが口を開く前に、セレスティアは評議員たちへと向き直り、手にしていた束を差し出した。

 「まず、王国財政の横領に関する記録をご覧ください。第一期から第四期にかけての予算と実支出の照合データ、並びに流出先の特定資料です」

 書類が配られた。評議員たちの視線が書類に落ち、静まり返った。

 「次に、国内貴族への圧力行為に関する証言書です。署名のある陳述書が七通。これはいずれも公証済みです」

 「待て、それは——」レオンハルトが立ち上がった。「でたらめだ! 誰が書かせた、そんなもの!」

 「殿下によって不当な圧力を受けた方々が、自らご署名になりました」

 「証言などいくらでも——」

 「では、こちらをご覧ください」

 三枚目の書類が提示された瞬間、評議会の室内の空気が変わった。

 王命の文書。そこに添えられた、国王の裁可印のない署名欄。

 「これは」評議会の長老が、震える手で書類を持ち上げた。「王命の……偽造か?」

 「殿下の命令で作成されたことを証言できる人物が、二名おります。本日、同席しております」

 扉の外から、二人の証人が入室した。いずれも王宮の事務官で、レオンハルトの直接の指示を受けていた人間だった。今は青ざめながら、しかし毅然とした顔をしていた。

 「嘘だ!」レオンハルトが叫んだ。「全部嘘だ! こいつは私への恨みで——婚約を破棄されたから、嫌がらせを——!」

 セレスティアはその言葉を、正面から受け止めた。

 そして、はっきりと言った。

 「殿下、一つだけ申し上げます」

 広間が静まった。

 「あなたは"私を捨てた"のではありません」

 一拍。

 「"自分の未来を捨てた"のです」

 レオンハルトの口が、動かなくなった。

 目が泳いだ。出口を探すように。しかし評議員たちの視線は、既に変わっていた。同情ではなく、追及の目に。

 逃げ道は、既に一つも残っていなかった。


 その後のことを、セレスティアは評議会の外で聞いた。

 レオンハルトは最後まで否定し続けたが、証拠と証言の前には言葉も届かなかった。王太子の地位剥奪と、刑事的な問責への付託が、その日のうちに決定した。

 側近たちは次々と口を割り、追加の不正が芋づる式に明らかになった。ミレイユ——ミラ——はすでに王宮を離れており、その後の行方を知る者はいなかった。

 セレスティアは、その一切を冷静に受け取った。

 評議会が終わり、王宮の廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。

 「セレスティア様」

 カイルだった。

 二人は廊下の端に寄り、周囲に誰もいないことを確かめてから、並んで立った。

 「これで、ようやく終わりですね」とカイルが言った。

 「ええ」

 「……長かった」

 「三年と少し」セレスティアは窓の外の光を見た。夕暮れ時で、王都の屋根が橙色に染まっていた。「短いとは言えませんが、必要な時間でした」

 「セレスティア様は、怖くなかったのですか」カイルが静かに問いかけた。「失敗すれば、逆賊として裁かれていた」

 「怖かったです」

 即答だった。カイルが少し驚いた顔をした。

 「ただ」とセレスティアは続けた。「このまま放っておけばどうなるか、それを想像する方が、ずっと怖かった。農民が飢え、兵士が報われず、有能な人間が排除される国に——私は加担したくなかった。それだけです」

 カイルはしばらく黙っていた。

 「……あなたのような方が、この国にいてくれてよかった」

 それは政略でも外交でもない、ただの言葉だった。

 セレスティアは初めて、今日の中で、本当の意味で——少しだけ、表情を緩めた。

 「これからは、あなた自身のために生きてください」カイルが続けた。「今まで、王国のために、計画のために、費やしてきた時間を」

 「……そうですね」

 セレスティアは空を見た。

 長い時間をかけて、ずっと前だけを向いてきた。今この瞬間まで、自分が"その先"を考えていなかったことに、初めて気づいた。

 「不思議なものです」とセレスティアは言った。「今まで、ここから先のことを何も考えていなかった。ただ、ここまで来ることだけを考えていた」

 「これからは、考えられます」

 「ええ」

 セレスティアは、もう一度だけ夕暮れの光を見た。

 橙色が、少しずつ暮れていく。それは悲しいことではなく、夜の始まりであり、翌朝の始まりだった。

 これは終わりではない。

 彼女の胸の中で、静かな声がした。

 ——ようやく、私の人生の始まりだ。


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