第2話 どろんこ遊びと「おみじゅ」の道
「朔! 無事か、元気になったか!」
地響きのような声とともに、鎧をガチャつかせた大男が中庭に踏み込んできた。父、**那岐 景虎**だ。戦場帰りなのか、その顔には煤と返り血がこびりついている。
「ちちうえ! おかえりー!」
俺は泥だらけの手を振り、三歳児らしくトテトテと駆け寄った。景虎は破顔して、俺の脇に手を入れて高い高いをする。
「おお、重くなったな! 志乃、朔の熱はもう良いのだな?」
「ええ。先ほどから、お庭で元気に遊んでおりますよ」
志乃が微笑みながら、俺がさっきまでいた泥溜まりを指差した。そこには、俺が竹べらで引いた一本の「筋」がある。
「ふむ……泥遊びか」
景虎が何気なくその溝に目を落とした。
その時、たまたま、空からパラパラと小雨が降り出した。
「おや、また雨か。……む?」
景虎の動きが止まった。
降り出した雨が庭のあちこちに小さな水たまりを作ろうとするが、なぜか俺が「遊び」で引いた溝の周りだけは、水が溜まらない。それどころか、周囲の泥水が吸い寄せられるようにその溝へ入り込み、スルスルと石垣の隙間へ向かって流れていく。
「……志乃。この溝、朔が掘ったのか?」
「ええ。お水をお散歩させると言って、楽しそうに」
景虎は俺を地面に下ろし、じっとその溝を見つめた。
ただの子供の悪戯書きだ。だが、その一本の線が、長年この中庭を悩ませてきた「湿気とぬかるみ」を、劇的に解消しようとしていた。
(よし……食いついたな。でも、ここで理屈を言っちゃダメだ)
俺はわざとらしく、溝の先にあった大きめの石を「えいっ」と放り投げた。
石はコロコロと転がり、溝の終点、石垣の排水口を塞いでいた枯れ葉の山を、たまたま弾き飛ばした。
――ゴボゴボッ!
詰まりが取れた瞬間、溜まっていた水が一気に城外へ吐き出された。
「……ほう。詰まりまで取ったか」
景虎が感心したように唸る。
戦国の武将にとって、陣地の排水は死活問題だ。雨で足元がぬかるめば行軍も防御もままならない。それを、三歳の子供が遊びの延長で「解決」してしまった。
「さく、おみじゅ、あっち行ったよ! バイバイした!」
俺は無邪気に笑い、泥だらけの手で父の袴に抱きついた。
「ははは! これは見事だ。朔、お前は水の神に愛されているのかもしれんな」
景虎は俺の頭を大きな手でワシワシと撫で回した。
本当は、このまま「城壁の外の勾配も直すべきだ」と言いたい。だが、今はこれだけで十分だ。
「さあ、冷えてきた。中に入ろう」
景虎に抱きかかえられながら、俺はチラリと背後の庭を振り返った。
一本の溝。
それは、現代の土木工学から見れば稚拙なものだが、この「知らない戦国」のインフラを書き換える、確かな最初の一歩だった。
(まずは、父上に『朔の言う通りにすると、なんだか上手くいく』と思わせる。種まきは、焦らずゆっくりだ)
俺は景虎の首に腕を回し、小さな欠伸を一つした。
三歳の身体は、少し「お遊び」をしただけで、酷く眠くなるのだから。




