婚約破棄されました——ええ、"王太子殿下を処刑台に送るために"私が仕組んだことですけれど?
王宮の大広間に、シャンデリアの光が降り注いでいた。
今夜の舞踏会は、春の到来を祝うものだった。数百本の蝋燭が煌めき、貴婦人たちのドレスが波のように揺れ、どこかから弦楽四重奏の音が流れてくる。セレスティア・フォン・アルディアは、その光景を壁際から静かに眺めていた。
薄青のドレス。整えられた淡金の髪。感情の読めない、穏やかな微笑み。
公爵令嬢として十六の頃から磨き上げてきた、完璧な"社交の仮面"だった。
「セレスティア!」
声が広間に響いた。
高く、よく通る、自信に満ちた声。セレスティアは杯を唇に近づけたまま、ゆっくりと声の方向へ視線を向けた。
王太子レオンハルトが、真ん中に立っていた。
金の刺繍が入った白い礼服。艶やかな栗色の髪。整った顔立ち。誰もが認める、絵に描いたような王太子の姿だった。しかし、セレスティアはその目の奥にあるものを知っていた。——傲慢と、怠惰と、腐敗の気配を。
「皆の前で宣言する!」
レオンハルトは片手を大きく上げ、広間全体に聞こえるよう声を張った。招待客たちの視線が一斉に集まり、音楽が止んだ。
「セレスティア・フォン・アルディア公爵令嬢との婚約を、本日をもって破棄する!」
静寂が落ちた。
一瞬の、完全な静寂。
セレスティアは——驚いた。
いや、正確には、驚いた"演技をした"。杯をわずかに傾け、睫毛をゆっくりと瞬かせ、口元から微笑みだけを消す。それだけの動作を、たった一秒のうちにこなした。
「理由を聞いても?」
自分でも感心するほど、落ち着いた声が出た。
「理由だと?」レオンハルトは鼻で笑った。「お前は冷たい。愛がない。隣に立っていても、人形と話しているようだ。私が求めているのは、そういう女ではない」
ざわめきが波のように広がった。
「——ミレイユ」
レオンハルトが手を差し伸べると、群衆の中から一人の女が進み出た。赤みがかった茶色の髪、人懐こい笑顔、どこか庶民的な温かさを漂わせた容姿。男性貴族たちが思わず目を奪われるような、明るい美しさを持つ女だった。
「彼女こそが、私の真実の愛だ。ミレイユを次の王妃にする。セレスティア、お前はもう必要ない」
広間の視線が全て、セレスティアに向いた。
哀れみの目。好奇の目。優越感を隠さない目。
セレスティアはゆっくりと、深く一礼した。
「——承知いたしました、殿下」
それだけだった。
泣かなかった。取り乱さなかった。食ってかかることも、懇願することも、怒鳴ることもしなかった。
ただ、一礼して、踵を返して、大広間を出た。
その背中を見送る人々は誰も気づかなかった——セレスティアの胸の奥に、小さな、小さな安堵の息があったことを。
ようやく、動ける。
翌日から、セレスティアは社交界への出席を減らした。
「お気の毒に」と人々は言った。「あれほどの令嬢が、あんな仕打ちを受けるなんて」と囁いた。
セレスティアはそれらの同情を、静かに受け取った。否定もしなかった。訂正もしなかった。傷ついた公爵令嬢を演じることは、今の自分に必要な時間を作るための、もっとも効率的な方法だったから。
邸に戻ると、仮面は外れた。
書斎の机に広げられていたのは、数枚の書簡だった。セレスティアはそれを一枚一枚確認し、自ら返信を認めた。宛先は複数——王宮の外、王都の外、場合によっては国境の外にまで及んだ。封蝋を押す手際は淀みなく、まるで毎日の業務をこなすかのように静かだった。
「帳簿の確認は?」
傍らに控えた侍女——エリザと呼ばれる、長年セレスティアに仕える女——が答えた。
「第三期分まで照合が完了しております。予想通りの……いえ、予想を上回る数字が出ておりました」
「そう」
セレスティアは短く答え、次の書簡へ手を伸ばした。
「納屋の件は?」
「手配済みです。誰にも気づかれていないかと」
「ご苦労様」
それ以上のやり取りはなかった。エリザは長年の付き合いから、主人が何をしているかを半分だけ理解していた。——半分だけで、十分だった。
