セロトニン
横浜駅のホームで、人を殴った。
きゃあと甲高い声で、リクルートスーツを着た女が悲鳴を上げた。駆け込み乗車をしようとして私に肩をぶつけた男が、頬を抑え勢いのままに車内に倒れ込む。一体誰がこんなことをしたのだろう、と私は思った。私は、人を殴るような人間ではない。ましてや、こんな朝の通勤時間帯の愚行が自分の社会的地位をどれほど脅かすか、想像できない人間ではない。
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今日は大事な日だ。
半年掛けの、超大型案件のプレゼンがある。決まれば、会社にはおよそ三億円のキャッシュが入ることになる。今日も朝礼は時刻通りに始まった。私の勤める総合金融代理店の朝礼では、冒頭に動画が流される。
今日のテーマは「家族愛」。
タイの保険会社のCMらしいその動画で、言葉を話せない父親が、愛娘の成長を見守る。娘は成長するが、思春期になると父親のことでいじめを受けるようになる。親が障碍者であることを憎む日々が続き、塞ぎ込んだ娘はついに自室で手首を切る。異変に気づいた父親が、娘を抱えて病院に運ぶ。処置には大量の血液を必要とする絶望的状況で、父親は両腕を差し出し、「私の血を使ってくれ!」と医師に懇願する。財産も、家も、すべて先生にあげますから。娘だけは死なせないでください。どうか、お願いします。看護師が、大量の献血で意識を失った父親のストレッチャーを、娘の隣に並べる。娘は目を覚まし、状況を理解すると、まだ昏睡する父親の手を握り、ぼろぼろと泣いた。
私は、その動画に深く感動した。涙が溢れ出た。
私もこんなふうに生きていたい。誰かを大事にして、いざというときにはすべてを捧げられるような愛情を、この心に秘めていることを実感したい。
「ほんと、感受性がすごいんだから」と同期の女が笑いながら言った。
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先月のプレゼンは、無事に成約した。
これほどの成績は初めてだ。
今回の私の報酬は、高級外車一台分といったところだった。スマートフォンで口座の残高を確かめると、私はすぐにコンシェルジュに電話をかけ、大手町にある外資系ホテルの部屋を予約した。私は独身で、パートナーもいない。だから、手配屋と呼ばれる稼業の男に連絡をとり、女を呼ぶ。こういうとき、横浜のラブホテルや、風俗の女はだめだ。祝いの席に、粗悪なものは相応しくない。経済的な関係は都合がいい。ことに至るまでの面倒なプロセスは経ずに済むし、私の気が変わればすぐに帰すことができる。しかも、部屋の中の出来事については、手配屋から箝口令が敷かれている。要するに、何をしてもいいというわけだ。薄いドレスを着た若い女が、こちらを気にしながらもう一人の女に囁くのが聞こえた。
「こんなの、聞いてない」
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翌朝、東京駅から横浜駅まで、私はグリーン車で出社した。
二十五分ほどの車中、私は歌った。通路を挟んだ向かいの席の中年の男が、身を乗り出して私を睨みつけた。きっと、私を威圧するつもりだったのだろう。だが、それは許さない。私はイヤフォンのボリュームを最大まで上げ、脳に流れ込む電子音に陶酔しながら、声量を上げ、中年の目を凝視して歌い続けた。私は中年の瞳に怯えを見た。中年は途端に私から目を逸らし、よく磨かれた鞄から白色の無線イヤフォンを取り出して慌てて装着し、窓の外に顔を向けた。もし、誰かが私に文句のひとつでもつけようものなら、その場で痛めつけてやるつもりだった。気分は、最高だった。
会社に着くと、管理職全員にハイタッチした。
全員が一応は応じたものの、呆気にとられた表情をした。すぐに支店長がやってきて、私の胸倉を掴んだ。学生時代に東京大学のアメリカン・フットボール部で鍛えたという筋肉は五十を前にも衰えを知らず、二十も年下の私の身体を片手で制した。
「来い」
私はフロアで唯一の個室である支店長室に連れられた。
「今すぐ俺と病院に行くか、ここで辞職するか、どちらか選べ」
私は抵抗した。俺を病気にしてどうするつもりだ。仕事の邪魔をするな。私は上司に向けて下品な言葉を吐き、終いには、あんたたち管理職は誰が稼いだ金でメシを食っているのかと、支店長を詰った。
結局、私は支店長に連れられて、精神科を受診した。
精神科医の問診に苛立ったので、英語で応答してやった。バイザウェイ、フーアーユー?
