第3話 いろりの火と「はじまり」の歌
雨が本降りになり、俺は景虎に抱えられて奥の間へと戻った。
薄暗い部屋の中、いろりには赤々と火が灯っている。パチリ、と爆ぜる薪の音が、心地よく鼓膜を叩く。
「さあ朔、今日はここまでですよ。お身体を拭いて、お勉強しましょうね」
志乃が温かい手ぬぐいで、泥だらけの俺の手足を丁寧に拭ってくれる。
三歳の俺に与えられたのは、紙ではなく、砂を敷き詰めた浅い箱と一本の指。文字の練習、いわゆる「手習い」の時間だ。
(……この世界の文字、ひらがなに似ているが微妙に曲線が違うな)
俺は志乃が砂の上に書いた手本を、小さな指でなぞる。
「な・ぎ」。この国の名だ。
前世では図面に細かな数字を書き込んでいた指先が、今はたどたどしく砂を弄ぶ。
「あら、上手ね。朔は飲み込みが早くて助かるわ」
志乃が嬉しそうに目を細め、俺の頭を撫でる。俺は「えへへ」とあざとく笑ってみせた。
三歳児がスラスラと文字を書くのは、少し「やりすぎ」かもしれない。俺はわざと最後の一画を派手にはみ出させ、砂をバフバフと散らした。
「あー、はみ出しちゃった!」
「ふふふ、元気があってよろしい。……では、ご褒美に今日はお話をしてあげましょうか」
手習いの箱を片付け、志乃は俺を膝の上に招き入れた。
いろりの火が揺れ、壁に映る二人の影が大きく伸びる。
「むかしむかし、この『那岐の国』には、大きな龍が住んでいたの。龍は空を飛び、山を作り、川を引いたのよ……」
志乃の声は、子守唄のように優しく響く。
それは、俺の知らない歴史、この世界独自の「おとぎ話」だった。
「でもね、龍は寂しがり屋だったの。だから、自分の体の一部を『石』や『鉄』に変えて、人々に分け与えたの。それが、この国の東にある『鉄の嶺』なんですって」
(……なるほど。東の山には鉄鉱石があるのか)
おとぎ話の皮を被った、貴重な「資源情報」。
俺は志乃の胸に耳を当て、トクトクと刻まれる鼓動を聞きながら、その言葉を一つ一つ脳内の「白地図」に書き込んでいく。
「龍が涙を流した場所には、枯れない泉が湧き……。そのお水が、私たちの田んぼを潤してくれているのよ。だから朔、お水は大切にするのですよ」
志乃の話は、自然への敬意に満ちていた。
現代のような「制御対象」としての水ではなく、神聖な、贈り物としての水。
俺は志乃の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
「りゅうさん、やさしいね! おみじゅ、キラキラ!」
「そうね、本当に……」
志乃の穏やかな笑顔を見ていると、不思議と心が安らいだ。
前世の役所仕事では、効率と数字ばかりを追いかけていた。でも、この世界では、こんなにゆっくりと時間が流れている。
(鉄の嶺、枯れない泉。……いつか、見に行ってみたいな)
いろりの温もりと、志乃の柔らかい肌の感触。
パチパチという薪の音を聞いているうちに、三歳の身体に限界が来た。
視界がとろりと溶け、志乃の声が遠くなっていく。
「あら……もう夢の中かしら。おやすみなさい、朔……」
額に柔らかな唇が触れたのを感じながら、俺は深い眠りに落ちた。
夢の中で、俺は大きな龍の背に乗り、この「知らない戦国」の青々とした山河をどこまでも飛び続けていた。




