恋(LOVE)は魔法使い
恋(LOVE)は魔法使い
高原伸安
ぼくがその女性に出会ったのは、伊豆の踊子歩道の入口に立つ「踊子と私」のブロンズ像の前でした。伊豆へのひとり旅の途中でのことです。
ぼくの方から、思わず声を掛けたのです。
「踊子歩道を歩くのなら、一緒に行きませんか?」と誘ってみたのです。ダメは、もともとで。
彼女もひとりだったので、「嬉こんで!一人旅なんかつまらないもの」「だれかと話をしながら、歩くのが一番楽しいわ」とぼくの申し出を承知してくれました。
彼女の名前は、池田かすみ。彼女はその儚さにも似て花のような女性でした。というより、野ばらのような女性でした。決して華やかな大輪の薔薇ではなく、控え目で目立たないが美しい野ばらです。そして、胸にイエス・キリストの十字架をしていたのを覚えています。それが、ぼくの第一印象でした。大学の三年生で、ロシア語を専攻しているそうです。
「なぜロシア語を選んだの」とぼくが尋ねると、「英語を習っている人は多いでしょう? その点ロシア語は少数だわ。マイノリティ。だから、需要が多いと思ったの」と、そういう答が返ってきました。ぼくがなるほどと思っていると、彼女は笑って、本当は「倍率が低くて、入り易かったの」と、舌を出して告白しました。
「なるほど」と、その点も納得できました。かすみは背が高く、都会的な甘くやさしい顔立ちをしていました。髪は長くて艶やかな黒で、年より大人びてみえました。その点、“伊豆の踊子”の“薫”とはやや印象が違うように思いました。しかし、話していると、やさしくて、思いやりがある女性でした。それに、いろいろ気づかいもいき届いて、気持ちがいい女性でした。ぼくがそう言うと、「子供っぽいかも」と言い、「そうなの?」ときくと、「たぶん」と答えました。神は、七日間で世界を作ったといいますが、ぼくは、七分で恋に堕ちました。おかしいでしょうか? ぼくたちは、すぐに仲よくなりました。初めて会うのに、いろいろなことを話しました。ぼくは大学生で、この春理学部の四年生になり、将来は、コンピューターのプログラマーを目ざしているという事も話しました。そして・・・・・・。もちろん、最初に、名前は浜田一平だと名乗っておきました。
「どこから来ましたの?」
「東京だよ」
「ふーん、そうなんだ」
かすみは、少し考えて口を開きました。
「きみは?」
「秘密よ。まだ会ったばかりだもの」
「ごめん」
「あやまることないわ。これからよ」
「ありがとう」
でも、彼女は、S女子大のロゴマークが入ったお洒落なボールペンを持っていました。だれでも知っているあの有名な東京の女子大です。地図で行先をぼくに教えてくれる時に、そのボールペンを使ったのです。ぼくも目ざとい方なのです。
全然ものおじしないところなどは、“伊豆の踊子”の“薫”の性格とは、かなり違っていると思います。あの小説では、孤児でコンプレックスをもつ“私”の心が、“薫”の汚れなき清らかな心で変わっていくのですが、ぼくたちは最初からフランクに話をしたのです。彼女も、今夜はF家へ泊まるというので、ぼくたちは意気投合して、今夜は一緒に朝まで酒を飲もうと約束しました。
ぼくたちは、“伊豆歩道”に、足を踏み入れました。雲ひとつなく、新緑が眩しい天気でした。
昭和の森会館に入り、いろいろ見て回りました。ここの庭園には井上靖旧邸が移されているそうです。森会館を一通り見終わると、ぼくたちは左手に滑沢渓谷を眺め、右手に太郎杉を見ながら峠を上っていきます。かすみは、汗を拭き拭き、ゆっくりついて来るので、「大丈夫かい?」と聞くと、少し苦しそうな表情で、「エエ、大丈夫!」と答えます。
「まだ、若いんだもの」
「少し、休もう」
「いいわ」
かすみも、本当は休憩したかったようです。そのため、川端康成文学碑のところで少し休むことにしました。この文学碑は、小説の初めの方の文章と川端康成の顔が彫っています。かすみは、その小説の冒頭部分を、声を出して読んでいました。
