第9話 遠征
「せい、やぁ!」
リューゲン家の訓練場にエンジュの可愛らしい声が響く。
しかし、その声に反して彼女の描いた剣筋は鋭く、振り下ろされた木剣によって一筋の風が吹いた。
「兄さま! どう?!」
額の汗を拭いながら、エンジュはすぐ近くで見守っていたハイドへ走り寄る。
「うん、すごかったよ。俺はもう敵わないなぁ」
「にへへ~」
嬉しそうに笑うエンジュの頭を軽く撫でると、まるで猫のように目を細める。
そんなエンジュを見つめながら、ハイドはこの二年間を思い返した。
早いものでエンジュは五歳に、ハイドは七歳になった。
例の一件以来、ハイドは夜な夜な屋敷を抜け出しては裏手の森の中でスキルの鍛錬に励んでいた。お陰で暴走するリスクは皆無といっていいほどに、スキルを自分のものにしていた。
最近ではそれに加えてコーデリアの厳しい監視の下、剣の修練が再開されている。
依然としてハイドはスキルが芽生えていない体で振る舞っているが、だからといって修練をしない理由にはならない。
どうやら【剣術】はマナの消費量からして戦闘中に常時発動できるものではないらしく、スキルではない剣術を学ぶ必要があるのだそうだ。
そしてつい先日、訓練場に兄の修練をこっそり覗きに来たエンジュが【剣術】のスキルを発現させた。
そこで最近ではハイドと共にエンジュも訓練場に顔を出し、剣の修練に励んでいる。
リューゲン家の試練――【剣術】を覚醒させるための洗礼を、歴代の当主たちはそう名付けている――を受けることなく【剣術】に目覚めるのは珍しいことだとドルフは話していた。
(五歳であんな風に剣を扱えるなんて、やっぱりスキルはすごいな)
スキルを使ったエンジュの一振りは、この騎士団にいる大人たちを上回る鋭さを伴っていた。
成長すれば国内でも屈指の剣士に育つだろう。
「兄さま兄さま!」
「ん?」
「わたし、もっともっと強くなるね。兄さまが【剣術】を使えなくても大丈夫なように! それで兄さまのこと守ってあげるから!」
「それは兄としてはすごく情けないことだけど……もしそうなったらお願いしようかな」
「うん!」
変わったことと言えば、【剣術】に目覚めて以降、エンジュは度々このようなことを言うようになった。
自分の方が兄よりも強いと、純粋に思っているのだろう。
(あながち間違いでもないしなぁ)
もし今二人が木剣で打ち合ったとして、スキルを使わないハイドではエンジュに敵わないだろう。
スキルとはそれほどまでに強力であり、だからこそ貴族は力を持っているのだ。
平穏に生きたい兄としては妹が頭角を現してくれるのは喜ばしいことだ。
とはいえ、可愛い妹に何もかもを押しつけていいのかという葛藤があった。
それぐらいに、ハイドはエンジュのことを……いや、家族全員を愛している。
(……いや、勘違いするな。この力は神様が与えてくれたもので、俺の力じゃない。俺は本当に、なんの力も持ってないんだから)
ハイドは自分に言い聞かせるように頭の中で強く念じた。
◆ ◆ ◆
「騎士団遠征への随伴、ですか」
その日の夕食の席でドルフの切り出した話にハイドは目を丸くした。
「そうだ。お前ももう七歳になったことだし、一度見せておこうと思ってな。私たち貴族が民を守るために戦う敵――モンスターを」
「モンスター……」
この世界に転生してから七年。
いまだにその姿を見たことのない化け物の名称を反芻し、ハイドは喉を鳴らす。
モンスターとは、ダンジョンから生まれる化け物のことだ。生きとし生けるものを見境なしに襲う怪物。
まさに人類の敵だ。
ダンジョンは世界中に存在し、モンスターを生み出し続ける。
そしてダンジョン内の許容量を超えたモンスターは、ゲートと呼ばれる転移空間から地上へ排出されるのだ。
貴族は皆、地上に出現したゲートとそこから現れるモンスターを討伐するために騎士団を所有している。