セレスティアが指示を出し、書状を送り、帳簿を調べ、使用人に動きを与える。その全貌は、まだ誰にも見えていなかった。セレスティア本人以外には。
彼女がレオンハルトの"問題"に最初に気づいたのは、三年前のことだった。
婚約から一年が経ち、王宮の事務に関わる機会が増えた頃のこと。王太子の補佐として書類に目を通す中で、セレスティアはある数字の"歪み"を発見した。
民政への予算配分が、記録と実際の支出とで食い違っていた。
最初は単純な記載ミスかと思った。しかし調べるほどに、歪みは大きくなった。農村への治水工事費が消えていた。北方の駐屯兵への給料が、半年遅れていた。その一方で、王太子の私的な狩猟小屋が増改築されていた。趣味の馬の購入に、国庫から資金が出ていた。
歪みではなかった。これは、流用だった。
セレスティアは誰にも言わなかった。
レオンハルトに直接問うことも、父である公爵に相談することも、しなかった。なぜなら、彼女にはもう分かっていたからだ——これは氷山の一角であり、問題は資金流用だけではないということが。
続く半年で、さらに多くのことが見えてきた。
気に入らない貴族の領地査定を意図的に低く評価させ、圧力によって土地の売却を強いる。無能であっても自分に媚びる者を要職に就け、有能な者を閑職へ追いやる。隣国との通商条約交渉で、個人的な利益を得るための"調整"を行う。
王太子レオンハルトは、表向きの優秀さの裏側で、王国を静かに食い荒らしていた。
そしてセレスティアは気づいた——自分が婚約者である限り、この腐敗に直接手を触れることはできない、と。
王太子妃になれば、証拠を握っていても立場が使えない。告発すれば自分が逆賊になる。黙っていれば共犯者になる。
だから彼女は考えた。
長く、深く、冷静に。
——婚約を破棄させよう。
これは復讐ではなかった。
愛を失った女の怒りでも、プライドを傷つけられた貴族の意地でもなかった。
これは、粛清計画だった。
「証拠は、どこまで揃っていますか」
夜の邸の一室——窓のない小部屋で、セレスティアは向かいの男に静かに問いかけた。
カイル・ヴァン・エストレア。隣国ヴァルデン王国からの使節として王都に滞在する、三十代の男。端正というより知性的な顔立ちで、常に落ち着いた声で話す。セレスティアが長い時間をかけて信頼を築いてきた、数少ない人間の一人だった。
「横領に関しては、かなり固い。証人も三名確保しています。ただ」カイルは指を組んだ。「外国との不正取引に関しては、まだ状況証拠の域を出ない。当事者の証言か、物証がなければ、王宮の法廷では弾かれる可能性がある」
「やはり」
「セレスティア様、正直に申し上げます。今の段階でも、私の国が正式に働きかければ、ある程度は動かせる。しかし王太子を完全に失脚させ、逃げ道を塞ぐには、まだ足りない」
「分かっています」
セレスティアは静かに答えた。
「だから婚約破棄を急いだ」
カイルが眉を上げた。
「急いだ、というのは……?」
「私が働きかけたのです。ミレイユを彼の視界に入れ、接触の機会を作り、あとは放っておいた。レオンハルト殿下は、ご自分から動いてくれました」セレスティアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。「人は、奪ったと思った瞬間が一番隙だらけになるのです。婚約を破棄したことで、殿下は制約を失ったと思い込む。私という監視の目も、公爵家という後ろ盾も、全て邪魔なものがなくなったと。——その緩みの中で、殿下は必ず動く。今まで以上に、大きく、雑に」
カイルはしばらく黙っていた。
「……恐ろしい方だ」
それは侮辱ではなく、純粋な驚嘆だった。セレスティアはそれを受け取り、軽く首を傾けた。
「恐ろしくなければ、勝てない相手でした」
セレスティアの読みは、正確だった。
婚約破棄の後、レオンハルトは目に見えて変わった。