暫く休んで、出発することにしました。少し歩くと、天城峠の旧天城トンネルに辿りつきます。あの有名なトンネルです。中は暗くて、湿っていました。ここは、踊子歩道のハイライトでメイン・スポットなのです。ぼくたちは、ゆっくりと歩いてこのトンネルを往復しました。このあとは、つづら折りの下り道なので、比較的楽でした。春の風がサワサワと鳴り、草木がゆれていました。その風は疲れた体には気持ちいいものでした。かすみも、思いっきり背伸びをしたりしていました。
彼女は、とても美人だと思います。ぼくはついつい彼女の方へ目がいく自分を面映ゆく思いました。通り過ぎるカップルは、男女を問わずかすみに目を遣ります。男は賞賛の眼差しで女は少し嫉妬を含んだ視線で・・・・・・。ぼくは、少し誇らし気な、それでいてちょっぴりくすぐったいそんな気持ちでした。かすみも、誰かとすれ違う度に、恥ずかしいのか、繋いだ手に力が入ります。ぼくの手にも、彼女の肌の温かさが伝わってきます。
寒天橋を渡り、少し歩いて、平滑の滝の休憩所で少し休んでから、また出発しました。周辺にはワサビ田がつづいています。
「やっぱり来て、よかったわ」と、かすみが笑顔で言いました。
「それに、“薫”と同じで、あなたみたいな好青年に出会えたから」
「好青年か狼少年かわからないよ」
そう言って、ぼくたちは笑いました。
その後は、左手に宗太郎杉並木を眺めて、右手に阿津七滝を見ながら、ゆっくり歩きました。阿津七滝というのは、釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝の七つの滝の総称です。この釜滝の上までは、三百六十段の急な石段があると聞いていました。ぼくとかすみは上がってみることにしました。この階段はかなりきつく、頂上まで上がると、足がガクガクしました。そこで、少し休んでいると、いくつかの滝の音がしていました。下を覗いてみると、滝の水が落ちていくのが見えます。実に、絵になる風景です。
ぼくとかすみは、初景滝の前にある“踊子と私”の像の前で、しばし足を止めて、その滝の上から落ちる水と像を眺めていました。ここにも「踊子と私」の像があるのです。そして、源頼朝伝説の小杉神社を過ぎ、最後に今夜の目的地であるF家へ投宿しました。もちろん、ぼくと彼女の部屋は別々でしたが、奇遇なことに二階の隣同士の部屋でした。
「ぼくの部屋は、きみの部屋の隣だね。もしかしたら偶然が重なっただけなのかしれない。でも、これが運命じゃなかったら何なんだ?」
ぼくは、素直な気持ちを口にしました。
「さあ、わからないわ」
「ぼくは、あのライプニッツの“予定調和説”を信じているんだ」
「そうやって、わたしの気を引こうとしても、駄目よ」
かすみは、照れ笑いしながら、首を振っていました。
「後で、ちょっと散歩しないかい?」
「いいわ」
まだ早い時間だったので、ぼくとかすみは、伊豆の踊子に出てくるゆかりの地を見て回りました。
「あの小説に出て来る人は本当に素朴でいい人たちね」
「本当にいい人たちだね。悪い人なんか一人も出て来ない。いまの小説なんか悪人ばかりだ」
「本当だわ」
そんなたわいのない会話ができるまで、親しくなっていました。もう、夕方になっていたので、ぼくは浴衣に着替え、窓わくに腰かけて、“薫や一座のもの”が、踊りを踊ったりしている姿を想像していました。部屋は、時代を感じさせる重厚な雰囲気を醸し出していました。その時、戸の外から、「入ってもいいですか?」というかすみの声がしました。「どうぞ!」と、言うと果してかすみが姿を現しました。かすみも、浴衣に着がえています。背が高いせいか、浴衣の袖も裾も少し短かったけれど、それがミスマッチで妙に色っぽい感じがしました。「ドキ」っと、ぼくの胸がときめきました。
「こんな小さいのしか用意してなかったのよ。これ以上、大きいのはないんだって、失礼しちゃうわ!」
かすみが説明しました。
「わたしも、座っていい?」
ぼくがどうぞと言うと、かすみは窓のそばの畳の上に座布団を敷いて座りました。
「今日は楽しかったわ」
「それに、きみという美人の連れもいたからね」
ぼくがそういうと、かすみは嬉しそうに笑いました。
「一平さんはどうしてこの伊豆の踊子歩道に来たの?」
