第6話 【武神の導き】
いつもは庭園の一角に寝転がり、心地よい陽気に微睡む時間。
しかしこの日、ハイドは父に連れられて今まで立ち入り禁止だった訓練場へ向かっていた。
(いや、覚悟はしてた。貴族だからいつかはこうなるだろうって。でもさ、こんなに早く俺の平穏が崩れ去るとは思ってなかったよ!)
リューゲン伯爵家の長男として生まれた以上、剣術は避けては通れない道だとわかっていた。
だがまさか五歳になったばかりの頃から修練が始まるとは思っていなかった。
「緊張しているのか?」
ハイドの隣に並び歩くドルフが訊ねる。
「いえ、母様のことを考えていました。朝食の時も昼食の時も、すごく心配されていましたから」
咄嗟に誤魔化すように答えるが、半分は本心だった。
今日になってコーデリアはひどくハイドのことを気遣っていた。
怪我はしないように、無茶はしないように、そんな言葉を繰り返し聞かされた。
エンジュなどはハイドが剣の修練を始めると聞いて「ずるい!」と羨ましがっていたものだ。将来有望である。
「コーデリアか。……あいつは心配性すぎる。昔からそうだ」
「昔から、ですか?」
ハイドが訊ねると、ドルフは苦笑しながら言う。
「前に……といってもお前が生まれる前のことだが、大怪我をして戻ったことがあってな。一晩中抱きしめられたものだ。『治るまで私の結界から出てはダメ!』と怒鳴られた。あいつに怒鳴られたのはそれが初めてで面食らったよ」
生涯一の失態だ、と語るドルフの声音は嬉しそうだった。
(いいよな、こういう関係)
良い夫婦の一例のような関係だ。
もちろん良いことばかりではないだろう。
ハイドをあまり危険な目に遭わせたくないコーデリアと、貴族の責務を果たせと律するドルフ。
もしかしたらハイドが知らないだけで喧嘩もしていたかもしれない。
それでもハイドは二人のことを羨ましく思った。
二人のような関係は、前世ではついぞ得られなかったものだから。
リューゲン家の邸宅の敷地は広大だ。
広い庭園から屋敷へと通じる道は馬車が横並びにすれ違ってもあまりある。
お抱えの庭師が丹精込めて育てている花壇は圧巻の一言だ。
そして部屋数を五十は数える立派な屋敷の裏手から少し離れた場所に、リューゲン家が保有する騎士団の屯所と訓練場がある。施設のさらに奥には森が広がっていて、騎士団の実地訓練も行うことができる。
そんないわば騎士団区画に近付くにつれて、剣戟の音が大きくなってきた。
「! 団長、お疲れ様です!」
ドルフの存在に気付いた団員たちが訓練の手を止めて礼をする。
訓練用の剣を背に隠し、反対の手を胸の前で合わせる騎士の礼だ。
伯爵であるドルフはリューゲン家直轄騎士団の団長も務めている。
団員たちからは貴族階級よりも団長と呼ばれることが多い。
一人が気付いたのを皮切りに、訓練場にいた十余名の団員たちも次々と訓練の手を止めてドルフに礼をする。
それを手で制しながら、ドルフは団員たちに告げた。
「今日から息子に剣を教えることにしてな。私が不在の時は誰かが見てやってくれるとありがたい」
「なんと、団長のご子息の……っ」
ドルフの言葉に団員たちの注目が一斉にハイドへ集まった。
「おお、もうあんなに大きくなられたか」
「精悍な顔つきをされておられる」
「やはり【剣術】のスキルを目覚めさせるためだろうか」
口々に言葉を発する団員たちを、ドルフは咳払い一つで鎮めた。
(す、すごい。大の大人たちを完全に掌握してる。……とてもさっきまで惚気話をしていた人とは思えないな)
思えば父が部下たちの前で仕事をしているところを目にするのは初めてだと、今さらながらに気付く。
ハイドが圧倒されている間に、団員たちは手際よくスペースを空け、訓練用の木剣を運んできた。