(それにしても今朝から母様の機嫌が悪かった理由がやっとわかった)
今も話を聞きながら不満そうにしているが、口を挟んでこないところを見るとすでに話はすんでいるのだろう。
「南方のルーリャ村近郊の樹海にゲートが発見されたのだ。明朝、その鎮圧に向かう。ハイドには私が率いる部隊に随伴してもらい、戦いを観察してもらう。よいな?」
「わかりました」
「父さま、エンジュも行きたい!」
「ダメだ」
「え~どうしてっ!」
「お前はまだ五歳になったばかりだろう。慣例として、七歳になるまで遠征への同行は許可できん」
エンジュの我儘にドルフは毅然と応じる。
だが、エンジュは聞き分けない。
「だってわたし、もう【剣術】使えるもん。兄さまより強いから、大丈夫だもん!」
「エンジュ……」
ドルフは困ったように首を振る。
「自分の力を過信しないことだ。確かにハイドはまだスキルに目覚めていないが、スキルではない剣術の修練はお前よりもずっと続けている。私がハイドにこの話をしたのは、遠征に耐えられると判断してのことでもあるのだ」
「わたしだって耐えられるよ! ね、兄さまっ」
「俺に聞かれても……」
助け船が飛んでくると信じて疑わない妹の目に、ハイドは言葉を詰まらせる。
とはいえ、どちらの味方をするかは明白だった。
「エンジュ、父様をあまり困らせてはいけないよ。エンジュも大きくなったら父様が連れて行ってくれるさ」
「…………はーい」
ものすごく不満そうに口を尖らせながらも、エンジュは一応納得してくれたようだ。
ホッと胸を撫で下ろしつつ、ハイドは明日の遠征に思いを馳せた。
◆ ◆ ◆
リューゲン伯爵領は森や川が多く、領地の広大さの割に人が住む場所は狭いらしい。
ただその分、ゲートの発見に遅れるリスクも大きく、リューゲン家の有する騎士団は他の同列の貴族と比べても多い。
ドルフがひっきりなしに遠征へ出ているのも納得だ。
まだ薄闇に包まれた時分、騎士団の屯所が慌ただしくなる。
遠征へは主に馬と荷馬車を使う。
荷馬車には遠征に必要な物資の他、哨戒部隊への支援物資などが積み込まれていく。
「ハイドはこの荷馬車に乗るように。乗り心地はお世辞にもよくないが、馬上よりはマシだろう。くれぐれも積み荷を勝手に弄らないように」
「はい、わかりました」
ドルフの迅速な指示の下、一行はリューゲン邸を出立した。
リューゲン邸を出ると、すぐ近くに都市が見える。
領都、セントリッツだ。
流石にリューゲン伯領の中心地だけあって、この辺りの街道はよく整備されている。
とはいえ、自動車や電車に比べると荷馬車の中はよく揺れる。
(現地までは片道半日ぐらいだって言ってたな。酔わないといいけど……)
どうしても苦しければ【神界の泥人形】を使えばいい話だが、ハイドは修練以外でスキルを使わないことを自らに課していた。
これだけ強力なスキルに甘えてしまえば、普段から頼り切ってしまうのは目に見えている。
「それにしてもエンジュには悪いことをしたなぁ」
あの年頃の子どもからすれば、兄と父のお出かけに置いて行かれるような感覚になるのだろう。
実際はそんな可愛いものではないのだが、せめて土産話でもしてやろう。
ハイドがそんなことを考えた時だった。
「うぉっと」
「きゃっ」
石か何かに車輪をとられ、馬車が大きく跳ねる。
思わず体勢を崩しかけるハイドだったが、なんとか立て直せた。
「……ん?」
ホッとしたのも束の間。
今、ここでは聞こえないはずの悲鳴が聞こえたような……。
「いやいや、そんなまさか」
自分に言い聞かせながらもハイドは声のした方を見る。
そして、そこに置いてある荷物にかけられた薄布を捲り上げた。
「…………何してるのさ、エンジュ」
「み、見つかっちゃったぁ」
積み荷の隙間に隠れていたエンジュは、いつものようににへへと笑う。
そんな妹のお転婆っぷりに、ハイドは頭を抱えるのだった。