かすみが、外の夕暮れを見ながら聞きました。
「あの『雪国』も好きだから越後湯沢にも行きたかったんだけど、やはり『伊豆の踊子』が定番だろう」
「わたしは、『古都』も大好きなんだけど、京都はいつでも行けるでしょう。それより、わたしは『伊豆の踊子』のあの切なくてロマンチックな関係が好きなの」
「なるほどね。ぼくも京都の美しさは好きだよ。でも、この伊豆も、好きになりそうだ」
ぼくはかすみの浴衣の裾を気にしながら言いました。
「ありがとう。わたしもよ」
一人で夕食を食べるのもむなしいので、かすみの料理をぼくの部屋へ運んでもらって、二人で食事をすることにしました。
「用意ができるまで、温泉に入っておきましょうよ」
「いいね」
温泉の中では、ぼくはかすみのことをずっと考えていました。かすみは、伊豆の踊子の薫には全然似ていませんでしたが、何か同じようなオーラというか匂いがしていました。彼女を見ていると、ぼくの心が清らかになるような気がするのです。風呂から上がって部屋へもどると、すぐにかすみもお風呂から戻って来ました。肌はほんのりピンク色になっていて、短い浴衣をあいまって、先ほどよりずっと色っぽくなっています。
「いやーね。ジロジロ見ないで」
かすみの顔は、もっと赤くなりました。
「きみは“薫”じゃないけど、ぼくの『薫』かもしれないよ」
ぼくは先ほどから考えていたことを口にしました。われながら大胆な言葉です。
「それって、くどいているの? それとも喜んでいいの?」
「もちろん褒めているんだよ」
「嬉しい!」
「なんだか、からかわれているみたいだな」
「それはない。ない」
かすみは、悪戯っぽく笑いました。
ぼくは、窓わくに腰かけて、出合いの夜景を見ていました。かすみは、座卓の前で、お茶を飲んでいました。
「ホタルだ」
「ウソ?」
かすみがぼくのそばに来て、窓から身を乗り出してぼくの視線の先を見ています。ぼくの顔に、かすみの柔らかい胸がやさしく触れました。ぼくの顔が赤くなりました。
「嘘だよ」
「もう! いけずなんだから」
かすみは、ぼくをぶつ真似をしましたが、その仕草は初々しくて魅力的でした。
「あなたの夢って、何なの? プログラマー以外に」
「そうだな。童話作家になることかな? ぼくはアンデルセンのような童話が書きたいんだ」
「本当? コンピューターに童話か? ミスマッチで面白い。でも、いいかも。子供が好きなんだ? そんな気がしたの」
「きみは?」
「秘密!」
かすみは、笑顔を見せました。
「ズルーい。趣味を聞いただけなのに。まあいいか。あとでジックリ聞くから」
「ウフフ」
かすみはほのかに笑いました。
「いま童話を持ってる?」
「童話の原稿のこと? ああ、ひとつ持っているよ。アンデルセンのような童話集を作るのが夢なんだ」
「だったら、読ませて」
「いいよ」
ぼくは、黙ってかすみに、その原稿を渡しました。かすみは、それを取ってページを一枚ずつ捲って、読んでいきます。かすみは、童話を読むときに写真をシオリ替りに挟んでいました。
「それは、何?」
かすみはそれをぼくに渡しました。ピースをしたかすみと黒縁眼鏡をかけた真面目そうな若い女性が一緒にうつっていました。バックはどこかの雪山の風景です。
「それ、蔵王へ、スキーに行ったときの写真よ。その娘は、わたしの一番の親友なの」
『小さい百合の花
北国の山間にある病院に小百合という若い女性が入院していました。白い肌をした、長くて黒い髪の、美しい女性でした。
小百合は、もう長い間、入院生活を続けています。
彼女には、いつも一郎という青年が付き添っていました。
一郎は地元の小学校の先生ですが、学校にいるとき以外は、この病院へ見舞いに来ているのです。
小百合のそばのテーブルの上には、雪のような真っ白いつぼみをつけた、小ぶりのゆりの花の鉢が置いてありました。
小百合を励まそうと、心やさしい一郎が、同じ名前の花を見つけて持って来たのです。
ときには、一郎が、生徒をつれて小百合を見舞に来ることもありました。
小百合も同じ小学校の音楽の教師だったからです。
小百合は、不治の病だったのですが、いつも一郎や生徒たちを温かい笑顔で迎えました。