夜会の頻度が増えた。ミレイユを伴って、各地の貴族の邸を訪ね歩き、盛大な饗応を繰り返した。その費用は全て王宮の財政から出ており、担当の官吏が懸念を示すと、その官吏は翌月には別の部署へ飛ばされた。
「制約がなくなった」と彼は思っていた。
冷たい婚約者がいなくなり、自分の行動を疑問視する目が消えた。隣に愛しいミレイユがいる。彼女は何も責めない。何も制限しない。笑って頷いて、好きにさせてくれる。
ミレイユは、確かにそういう女だった。
ただし——その笑顔の裏で、彼女は全ての情報を丁寧に記録していた。
夜会での会話。レオンハルトが酔った勢いで漏らした取引相手の名前。「あいつには黙っていてもらっている」と笑いながら口にした貴族の名前。書庫の鍵をどこに保管しているかという、何気ない一言。
そういった情報の全てが、翌朝には暗号化された書簡となり、セレスティアの手元へ届いた。
ミレイユ——本名をミラ・セヴァンという——は、ヴァルデン王国の情報部出身の工作員だった。カイルの紹介で、計画の最初期からセレスティアと協力関係にあった。"略奪系ヒロイン"を完璧に演じながら、内側から王太子の情報を引き出す——それが彼女の役割だった。
そしてある夜、ミラから届いた書簡に、一行の追記があった。
——書庫の場所を確認しました。第七棚、右から三番目。予想通りのものがあります。
「これが、決定打になります」
セレスティアが机に広げた書類を、カイルは黙って見た。
横領の記録だけではなかった。ヴァルデンと競合する第三国への秘密裏の物資提供を示す書簡。そして——王命の文書に、本来ならばあるはずのない"別の署名"が添えられていた。国王の裁可を経ずに発行された、偽造に近い命令書だった。
「王命の偽造まで」カイルの声が低くなった。
「おそらく、国王陛下はご存知でなかった。だから殿下は隠していた。書庫の奥に」
「これが公になれば……」
「王太子の地位を剥奪するだけでなく、刑事的な問責まで可能になります」
セレスティアは書類を丁寧に重ね、布で包み始めた。手が、一度も震えなかった。
「ミラに連絡を。計画の最終段階に入ります」
「……セレスティア様」カイルが静かに言った。「一つ、確認させてください。今でも、怒りはないのですか。個人的な」
セレスティアは手を止めた。
少しの間、考えた。
「ないとは言えません」と、彼女は静かに答えた。「ただ、怒りは足を遅らせる。だから引き出しの奥にしまっておきました。今日まで」
「今日まで、というのは?」
「全て終わったら、少しだけ出してもいいかと思っています」
カイルは、初めてその夜、笑った。
王宮の評議会が開かれたのは、それから十日後のことだった。
テーマは「王国財政の不正調査について」。発端は、匿名の内部告発書——とされていた。セレスティアが周到に準備し、適切な人間の手を経由して提出させた書類だった。
評議会の場に、セレスティアの姿があることを、レオンハルトは知らなかった。
「何だ、お前は!」
扉が開き、セレスティアが入室した瞬間、レオンハルトの顔色が変わった。驚きと、怒りと、そして——微かな恐れが、その表情に混じった。
「招かれていないはずだ! 場違いも甚だしい、失せろ!」
「評議会への出席は、貴族の権利として法典第十七条に定められております」セレスティアは歩みを止めなかった。「私は公爵令嬢です。排除するのであれば、それ相応の理由が必要かと」
「お前は——」
「終わりを告げに参りました、殿下」
静かな声だった。怒鳴りでも、嘲りでもなく、ただ、事実を述べるような平静さで。
レオンハルトが口を開く前に、セレスティアは評議員たちへと向き直り、手にしていた束を差し出した。
「まず、王国財政の横領に関する記録をご覧ください。第一期から第四期にかけての予算と実支出の照合データ、並びに流出先の特定資料です」
書類が配られた。評議員たちの視線が書類に落ち、静まり返った。
「次に、国内貴族への圧力行為に関する証言書です。署名のある陳述書が七通。これはいずれも公証済みです」
