第22話 閑那(かんな)の「知恵の泉」と流民の編入
婚礼から数日が経ち、蓬水の谷は日常を取り戻していた。
だが、その「日常」の速度は、俺の数式によって他領の数十年分を数ヶ月で駆け抜けようとしている。
「お館様、先ほど『鷲尾』の領地から逃れてきた流民、計百二十名。関所での検疫を終えました。皆、ひどい飢えですが、致命的な疫病の兆候は見られません」
佐々木殿の報告に、俺は手元の書類から顔を上げた。
「……よし。まずは予定通り、全員に『石鹸』での洗浄と、汚れた衣服の焼却、そして新しい綿布の作業着を支給せよ。胃に優しい重湯から順に食事を与え、体力が戻り次第、適性を判断する」
「……しかし、これほど短期間に流民を受け入れ続けては、食糧の備蓄が懸念されます」
「案ずるな、佐々木。二毛作による増産分と、水車による精米効率の向上で、あと五百人は余裕を持って養える。……彼らは『食いつぶす口』ではない。蓬水をさらに強くするための『新たな手足』だ」
俺の声は、感情を排した物理現象の解説のように淡々としていた。
「数理」による適材適所
俺は、新たに加わった民たちを三つのグループに分類した。
「鉄の組」: 体力のある若者たち。高炉の炭焼きや、新道の拡張工事に充てる。
「紙の組」: 手先の器用な者や女子。水車と連動した自動叩き機の監視と、紙漉きを担う。
「知恵の卵」: 十歳以下の子供たち。彼らには読み書きと、俺が考案した「簡易算術」を叩き込む。
「……順様、子供たちに算術を教えるお姿、とても楽しそうですね」
夕暮れ時、臨時の学び舎を覗きに来たレンが、柔らかい微笑みを浮かべた。
「楽しい、か。……いや、これは投資だよ、レン。彼らが数字を扱えるようになれば、俺が一人で計算しなくても、領地の隅々まで『最適化』が行き渡るようになる」
「ふふっ。理屈ではそう仰いますが、子供たちの質問に答える時、順様の瞳はとても優しく光っていますよ」
レンに指摘され、俺は少しだけ気恥ずかしくなり、視線を地図へと戻した。
閑那に広がる沈黙の威圧
この蓬水の谷で起きている「静かな革命」は、確実に周囲を震わせ始めていた。
近隣の領主たちは、蓬水が兵を動かさないことに安堵しつつも、そこから運び出される「鋼」と「紙」、そして夜も眠らぬ高炉の火柱に、得体の知れない恐怖を感じていた。
「順様。……お隣の『鷲尾』の領主が、逃げた民を返せと使いを出してくるかもしれませんわ」
レンが、俺の隣で少しだけ声を落とした。
「……来るなら来ればいい。その時は、我が領の『新道』がいかに走りやすく、そしていかに『死を招く迷路』に変貌するかを、物理的に理解してもらうだけだ」
俺は窓の外、夕闇に沈む谷を見つめた。
前世の記憶にある歴史上の英雄たちは、今どこで何をしているのかさえ分からない。
だが、この「閑那」の地において、蓬水順の名は、武勇ではなく「理」の力として、不気味なほど静かに、しかし確実に浸透していた。
「……さあ、レン。夜は冷える。新しい流民のために用意した『床下暖房(オンドル式)』の試作が上手くいっているか、一緒に見に行こうか」
「はい、順様。……あなたの作る火は、本当に温かいですね」
二人の足音が、石畳の道に響く。
蓬水の谷は、さらなる「力」を蓄えながら、来るべき激動の刻を待っていた。