そのうちの一本は明らかに子ども用のサイズだ。
「ハイド。これからお前には剣を教えるが、その前にまずやらなければならないことがある」
そう言って、ドルフは子ども用の木剣をハイドに手渡した。
(っ、重っ。……でも、ちょっとだけテンションが上がる)
修学旅行のお土産よろしく、男はこういうものでつい高ぶってしまう性だ。
平穏を望むハイドであってもそれは例外では無かった。
「知っての通り、私は【剣術】のスキルを持っている。私だけではない。先代も、先々代も、【剣術】によってモンスターから領民を守ってきた」
滔々と語りながらドルフは慣れた手つきで木剣を軽く振ってみせる。
「ハイド、お前はまだスキルを自覚していないな?」
「っ、は、はい」
ドキリとしながらも平静を装って答える。
するとドルフは小さく頷いた。
「当たり前のことだが、スキルは誰もが生まれたときから備えているものだ。しかし五歳頃になるまでほとんどの場合スキルを自覚できない。それがなぜかわかるか?」
「ええと……スキルを使おうとしないから、ですか?」
「そのとおりだ」
たとえば農作業に寄与するスキルを宿した子がいたとする。
そういう子どもは、農作業を実際に行うまで自身が備えたスキルを自覚できない。
スキルは、望むことで行使できる。
ハイドが転生直後、無自覚にスキルを使ったように。
「多くの場合は日々の営みの中でスキルを自覚していく。しかし、【剣術】はそうではない。【剣術】を必要とする場面など、幼いうちは遭遇しないからだ。だから――」
「――ッ!!」
ドルフが言葉を句切ったその時だった。
ハイドの体を力が――マナが抜ける感覚が襲い、目の前の光景が引き延ばされていく。
そして、彼のスキルが発動した。
【武神の導き】
(――なんだ、これ)
ハイドの意識はようやく、ドルフが木剣を振りかぶって眼前まで迫ってきていることに気が付く。
恐らくは一瞬の出来事。本来なら目にも止まらない速度の奇襲。
だが、ハイドの目にはスローモーションのようにゆったりと映っていた。
時が引き延ばされたその世界に、一筋の光のレールが敷かれていく。
ハイドはほとんど無意識に、手にした木剣で視界に示されたその道をなぞるように辿っていた。
そして、
「……ッ!」
ガキィンという木剣がぶつかり合う音と共に、ドルフの両眼が大きく見開かれる。
ハイドの木剣がドルフの木剣を弾き飛ばしていた。
訓練場が静まり返る。
周囲に集まっていた団員たちは、言葉を失っていた。
そしてその渦中にいるハイドは、地面に転がるドルフの木剣に視線をやり、それからおずおずと彼を見上げた。
「きゅ、急にびっくりしましたよ、父様。無我夢中で振ったら、たまたま父様の木剣に当たったから事なきを得ましたけど……」
フォローになるかわからない言い訳を並べる。
ハイドにとってこれは想定外のことだった。
(だっていきなり父様が襲ってくると思ってなかったし、今まで使ってこなかった【武神の導き】が発動するなんて想像できないじゃん!)
力を隠して平穏に生きる。
その目標が遠のく気配を感じながら、ハイドはなおも取り繕おうと懸命に言葉を並べる。
ハイドの視線の先では、地面に転がる木剣を眺めるようにドルフが顔を伏せ、両肩をワナワナと震わせていた。
それからようやく、ぽつりと呟いた。
「ど、どうすればよいのだ」
「と、父様……?」
「私の子ども、天才だ!!」
ドルフが叫ぶと同時に、静まり返っていた団員たちが喝采し始めた。
「うぉぉおおおお!」
「神童だ! 団長の子はまさしく神童だ!」
「リューゲン伯領も安泰だ!」
屈強な騎士たちの野太い喝采。
その喝采を浴びたハイドは右手に握った木剣を力なくその場に落とすのだった。