忙しいのよね
わたしは、困っている人を見ると、どうしても放っておけない性格だった。
駅前で書類を落とした人がいれば一緒に拾った。それで電車に乗り遅れて遅刻してしまった。
普段、代返してあげている婚約者はしらんふりしていた。
サークルでレポートに困っている子がいれば「どこが分からないの?」と椅子を引いて隣に座る。
ゼミの発表資料だって、頼まれれば夜中まで一緒に構成を練った。
「ほんと助かる」「あなたいないと無理」
その言葉が、わたしの報酬だった。
婚約者の勉強もそうだ。資格試験を受けると言い出したとき、過去問を集め、要点をまとめ、模擬問題を作った。
彼は「俺は要領が悪いからさ」と笑っていたけれど、合格発表の日、彼はわたしより先に親友に電話していた。
その違和感を、わたしは無視していた。
ある日、大学の構内を歩いていて、植込みの陰から自分の名前が聞こえた。
「ほんと便利だよな、あいつ」
「だよね。頼めば何でもやるし」
「俺がちょっと優しくすると、すぐ本気になるし」
婚約者の声だった。
親友が笑う。
「レポートもノートも全部もらえるもんね」
「しかも自分が役に立ってるって本気で思ってるの、可愛いよね」
誰かが言った。
「おまえは悪いやつだ」
「おまえだって」
笑い声が重なった。
足の先から冷えていく感覚がした。怒りより先に、何かがすっと引いていく。
目が覚めた、と思った。
次の日から、わたしは手伝うのをやめた。
「ねえ、この統計のところだけ教えてくれない?」
「ごめん、忙しいの」
「発表資料、一緒に作ってくれない?」
「今、隣のおばさんの従妹の再婚先の連れ子の手伝いをしてるの」
自分で言っていて意味が分からないくらい遠い関係。でも、わたしは真顔で言った。
「え、なにそれ」
「だから、すごく忙しいの。ごめんね」
婚約者が不機嫌そうに言った。
「最近、冷たくない? 試験前なんだけど」
わたしはノートを閉じた。
「当たり前でしょ。わたしも同じだもの。わたしも試験前なの」
今までは、彼の勉強を優先していた。自分の復習は後回し。夜中に眠い目をこすりながら、自分の課題に取りかかっていた。
やめた。
ゼミのグループチャットも既読をつけない。ノートの共有もしない。頼まれても「自分で考えたほうが身につくよ」と返す。
数日で、空気が変わった。
「レポート終わらない」
「参考文献どこにあるか分かんない」
「発表どうしよう」
知らない。
カフェで一人、静かに自分の課題をやる時間が、こんなに楽だなんて知らなかった。
親友が言った。
「最近、どうしたの? 怒ってる?」
わたしは微笑んだ。
「ううん。忙しいの。隣のおばさんの従妹の再婚先の連れ子、意外と手がかかるの」
「は?」
婚約者も言った。
「おまえが手伝ってくれないと困るんだけど」
わたしは初めて、はっきり言った。
「わたしが困ってたとき、あなたは何をしてた?」
沈黙。
あの植込みの陰の笑い声が、頭の中で再生された。
でも、もう痛くなかった。
わたしは、ようやく自分の時間を取り戻したのだ。
困っている人を助けるのは、悪いことじゃない。
でも――
自分を馬鹿にする人まで助ける義理はない。
それに気づいたわたしは、少しだけ強くなった。
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