第21話 閑那の「静かなる領土」と人材の渇望
婚礼の儀が明け、正式に家督を継いだ俺――蓬水 順は、翌朝には執務室の机に向かっていた。
隣国の木曾家を退けて以来、外からの直接的な干渉は止まっている。だが、前世の歴史知識を過信するのは危険だと、この数年で痛感していた。周囲には「豊饒な平野を持つ東の国」や「険しい山脈を抱く北の国」など、強力な勢力がひしめいているが、その国名も、治める将の名も、俺の記憶にある「戦国時代」の地図とは決定的に食い違っている。
(……やはり、既知の歴史はあてにならん。信じられるのは、目の前にある数字と、物理法則に従って積み上げた鉄の硬度だけだ)
俺は冷徹に思考を切り替えた。今、最優先すべきは、急激な工業化に伴う「人手不足」の解消だ。
労働力の限界と「自動化」への転換
「……順様、お疲れではありませんか? 昨夜は遅くまでお祝いが続いておりましたのに」
レンが、整えられた茶を差し出しながら、案じるように俺の顔を覗き込んだ。十五歳になり、髪を上げた彼女の姿には、蓬水の女主人としての品格が備わっている。
「案ずるな、レン。……佐々木、現在の『高炉』と『製紙場』の稼働状況を報告せよ」
「はっ。お館様。いずれもフル稼働にございますが、運搬と炭焼きの人手が全く足りておりません。近隣の村からも人を集めておりますが、これ以上は田畑の働き手が削られてしまいます」
佐々木殿の報告は予想通りだった。人口のパイが限られている以上、単純なマンパワーの投入には限界がある。
「ならば、二つの策を並行して進める。一つは『動力の転換』。もう一つは『外からの流入』だ」
俺は筆をとり、精密な図面をさらさらと描いた。
「レン、この図を見てくれ。水車の回転を木製の歯車とベルトで繋ぎ、製紙の『叩き(敲解)』の工程を自動化させる。これで、製紙場に必要な人員を三割削減し、炭焼きに回す」
「……人の手の代わりに、水に働いてもらうのですね。これなら、女たちも家を空けずに済みます」
レンが図面を読み解き、納得の表情を浮かべる。彼女もまた、俺の算術を長年傍らで見てきたことで、高い理解力を得ていた。
流民の「再資源化」と衛生管理
「そして佐々木。近隣の他領で、戦乱や飢饉により食い詰めた『流民』を受け入れる。ただし、ただ入れるのではない。我が領の『新道』の関所で衛生管理(検疫)を徹底させ、職能ごとに再配置するんだ」
「流民を、でございますか……。不穏な者が混じる懸念もございますが」
「だからこその『管理』だ。蓬水の法に従う者には、腹一杯の飯と、清潔な寝床、そして技術を与える。飢えを知る者にとって、それは最強の忠誠心を生む。不穏な動きをする暇もないほど、効率的に働いてもらう」
俺の声は、感情を排した冷静な響きを持っていた。
前世の記憶が当てにならないのなら、この蓬水の谷を「物理的な正解」として完成させるしかない。
「……順様。あなたの瞳を見ていると、この山奥の小さな谷が、いつか世界を飲み込む大きな渦になるような気がしてなりません」
夜、執務を終えた俺の肩を揉みながら、レンが静かに囁いた。
「冷たいか?」
「いえ、とても頼もしいのです。あなたが計算を終えた後には、必ず皆の笑顔が増えているから」
レンの温かい手が、思考で研ぎ澄まされた俺の意識を、柔らかく現実へ引き戻してくれる。
十三歳の俺は、彼女の手をそっと握り返した。
「……明日は、新しく受け入れた民の居住区を見に行く。レン、お前にも付いてきてほしい。彼らには、この領地の『秩序』を見せる必要がある」
「はい、旦那様」
外の世界では、俺の知らない名を持つ武将たちが、古びた価値観で覇を競い合っているのだろう。
だが、この「蓬水の谷」だけは、俺の数式と、レンの優しさによって、誰にも侵せぬ鉄壁の理想郷を築き上げていく。