しかし、ある寒い冬の朝、小百合先生は、治療のかいもなく息を引き取りました。
小百合は、枕元のゆりの花が咲くのを楽しみにしていたのですが、その夢はとうとう叶うことはありませんでした。
その時の、一郎の悲しみようといったらありませんでした。
涙が枯れるほど、いつまでも泣き続けたのです。
一郎は小百合の枕元にあった、白いゆりの花を自分のアパートの部屋へ持って帰りました。
小百合は死ぬ直前、一郎の手を取って、「このゆりの花をわたしだと思って面倒をみてやってください」と、寂しそうな笑顔を見せて、一生懸命頼んだのです。
一郎は、このゆりの花を小百合の生まれ変わりだと思って、大切に育てました。
一郎は、いつもこの花に向かって、やさしく接っしていました。
そのせいか、そのゆりの花は、とても美しい白い花を咲かせました。そのゆりの花は、薔薇の花のような人目をひく華やかさはありませんでしたが、小百合のように清楚で慎ましい花でした。
一郎は、そのゆりの花を目にする度に、小百合のことを思い出して、涙を流したものです。
その涙の一粒が、ゆりの花の上に流れ落ちました。
その時、ゆりの花が、一瞬赤くなったような気がしました。
ある日、一郎は、風邪のために寝込んでしまいました。
意識がもうろうとして、熱があったので、学校も休み、アパートで寝ていました。
いつのまにか、ウトウトして、目が醒めると、枕元に小百合が、座っていました。
そして、水で濡らしたタオルを一郎の熱い額に当てたり、体の汗を拭いたりして、かいがいしく世話をしてくれていました。
「小百合、どうして?」
一郎が聞きました。
「死んだんじゃなかったのか?」
「一郎さんは、悪い夢をみていたのよ。わたしは、ここにいるじゃないの」
小百合が、花のような笑顔を見せました。
「そうか、全て夢だったんだ」
「お粥か何か作ってあげるわね。病人は栄養をつけなくちゃ」
小百合は、台所へ行くと包丁を使って、トン、トン、トンと野菜を刻んでいきます。
しばらくして、「熱い!」という小百合の声がしました。
一郎が心配してフラフラしながら台所に行ってみますと、小百合が指を押えて、屈んでいました。
右手の人さし指と中指が、赤くなっています。
「どうしたんだ?」
一郎が、ボーっとした頭のまま、聞きました。
「火傷しちゃった。でも、大丈夫よ」
小百合が、舌を出して笑いました。
「でも、手当てをしなくちゃ」
一郎は窓に積っている雪を取ってきて、小百合の手を冷やしました。そして、百合の右手の人さし指と中指の間に白い薬を塗りました。そして、包帯を巻きました。
「大袈裟だわ」
小百合はやさしく笑いました。
「もうすぐできるから寝て待っていて」
しばらく、蒲団の中で、一郎が横になっていますと、小百合がお粥を持って来ました。
「おいしそう」
一郎は、そのお粥を一口すすりました。
すると、そのお粥の美味しかったこと。
一郎は、何杯もおかわりをしました。
「美味しかったよ。きみは、料理も上手いんだね。そんなきみをお嫁さんにできるなんて、ぼくは幸せ者だよ」
一郎が嬉しそうに言いました。
「さあ、グッスリ眠って。そうすれば、きっとよくなるわ」
小百合は、寂しそうに言いました。
その次の日、一郎が目を醒ました時には熱も下がりすっかりよくなっていました。
しかし、小百合の姿はどこにもありません。
「夢だったのか?」と、一郎はガッカリして呟きました。
しかし、窓辺のゆりの花を見てビックリしました。なんと、右の葉っぱに白い包帯が丁寧にまかれてあったからです。
その時、一郎は思いました。
「昨夜の夢が現実で、今生きている世界が夢ではないのだろうか?」と・・・。
※白百合の花言葉・・・純潔。威厳。甘美』
ぼくの頭の中にエドガー・ポーの「夢の夢」という詩があってペンをとった童話です。これはポーの詩と同じく悲しい物語です。
この原稿を、読み出してから、驚いたことにかすみは途中から涙を流し出しました。
「わたし、悲しいのは、イヤ!」
「どうしたの?」
ぼくが理由を聞いても、何も言わずに泣き続けました。
「友だちのことを思い出したの! ごめんなさい。急に泣き出しちゃって!」