「待て、それは——」レオンハルトが立ち上がった。「でたらめだ! 誰が書かせた、そんなもの!」
「殿下によって不当な圧力を受けた方々が、自らご署名になりました」
「証言などいくらでも——」
「では、こちらをご覧ください」
三枚目の書類が提示された瞬間、評議会の室内の空気が変わった。
王命の文書。そこに添えられた、国王の裁可印のない署名欄。
「これは」評議会の長老が、震える手で書類を持ち上げた。「王命の……偽造か?」
「殿下の命令で作成されたことを証言できる人物が、二名おります。本日、同席しております」
扉の外から、二人の証人が入室した。いずれも王宮の事務官で、レオンハルトの直接の指示を受けていた人間だった。今は青ざめながら、しかし毅然とした顔をしていた。
「嘘だ!」レオンハルトが叫んだ。「全部嘘だ! こいつは私への恨みで——婚約を破棄されたから、嫌がらせを——!」
セレスティアはその言葉を、正面から受け止めた。
そして、はっきりと言った。
「殿下、一つだけ申し上げます」
広間が静まった。
「あなたは"私を捨てた"のではありません」
一拍。
「"自分の未来を捨てた"のです」
レオンハルトの口が、動かなくなった。
目が泳いだ。出口を探すように。しかし評議員たちの視線は、既に変わっていた。同情ではなく、追及の目に。
逃げ道は、既に一つも残っていなかった。
その後のことを、セレスティアは評議会の外で聞いた。
レオンハルトは最後まで否定し続けたが、証拠と証言の前には言葉も届かなかった。王太子の地位剥奪と、刑事的な問責への付託が、その日のうちに決定した。
側近たちは次々と口を割り、追加の不正が芋づる式に明らかになった。ミレイユ——ミラ——はすでに王宮を離れており、その後の行方を知る者はいなかった。
セレスティアは、その一切を冷静に受け取った。
評議会が終わり、王宮の廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。
「セレスティア様」
カイルだった。
二人は廊下の端に寄り、周囲に誰もいないことを確かめてから、並んで立った。
「これで、ようやく終わりですね」とカイルが言った。
「ええ」
「……長かった」
「三年と少し」セレスティアは窓の外の光を見た。夕暮れ時で、王都の屋根が橙色に染まっていた。「短いとは言えませんが、必要な時間でした」
「セレスティア様は、怖くなかったのですか」カイルが静かに問いかけた。「失敗すれば、逆賊として裁かれていた」
「怖かったです」
即答だった。カイルが少し驚いた顔をした。
「ただ」とセレスティアは続けた。「このまま放っておけばどうなるか、それを想像する方が、ずっと怖かった。農民が飢え、兵士が報われず、有能な人間が排除される国に——私は加担したくなかった。それだけです」
カイルはしばらく黙っていた。
「……あなたのような方が、この国にいてくれてよかった」
それは政略でも外交でもない、ただの言葉だった。
セレスティアは初めて、今日の中で、本当の意味で——少しだけ、表情を緩めた。
「これからは、あなた自身のために生きてください」カイルが続けた。「今まで、王国のために、計画のために、費やしてきた時間を」
「……そうですね」
セレスティアは空を見た。
長い時間をかけて、ずっと前だけを向いてきた。今この瞬間まで、自分が"その先"を考えていなかったことに、初めて気づいた。
「不思議なものです」とセレスティアは言った。「今まで、ここから先のことを何も考えていなかった。ただ、ここまで来ることだけを考えていた」
「これからは、考えられます」
「ええ」
セレスティアは、もう一度だけ夕暮れの光を見た。
橙色が、少しずつ暮れていく。それは悲しいことではなく、夜の始まりであり、翌朝の始まりだった。
これは終わりではない。
彼女の胸の中で、静かな声がした。
——ようやく、私の人生の始まりだ。




