第5話 家族
自分に授けられたチートスキルを隠して生きる。
そう決めてからの三年間、ハイドは真面目にその誓いを守り続けてきた。
そうして五歳になる頃には、ハイド・リューゲンとして生きることにすっかり適応していた。
行動範囲も広がり、最近では一部の区画を除いて自由に屋敷の敷地内を出歩くことを許されている。
もちろんメイドや執事が必ず帯同してくるが。
そんなある日の昼下がり。
ハイドは屋敷の正面に位置する広大な庭園の一角。そこに聳える大樹の袂に寝転がっていた。
(のどかだ……)
よく晴れた空。車や飛行機の存在しないこの世界では、乗り物の発する騒音は皆無。
リューゲン家の邸宅は貴族らしく広大な土地を有していて、領都である都市の外れに居を構えている。
だから人々の雑踏も聞こえてこない。
耳朶をくすぐるのは風に揺れる草木のざわめきや小鳥の囀り。それから屋敷で働く従者の声や訓練場から響いてくる剣戟の音ぐらいだ。
元々田舎での生活を考えていたハイドにとって、この環境は理想的なものだった。
もっとも、この世界の基準では領主の邸宅があるこの場所は田舎とは言えないだろうが。
「ハイド坊ちゃまは本当にここがお好きですね。庭師も喜んでおりましたよ。旦那様は滅多に庭へいらっしゃらないものですから」
傍に控えていたメイドの一人が苦笑交じりに言う。
初めて芝生に寝転ぼうとした時、慌てて敷物を準備しようとしたのは彼女だったか。
従者に甲斐甲斐しく世話を焼かれるのがむず痒くて遠慮したことを思い出す。
今同じことをされたら素直に受け入れるぐらいには、ハイドは貴族の生活になれていた。
「父様は屋敷にいる間、執務室か裏手の訓練場に籠もりっきりだからね」
今世の父親であるドルフ・リューゲンのことを思い起こす。
貴族の責務を従順に全うするドルフは、実生活においても真面目な人だ。
公務以外の時間は己の鍛錬に注ぎ込み、領民の上に立つ者としての責任を果たし続けている。
立派な人だ。領民からの支持が高いのも納得できる。
……だが、ハイドは父親のことが少しだけ苦手だった。
仲が悪いというわけではない。父親としての愛情がないということもない。
ただ単にこれは性分の問題だった。
強大な力を隠して平凡に生きようとするハイドと、力を磨き続けようとするドルフではあまりにも対照的過ぎた。
(俺と違って父様は人としての器が大きいから、領民からの期待を一身に受けてそれに応えるっていう生き方が身の丈に合っている、ということなんだろうけど)
自分にはとても真似できないな、とハイドは思う。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意にメイドたちがくすりと笑う気配がした。
顔を上げて彼女たちの視線の先を追い、合点がいく。
「にいさま~!」
屋敷から飛び出すようにして現れたのは、まだ二歳ごろの女児だった。
ハイドと同じ白銀の髪は肩口までで切り揃えられ、宝石のような赤い瞳が爛々と輝いている。
彼女はハイドへ向かって両手をぶんぶんと振りながら、とてとてとこちらへ駆け寄ってくる。後ろには慌てた様子のメイドたちを引き連れていた。
そう。この三年でハイドには新しい家族ができた。
可愛い可愛い妹である。
「エンジュ、走ると転けるよ」
ハイドはゆっくりと上体を起こし、不安定な走り方をする妹を心配する。
しかしエンジュは兄の忠告を意に介さずに走り続け、ハイドの体に向かって飛び込んだ。
「うぉっと、エンジュ、危ないってば」
「にへへ、にいさまぽかぽか~」
「日の光に当たってたからね」
ちっとも悪びれずにへらと笑うエンジュの頭をハイドは優しく撫でる。
小さな子どもというのは体温が高いものだが、エンジュもその例に漏れず、陽光以上の温もりが伝わってくる。
「母様はどうしたの? 二人でご本を読むって言ってなかった?」
「今ね、とうさまと大事なおはなしちゅう。だから、にいさまのところにきた!」
「よく俺がここにいるってわかったね」
「だってにいさま、よくここで寝てるもん」
「はは、エンジュには敵わないなぁ……」
そんな兄妹のやり取りを、周囲のメイドたちは微笑ましく見守る。
今日も今日とて、リューゲン家には穏やかな時間が流れていた。
◆ ◆ ◆
「父様、お呼びでしょうか」
その日の夜。ドルフに呼び出されたハイドは父の執務室を訪ねていた。
部屋の奥の執務机で書類に向かっていたドルフが顔を上げる。
深みのある茶髪を短く刈り揃えた壮年の男だ。
エンジュと同じ赤い瞳がハイドを鋭く捉える。
「来たか。すまないが、この書類が片付くまでの間、そこで座って待っていてくれないか」
どうやら今日の執務が終わっていないらしい。
今日は珍しく一日中家にいたが、伯爵家当主としての仕事が溜まっていたからなのだろうとハイドは勝手に納得した。
言われたとおり執務机前のソファに座り、ぼんやりとドルフを眺める。
(事務作業をしてるだけなのに、威圧感がすごいんだよなぁ)
剣を持っているわけでもないのに、この執務室全体にピリピリとした空気が漂っている気がする。
厳格で自分にも他人にも厳しい父親。それがドルフ・リューゲンという男だ。
少しして、ドルフがぱたんと羽ペンを机上に置いて顔を上げた。
ハイドと目が合い、「待たせたな」と言って立ち上がる。
「昼間にコーデリアと話したのだが」
ハイドの正面のソファにずっしりと腰を下ろし、前のめりになって切り出してきた。
「お前ももう五歳だ。そろそろではないかと思ってな」
「と、言いますと?」
訪ね返すと、ドルフは深く頷いてから真っ直ぐに告げた。
「ハイド、明日から午後の時間、私がお前に剣を教える。そのつもりで準備しておくように」