食肉加工場
蛍光灯の光に照らされた作業場は、いつも通り鉄と血の匂いに満ちていた。
俺、青葉若茶は今日も包丁を握り、作業台に横たえられた“豚”を前にしていた。
「おい青葉」
背後から声をかけてきたのは蔵馬勇斗先輩だ。三十五歳、俺の直属の先輩で、この道十数年のベテランだ。
「はい、先輩」
「今日は丸々太ってるな。こりゃ重労働だぞ」
「ほんとですね。皮の下から脂肪がはみ出してます」
俺が刃を入れると、厚い脂肪が裂け、赤い肉がのぞいた。脂の層は三段にも重なり、滑らかな包丁の動きでもやや手間取る。
「ほら、見ろよ。腹の肉なんか段々畑だ」
蔵馬先輩が愉快そうに笑う。
「これじゃ三人前は取れますね」
「ははっ。宴会用だな」
俺たちの会話はいつも通り。異常でも特別でもない。ここではこれが日常だ。
刃を進め、関節に達する。俺は角度を探り、腱を断つ。ゴキリと小さな音がして、脚が外れた。
「うまいな。相変わらず正確だ」
「ありがとうございます。豚の骨格はやっぱり慣れてますから」
「いや、普通はこんなにスムーズにいかねえ。……お前、ほんと筋がいいよ」
外した脚を先輩がフックにかけて吊るす。ぶら下がった脚はどっしりと重そうで、まだ温もりが残っていた。
「……搬入が早かったんですかね」
俺が呟くと、先輩はにやりと笑った。
「だろうな。血が温かい。おい、バケツ持ってこい」
鉄のバケツを差し出すと、赤い液体がどくどくと流れ落ちた。湯気が立ちのぼり、むっとした熱気が顔にまとわりつく。
「これ、処理大変ですよ」
「太ってるやつはみんなそうだ。血の巡りがいい分、抜くのが面倒なんだ」
昼休憩を挟み、俺たちは紙コップのコーヒーを片手に雑談をした。
「青葉、お前、この仕事どうだ?」
「やりがいありますよ」
「やりがい?」
「はい。同じ“豚”でも個体ごとに違いがあります。脂のつき方、内臓の状態、骨の硬さ……全部違う。それを一つ一つ見極めて処理するのが面白いんです」
蔵馬先輩は煙草をくわえ、煙を吐きながら笑った。
「お前、真面目だな。俺なんかもう、どんなのが来ても“今日は大盛り”とか“今日はダイエット中”って思うくらいだぞ」
「それでも仕事は仕事ですから」
「はは……そうだな」
作業に戻る。
“豚”はすでに腹を開かれ、肋骨が見えていた。内臓は半分取り出してある。
「青葉、肝臓を見ろ」
「かなり大きいですね。……お酒好きだったんでしょうか」
「だろうな。脂が黄色い。まあ、煮込み用にはなる」
心臓を取り出してバケツに沈め、腸を引き出す。ぬめりのある管を水で流すと、先輩が覗き込んで言った。
「お、いいな。ソーセージ用に回せる」
「洗えば使えますね。今日は状態がいいです」
胃袋を開くと、中には未消化の塊がぎっしり詰まっていた。
「うへえ……よく食ってやがる」
「最後の食事が多かったんですかね」
「ははっ、豪勢な晩餐だな」
時計を見ると、午後三時。まだ作業は続く。
「顔はどうする?」
「皮を剥いでおきます。目は?」
「保存しとけ。研究部が欲しがる」
「了解です」
俺は丁寧に皮を剥ぎ、柔らかい鼻を外す。眼窩に指を差し込み、丸いものを取り出すと、硝子質の液が垂れた。作業台に染みが広がる。
「頭蓋は割るか」
蔵馬先輩がハンマーを振り下ろし、骨が砕ける音が響く。
中から赤黒い柔らかいものがのぞいた。
「立派だな」
「栄養が良かったんでしょう」
部位ごとに並べられた“肉”は整然と美しい。肋骨、臓物、脚、頭部……これれらは全て"お得意様"へと流れていく。そう思うと仕事も捗るというものだ。
終業のベルが鳴る。
床をホースで洗い流しながら、先輩が笑った。
「今日もよく働いたな」
「ありがとうございます」
「明日は痩せたやつらしい。たまにはヘルシーなのもいいだろ」
「そうですね。でも……やっぱり丸々太ったやつの方がやりがいありますよ」
俺の言葉に、先輩は煙草をくわえたまま頷いた。
血と臓物の匂いに満ちた作業場。蛍光灯の下で、今日も俺たちはいつも通りに仕事を終える。
帰りにコンビニによって青葉は缶ビールをあおりながら自宅に帰っていった。
「はぁ……沁みるわ〜」