第9話 五歳の「神童」とそろばんの音
月日は流れ、俺は五歳になった。
三歳の頃のふっくらとした手足は少しだけ引き締まり、視界も高くなった。
城内の廊下を歩けば、家臣たちが「若殿、お健やかで」と深々と頭を下げる。だが、その後に続く囁き声は、以前とは少し種類が変わっていた。
「……聞いたか? 若殿、もう難しい経典を読み終えたらしいぞ」
「計算も恐ろしく速いとか。勘定奉行の佐々木殿が、冷や汗をかいていたそうだ」
(……少し、目立ちすぎたかな)
俺は自室で、志乃が用意してくれた和紙に、筆でさらさらと数字を書き込んでいた。
この世界の文字はすっかり習得した。そうなると次は、領地の「数字」が気になって仕方がないのだ。
「朔、またそんなに熱心に……。少しはお外で遊んできたらどうです?」
志乃が呆れたように、お茶を持って入ってきた。
「かかさま、これね、お米の数。去年より、ちょっと少ない気がするの」
「あらあら、五歳の子が心配することではありませんよ。お父様にお任せなさい」
志乃は優しく笑って俺の頭を撫でる。
だが、俺の手元の紙には、領内の村々から報告された収穫高と、備蓄米の推移が「収益構造」としてグラフ化されていた。もちろん、他人にはただの落書きに見えるように崩して書いてあるが。
(……やはり、物流のロスが多すぎる。蔵に届くまでに一割は消えている計算だ)
そんなことを考えていると、廊下をドタドタと走る足音が聞こえてきた。
「わかとのー! 遊ぼう!」
レンちゃんだ。彼女も七歳になり、少し大人びた着物を着ているが、元気なところは変わっていない。
「レンちゃん、いらっしゃい。ちょうど、計算が終わったところだよ」
「また難しいことしてる……。佐々木のお父様が言ってたよ。『若殿の前でそろばんを弾くのは、恐ろしくてできぬ』って」
レンちゃんがクスクスと笑う。
彼女の父、佐々木殿はこの領地の勘定(会計)を任されているが、先日、俺が横から「あ、そこ一桁違ってるよ」と指摘して以来、俺を「若先生」と呼ぶようになってしまった。
「さく、お空、見に行こう! 今日は『鉄の嶺』がすごく綺麗に見えるよ!」
「うん、いく!」
俺は筆を置き、レンちゃんに手を引かれて縁側へ出た。
遠くにそびえる「鉄の嶺」は、五歳の俺の目には、より巨大な資源の塊に見えた。
(文字が書けて、計算ができる。……よし、そろそろ『遊び』の規模を広げてもいい頃だ)
五歳。
戦国の世では、もう立派な「意志」を持つ年齢とされる。
俺はレンちゃんと一緒に庭へ飛び出しながら、脳内の設計図を次の一手へと更新した。
「れんちゃん、今日はあっちの『壊れた壁』のところで遊ぼう!」
「えー、あそこボロボロだよ?」
「大丈夫。石さんを積み上げて、お城を作るんだ!」
ただの石積み遊びではない。
俺は、崩れかけた城壁の「補強工事」を、五歳の全力の遊びとして実行するつもりだった。