かすみは、そう説明しました。
ぼくは、“死んだの?”という言葉を飲み込みました。
「いいんだよ。もう泣かないで」
「うん!」
かすみは、そう言って頷きました。
ぼくはかすみの背中をずっとさすってやりました。
「きみの将来の夢って、なんだい?」
私は、かすみが落ちつくのをまって聞きました。
「いいお嫁さんになることヨ」
かすみが、真面目な顔で言いました。
「やっと話してくれたね」
「平凡でしょう?」
「平凡なのが一番難しいんだよ。それに、それが一番幸せだ」
「それに、わたしカトリック教徒なの」
「ヘエーそうなの」
ぼくが、そう言うと、かすみはまた泣き出しました。その様子からして、この旅行はかすみにとって失恋旅行なのかもしれない。そんな気がしました。ぼくの頭の中は、グルグル回っていました。しばらくすると宿の自慢の料理が出てきました。この辺は海にも山にも近いから、海の幸、山の幸をふんだんに使った御馳走で、大変美味しいものでした。
「美味しい!」
「とっても」
もちろん、かすみの約束通りに、地酒なんかをたっぷりと飲みました。かすみも、かなりのアルコールが入っているのか、真っ赫になり、浴衣の裾も乱れ、白い太腿も見えて、かなりエロチックな眺めでした。
料理が下げられても、ぼくとかすみは、相変わらず酒をちびりちびりと飲んでいました。ぼくもかすみも、かなり酔っぱらってしまいました。
「一平さん、酔った勢いで告白するけど、わたしの悩みを聞いてくれる?」
と、その時は一瞬かすみの顔が真剣になりきいてきました。
「もちろんさ。なんだい」
ぼくもかすみの瞳をジッと見つめました。
「やっぱり恥ずかしいからいいわ」
かすみは顔を真っ赫にして言いましたが、目は真剣でした。目にはまだ涙がたまっています。
「本当に、いいの?」
ぼくはその言葉を受け入れました。このことはあとで後悔することになるのですが・・・・・・。
「今日の旅行は、とても楽しかったわ。ありがとう」
「それはぼくのセリフだよ。きみがいなければ、ただ単に峠を上り下りて来ただけだからね」
かすみの瞳が、ぼくをジッと見ていました。一挙手一投足を、逃がさないとでもいうように・・・・・・。
「でも、その言い方は、もうこれっ切りという感じだね」
ぼくらは相手の目をジッと見つめ、相手の気持ちを見抜こうとしていました。
なぜか、彼女の目に涙がたまっているのが気になりました。
「どうしたの? 何があったの?」
「そんなに、やさしくしないで。余計辛くなるから」
「でも、きみのことが気になるんだ」
ぼくも馬鹿なことを言ったものです。
「ぼくは、おかしいかな?」
彼女の方へ手を伸ばし、ぼくの方へ引き寄せました。
「いいえ。そんなことない」
彼女はイヤイヤするように顔をふりました。
ぼくは、彼女を抱き締めました。
彼女の両腕が、ぼくの首に回されていました。
ぼくも彼女も酔いに身を任せていました。
「もう泣かないで」
「ウン」
彼女は泣き顔で、無理に笑いました。
ぼくは、彼女を抱き締めました。ぼくも酒を飲んでいるせいか、酒の匂いはひとつもしませんでした。その替わり、かすみの身体や髪から、いい匂いがしました。
「どんなシャンプーを使っているの?」と、ぼくは聞きました、
「ただの石鹸よ」
「でも、いい匂いだ」
かすみは、女優みたいでした。
ぼくは唇をかすみの唇に近づけました。かすみは人さし指で、ぼくのくちびるを止めました。
「でもわたし、そんな軽い女じゃないのよ」
かすみは、悪戯っ子のような笑みをうかべました。
「ようやく笑ったね。ぼくも、そんな軽い男じゃないよ」
「わかっているわ。わたしと同じにおいがするもの」
「洒落かい?」
ぼくも、釣られて笑ってしまいました。
ぼくは、もう一度くちびるをかすみのくちびるに近づけて、そっと触れました。
「“伊豆の踊子”にはこのようなシーンはなかったけど」
かすみが一息つくと言いました。甘くとろけるような笑顔をぼくの方に向けました。
「ぼくのオリジナルさ」
ぼくは、彼女の浴衣を脱がして、全裸にしました。
「恥ずかしい」