看護師から、初診だからと心理テストのような問診票を渡された。私はその質問文の、馬鹿にするようなルビ打ちに憤った。これだから病院は厭だ。ここにあるのは、ここにいるのは、すべて私を「病人」に仕立て上げるための仕組みに違いない。診察に腹が立つ。院内に流れるBGMに腹が立つ。クレヨン調のイラストが表紙の、病人向けの本に腹が立つ。こんな場所に自らやって来て、誰かの庇護を求めるような表情をした待合室の患者たちに腹が立つ。守ってもらおうとする人間は最低だ。私は、暴れたい気分になった。私はあんな連中と一緒じゃない。決して、病人なんかじゃない。私は至って正常で、良識のある人間なのだ。ついに私は激昂し、支店長の正面にある本棚を蹴飛ばした。「よくわかるなんとか障害」とか、「なんとか失調症とうまく付き合う」みたいなタイトルの本が、何冊も床に散らばった。それを踏みつけながら、ざまあみろ、と私は思った。
支店長が立ち上がり、私を拳で殴り飛ばした。
そして私は、医師に鎮静剤を打たれた。
*
「双極性障害です、かなり重い」
いわゆる躁うつ病というもので、ハイな躁状態と、抑うつ状態が交互にくる病気です、と五十代半ばの医師は説明した。苛立ちながら記入した複写式の問診票の裏面はスコアリングシートになっていて、私の症状は「深刻なレベル」と結論づけられていた。その後の説明で、この病の特徴的な症状を十ほど紹介されたが、そのすべてが完璧に当てはまっていた。
私は、精神病者らしかった。
「入院をお勧めします」
医師の言葉に、血の気が引くのを感じた。精神病者の私を、会社は置いておかないだろう。何より私が“就労に適さない状態”であることは、支店長が一番よく知っている。医師によれば、これは難治性の病気で、継続的な服薬が必要であるという。ともすれば、私は一生精神病者である。不安が、怒涛のように押し寄せる。結婚はできるだろうか。子どもに病気が遺伝したりはしないだろうか。母親には心配をかけないようにしないといけない。同僚には何と説明しよう。そんなことが、一瞬で頭の中を駆け巡った。
私は、社命によって休職となった。
こんな昼まで家にいるのは、この部屋を借りて以来初めてだ。私は苛立っていた。私は、これまで努力を惜しまなかったつもりだ。大学受験も精一杯勉強して国立大学に入ったし、仕事も卓越した成績を上げるために最善を尽くした。それでも満たされない“なにか”を満たすために奔走し、踠きながらも人生を前に進めてきたつもりだ。私は、どうにかして、自分の存在意義を見出したかった。「生きている意味」が欲しかった。だから、懸命に働いて、ようやく金も稼いだ。そんな私が、精神病とは何だ。この薬の量は何だ。私はここまで一人で歩んできた、強い人間だ。決して、こんな薬が必要なほど弱い人間じゃない。
私は、頑張って、生きてきたのだ。
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お父さんがいなくなって二年、ぼくは贅沢を言うのをやめた。
周りの友だちは、親と一緒にスーパーに行けば、お菓子を買ってもらえるらしい。日曜日や三連休には、家族で動物園とか映画館に行って、その帰りに洋服を買ってもらうという。
自分の家ではそれが難しいということを、ぼくは知っている。それは、少し寂しいことだと思う。でも、別に大した問題じゃない。山梨のお爺ちゃんが、ぼくの十歳の誕生日にエアコンの効かない軽自動車のなかで教えてくれたのだ。大人になれば、ビンボーなんて自分次第で抜けられる。お前は強いんだ。だから、頑張るんだぞ。お爺ちゃんは、そう言ったのだ。
「だから、頑張るんだぞ」
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昨日、昔の夢を見た。
目を覚ますと、枕が濡れていた。
時計は正午を過ぎていたが、身体を起こすことができない。陽の光が眩しくて、つらい。身体が重い。錘をきつく結び、海の底に沈むような感覚だった。自分には一人で起き上がる力が残っていないことを、私は知った。なんて「弱い奴」だと思った。なんて浅ましく、空虚で、救いようのない奴だと思った。私は、貧しさに怯えていたのだろうか。あの朝、私は人を殴った。拳を振るったのは間違いなく私で、そのときの私には幾許の迷いもなかった。あれは、精神病の症状だろうか。いや、私は愛や思いやりの話に涙を流す、感受性豊かな人間だ。優しい人間だ。同期の女だってそう言った。それは、きっと“良い意味”だ。歓迎すべきことであるに決まっている。だが、私は人を殴った。男の頭蓋骨が電車の床を叩く鈍い音を、確かに聞いた。この矛盾は何だ? 私は、異常者なのか? あの大きな仕事で得た報酬を、お前は何に使った? おい、何をした?
