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肉の匂いに包まれて




 血の匂いが鼻腔に張りつく。

 それは決して珍しいことではなかった。俺、青葉若茶――二十歳、食肉加工場勤務。朝から晩まで牛や豚をさばき、骨を外し、血を抜き、臓物を分けるのが日常だ。今日も仕事を終えた帰り道、裏路地に入ったのは単なる近道にすぎない。けれど、その日だけは違った。


 視界の隅に、倒れている「肉」があった。

 人の形をしたまま、喉から腹まで真っ赤に切り裂かれた「それ」。次の瞬間、背後から冷たい金属の気配が突きつけられた。


 「……お前がやれ!さもなきゃ殺す。」


 低い声と共に、血まみれの包丁を握った男が俺にナイフを押しつけてきた。

 俺は一瞬、意味がわからなかった。だがすぐに理解した――この男は人殺しだ。そして今、俺に「解体」を命じている。


 ナイフを突き立てられる恐怖。殺されるかも知れない恐怖で目の前の死体を解体するための包丁を手に取る。しかし、解体する恐怖はなかった。むしろ……職場外での特別業務かと思った。組織の外で人間を扱う機会なんてそうそうない。俺にとっては珍しい仕事だ。


 「……わかりました。」


 俺は渡されたナイフを持ち替え、倒れた「肉」の関節を探る。

 刃を滑らせる角度を計算し、腱と軟骨の隙間に入れる。バキリ、と心地よい音。関節が外れ、腕がだらりと垂れた。


 後ろで立つ男が息を呑むのがわかる。

 俺は構わず作業を続ける。肩、肘、手首。すべてのジョイントを外すのは簡単だ。骨に刃を当てないように注意しつつ、肉だけを切り分ける。仕事と同じだ。違うのは、皮膚の色と匂いだけ。


 「……っ、お、おい……」


 男の声が震えている。なぜだろう、俺はきちんと命令に従っているのに。


 胸を開き、内臓を露出させる。熱がまだ残っている。生きていたのはついさっきだろう。指を突っ込み、心臓と肺を分ける。腸は丁寧に引き出し、余計な血を搾り取る。胃袋は袋ごと切り離す。


 「分けますか?」俺はふと尋ねた。

 

 「は……?」


 「心臓、肺、腸、肝臓。仕分けしますか?」


 男は答えなかった。だが、俺の作業を止めようともしない。だから俺は続ける。


 ――血抜きは? 毛抜きは? 骨はどうします? 脳と目と鼻は?


 質問を投げかけながら、俺は淡々と並べていく。部位ごとに整列させると、路地裏の石畳の上がまるで作業場の台のように整った。


 ……そして、ここで初めて気づく。

 この男、震えている。手にした包丁の切っ先はもう俺に向けられていない。彼は俺を脅す立場のはずなのに、その優位がどこかへ消え失せている。



---


 ――な、なんだこいつは。

 俺は確かにこのガキを脅した。血まみれの包丁を突きつけ、死体を解体しろと命じた。偶然居合わせたこいつに解体させ、殺人の罪ごと背負ってもらうために。終われば自殺に見せかけて殺そうとさえ思っていた……そう思ったのに。

 だが現実はどうだ?


 関節を正確に切り外し、臓物を迷いなく取り出し、部位ごとにきれいに並べていく。まるで……何年も人間を解体してきた職人の手つきじゃないか。


 「な、何なんだ……お前……」


 声が漏れる。

 ガキは俺に視線も向けず、ただ作業を続ける。平然と、いや楽しんでいるようにすら見える。


 「血抜きは? 骨は? 脳はどうします?」

 その口調はあまりに事務的で、まるでスーパーの精肉担当が客に尋ねるみたいだ。


 怖い。

 怖い怖い怖い。

 俺は殺人鬼のはずだった。だが今は違う。このガキこそが怪物だ。俺の知らない世界の人間……いや、人間なのか?


 気づけば俺の体は震えていた。包丁を持つ手も力が入らない。

 「……や、やめろ……」

 声は掠れていた。ガキは首だけこちらを振り向け、血まみれの顔に無感情な笑みを浮かべる。


 「――全部処理しますよ。会社でやってることと同じですから。」


 逃げなきゃ。

 俺は踵を返し、路地裏を飛び出した。背後であのガキがまだ何かを呟いている。だが聞いてはいけない。あれ以上見てもいけない。

 俺は走った。足音を必死に響かせ、街灯のある通りへ。警察だ。警察なら助けてくれる。俺を守ってくれる。


 「た、助けてくれ! 殺される!」


 駆け込んだ交番で叫んだ。だが警官たちは俺を見て凍りついた。俺の手には血まみれの包丁が握られたままだったのだ。

 気づいたときには、俺は床に押し倒され、腕をねじ上げられていた。叫んでも無駄だった。俺の言葉は誰にも届かない。



---


 ――それからのことは、俺には関係がない。

 翌朝、ニュースで「路地裏の恐怖!バラバラ殺人事件!」と大きく報じられていた。逮捕されたのは血まみれの包丁を持って交番に飛び込んだ一人の男。凶行に及んだのは彼だと断定されていた。


 俺、青葉若茶はその報せを加工場の休憩室で見ていた。

 テレビに映る男は昨日の「加害者」――いや、正しくは「俺の命令者」だ。けれど世間の認識では彼が全ての元凶。俺の名前は一切出ていない。完璧な処理だ。


 ふう、と息を吐いて制服の袖口を拭う。

 「昨日のは課外研修みたいなもんだな……」

 福利厚生のいい会社は、俺にいろんな経験を積ませてくれる。普通のバイトじゃ人間を解体する機会なんてまずないだろう。俺は恵まれている。


 今日も豚の肉が大量に届く予定だ。腕が鳴る。

 俺は汚れた手袋をはめ直し、いつも通りの作業場へと向かった。




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