彼女は酔っている体をピンクにして、顔を手でおおって身をよじりました。
キスから始めて、頭の中で官能の絵を美しく描いていきました。彼女は、目に涙を溜めていました。彼女の身体は、本当に美しいものでした。肌が雪のように白く、プロポーションがよく手足が長いのです。胸に光るイエス・キリストの銀の十字架が、白い肌に映えて、実に神々しい光を放っていました。まるで、女神です。身体は女らしい丸みで画かれていました。ぼくは、彼女のプロポーションのいい身体のうえに、ピタリと自分の体を重ねて、抱き締めました。彼女の顔には不安が宿っています。彼女の方も、ぼくの腰に両手を回して、ひとつになろうとしていました。少なくとも拒否はしていません。彼女の体は温かく、ぼくは彼女に口づけしたまま腰を沈めました。
「ウッ。イタィ!」
かすみの口から小さな声が漏れました。かすみの胸の上で、踊っているキリストの十字架を、ぼくは今でも覚えています。目を閉じれば、そのときの光景が心に浮かび上がるようです。まるで北川歌麿の浮世絵のように・・・・・・。
全て終わったあと、やさしくキスしました。ぼくは、彼女のすべてを目に焼きつけておきたかったので、ジっと見ていました。かすみはしきりに恥ずかしがっていましたが、酔っていたので、すぐに眠りに落ちていきました。顔が涙で光っていました。それが、とても印象的でした。もし印象派の画家がこの絵を画いたら、如何なるものになるだろうかと、ふとぼくの頭の中に絵が浮かんできました。たとえばルノアールだったら・・・・・・。「でもわからない」というのが、ぼくの答えです。
ぼくは、その後も暫く彼女を眺めていましたが、いつしか眠りに落ちていき、夢をみました。その夢では、かすみが乗船場で船に乗って東京に帰って行くのを、ぼくは何も言わずに手を振って、眺めているという悲しい場面です。「伊豆の踊子」と反対のシチュエーションです。
次の朝、目が醒めると、彼女はまだ無防備な姿で眠っていました。
頬に涙の痕があったので、ぼくはタオルで顔を拭きました。ぼくは、彼女に下着をはかせ、浴衣を着せました。しかし、彼女がぐっすり眠っているため、まるで死んだように、重くやり難い作業でした。しばらく、また彼女の寝顔を眺めていました。が、かすみは三十分程で目を醒ましました。
「おはよう」
ぼくが声を掛けます。
「おはようございます」
彼女も恥ずかしそうに答えます。
「頭がガンガンする」
「飲みすぎたんだ。二日酔いだよ」
ぼくは昨日のことを、勘心なことは省いて教えてやりました。
「なるほど、それじゃ、苦しいはずだわ」
「そういうこと」
「朝食はいらないし、昼まで眠っているわ。昼から港に探検に行きましょうよ?」
少しして、彼女が起きだして来たので、ぼくは下田の魚市場に行くことを提案しました。彼女は、OKでした。
「もう大丈夫なのかい?」
「大丈夫よ」
「お昼は?」
「欲しくないわ」
ぼくとかすみは、魚市場に行ってみました。市場は活況で賑やかさに溢れていて、いろいろな魚が並んでいました。彼女は、市場をぐるりと回り、それらの魚をひとつひとつ見て、どんなに美味しいのか、どのように料理したら一番美味しくなるのか、と売場のおじさんやおばさんに料理の仕方を教えてもらっていました。
「この赤い魚は、なんていうんですか?」
かすみが、好奇心一杯でききました。
「旅館の夕食に刺身ででていました」
「キンメダイだよ」
おばさんが親切に答えました。
「煮ても、焼いてもおいしいのよ」
「早朝から、セリ市をやっているし、地面一面真っ赤な群れは圧巻だよ」
隣のおじさんが、口を挟みました。
「また、来たいわ」
「いつでも歓迎だよ」
かすみは、ものおじしない性格なのです。
彼女はひと通り市場を回っていろいろ聞き終わると、ぼくのところへ戻って来て、「砂浜へ行きましょう」と、提案しました。ぼくに否応はありませんでした。ぼくとかすみの二人は、バスに乗って下田から少し離れた砂浜へ行きました。
「ウーンとね。突然だけど、あなたは来世って信じる?」
かすみが唐突に聞きました。
「信じているよ。その方が楽しいもの」
ぼくは軽く春えました。
「そうよね」