頭のなかで、自分を責め立てる声が反芻する。
圧力が限界に達した風船の中でボールが跳ね回るような恐ろしい感覚だ。希望や理想ががらがらと音を立てて崩壊し、絶望と混乱が身体中を支配する。今すぐこの肉体を抜け出したい。耐えられない。
頼む、もう許してくれ。
私は、死ぬことにした。
しかし、ベッドから起き上がることはできない。これでは飛び降りは無理だ。私は、恐怖に全身を震わせながら、芋虫のように床を這い、キッチンへ向かった。戸棚の取手を掴んで体を起こし、シンクの縁にしがみついて蛇口を捻り、コップに水を注いだ。そして、医者から処方された大量の薬をひとつひとつ取り出し、一度に飲みこんだ。頓服も、睡眠薬も、すべて飲み込んだ。薬を飲まない私にとって、それは異常な行為だった。だが、それでいい。もうしばらくすれば、すべて私には関係のない話になる。
時を待つために、這って寝室に戻るつもりだった。
だが、それは諦めた。まもなく死ぬのだから、どこにいようと関係ないのだ。もうすぐ、胃の中で大量の錠剤が溶けはじめ、化学物質が私の身体を支配する。吐き気がするが、吐いてはいけない。耐え難い苦痛だ。意識が朦朧としてきた。良いことだ。いずれにせよ、こんな状態で生きてはいられないのだ。
大丈夫、きっとうまくいく。
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支離滅裂な夢を見る日が続いた。
私が自殺を企てたあの日、たまたま同期の女が差し入れを持って私の家を訪れていた。私が廊下で意識を失ったころ、彼女はエントランスから私の部屋を呼び出した。彼女によれば、「会社から療養中と聞いたから帰ろうかと思ったが、嫌な予感がした」という。私がインターフォンの呼び出しに応じないことを不自然に思い、他の住民の後をつけて入館し、今度は私の部屋のドアフォンを鳴らした。応答がないことを認めると、フロントのスタッフに只事ではないと迫り、私の部屋の鍵を開けさせた。数歩足を踏み入れてすぐ、私が大量の吐瀉物にまみれて気を失っているのを発見し、慌てて救急車を呼んだと彼女は話した。なんという邪魔をしてくれたのだという思いと、偶然に命を救ってくれたことへの感謝。そしてとんだ生き恥を晒したものだという恥ずかしさを、私は同時に感じた。
入院中、その大学病院のある精神科医がやってきて、私に言った。
「最近の処方薬は、いわゆるオーバードーズでも死に至らないようにデザインされているんですよ」
彼はそれ以上のことは語らなかったが、私がオーバードーズは二度としないことを心に決めるには十分だった。それでも、動ける状態になれば次こそは、と思うこともあった。だが、いざ躁の波が来ると、その圧倒的な全能感と自己肯定感によって、自分ほどの人間が死んではもったいないと思った。しかし、その後にはいつも悲惨な抑鬱が口を開けて待っていた。天使をも侍らせるような高揚感と、悪魔の蹂躙のような救いのない絶望を、私は何度も往来した。
それから二月ほどして傷病手当の支払いを受けた時、いよいよ自分が「病気」であることを自覚した。収入の何割とか、いろいろルールがあるようだが、働かずにこれだけの金額がもらえる仕組みが整備されていることに驚いた。度重なる散財で私に貯金はなかったので、これはありがたい。私は、この素晴らしい福祉国家に感謝した。
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あれから一年。
私は医師の指示に従って治療を続けている。
たまにベッドから出られない「芋虫デー」もあるが、それに備えて、ペットボトルの水と処方薬をベッドの脇に常備した。最近では、人を痛めつけようと思ったり、過剰な思考に陥ることはほとんどない。しかし、仕事は、辞めることにした。ただでさえ双極性障害だというのに、あまり派手な仕事をしていては、回復に悪影響だと思ったからだ。今まで必死に積み重ねて来たものが崩れるようで、寂しい気はした。だが、私はこれからも生きる意味を感じたい。そして、「治療をしていれば発狂することはないし、生きてさえいれば別のチャンスが必ずやって来る」という医師の言葉を、私は信じてみることにしたのだ。
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今、私には好きな人がいる。
同じぶどう農園で働く、ひとつ歳上の女性だ。彼女とは月曜日と木曜日にシフトが被る。農園は広いから、仕事中長く一緒にいれるわけではない。だが、昼休みは二人で食事を摂るし、早上がりの日には、一緒に喫茶店でコーヒーを飲む。彼女は私が昔好んだような外見ではないが、落ち着いていて、上品な人だ。最近読書を始めた私に、初心者でも楽しめるものを見繕ってくれたり、作品の面白さについて解説してくれる知性が好きだ。笑うとたまに見せてくれる八重歯も好きだ。なおしたい、と彼女は言うが、今のままが素敵だ、と私は言う。彼女といると、心が温かく、時間がゆっくりと流れるような気がする。だれかに対して、こんな気持ちになったのは始めてだ。彼女の好きなものや、彼女の見ているものについて、私はもっと知りたいと思う。
今は、そんな気分だ。
本作品は、ラグーナ出版社による精神医療専門誌『シナプスの笑い』vol.53(2024年6月20日刊行)および同書籍vol.54(2024年10月20日刊行予定)に掲載されました。