「きみは信じていないの?」
「わたしも信じているわ。いや、信じたいの。でも、わたしはキリスト教で仏教じゃないから・・・・・・」
かすみは真剣な顔で言いました。
「きみは、いつからキリスト教なの?」
「子供のころ洗礼を受けたの。父が外交官で、十歳までイギリスに住んでいたから・・・」
「でも、どうしたんだい? 急に、輪廻転生のことをいいだすなんて?」
「なんでもないわ」
かすみは笑って言いました。
ずっと砂浜が続いていて、ぼくと彼女は靴を脱いで、素足で水際をずっと歩いて行きました。左側は一面の海で、遠くに島影が眺望できます。
「ねえ、気持ちいいでしょう?」
彼女が聞きました。
「ああ、冷たくていい気持ちだよ」
ぼくは答えました。
「きみの様子をみていたら、魚がとても好きなようだね?」
「わたし、山育ちなの。だから生きている海の魚なんて、あまり見たことがないし、このどこまでも続くような海が好きよ」
彼女が告白しました。
「そうか。だから、市場であんなに熱心に魚を見ていたんだね」
「そういうこと。だから、水族館に行くのも大好きよ」
「それじゃ、近くに水族館があったら行ってみようか?」
「もう遅いわ。宿に帰りましょう」
ぼくたちはバスに乗って下田まで戻り、旅館へ帰った時には、もうすぐ夕食時という時間でした。
「夕食ができましたわ。昨日と同じように、こちらへお二人の食事をお運びしましょうか?」
仲居さんが聞きました。
「そうして下さい」
かすみが言いました。仲居さんは、まあなんて積極的なと思ったことでしょう。顔に微笑が残っていました。
その夜も昨夜と同様に山の幸、海の幸をふんだんに使った料理の数々を楽しましてもらいました。
「昨日のことね」
浴衣のかすみが横を向いて、赫い顔で言いました。
「酔って、覚えていないと思っているかもしれないけど、よく覚えているの」
「そうだったの。ぼくは酔っ払っているとばかり思っていた」
ぼくはやさしくそう言いました。かすみが軽い女と思われたくないなら、それでいいと思ったからです。だから、昨夜、感じた疑問も口にしませんでした。
「今夜も、楽しくやろう」
「そうね。すべてを忘れさせて」
彼女は暗闇の中で浴衣と下着を脱いで、全裸になりました。彼女は自らぼくを抱き締め口づけをしてきました。ぼくらは、はじめはやさしく次はだんだん強くキスしました。
かすみは、この夜は積極的でした。ぼくらは強く抱き合ったまま、お互いを愛撫しました。彼女はぼくの髪の毛に指を入れ、ぼくの頭を自分の胸に押し付けました。ぼくは彼女の耳から目にと次々にキスをして、最後に唇に口づけしました。彼女は、まつ毛を震わせ、開いた口から甘い吐息と声をもらします。ぼくらはだんだんと高ぶっていき、最後を迎えます。再び、ぼくはかすみに軽く口づけしました。彼女もやさしく応えてくれます。彼女は目に涙を一杯浮かべて、「ありがとう」と言いました。ぼくは彼女の涙を見て、何も聞くことも言うこともできなくなりました。その理由を暫く考えていましたが、いつ間にか眠りに落ちてしまいました。これは不覚なことでした。
次の朝、起きるとかすみの蒲団はきれいに畳まれ、座卓の上へ手紙が置いてありました。なにか悪く不吉な予感がしました。ぼくはその手紙を息せき切って読みました。
「一平様へ
もうあなたも気づいているかもしれませんが、今回の旅行は失恋旅行でした。
彼を忘れるために、この旅に出たのです。
伊豆の踊子歩道は失恋の旅にぴったりだと思いませんか。
そして、あなたに出会ったのです。
でも、あんなにも激しく愛し合ったのに、彼を忘れることができませんでした。
本当にこの二日間は大変ありがとうございました。
とても楽しい思い出ができました。
お元気で。
健康だけは気をつけてください。
どうかわたしのことは忘れて、幸せになってください。
さようなら!
一平さま
かすみより」
最後は「さようなら」と、結んでいました。
その封筒の中には、最後に見たとき身につけていたキリストの十字架が一緒に入っていました。あの時の涙は恋する彼のために泣いていたのかと、ぼくは初めて彼女の涙の意味を知った思いがしました。しかし、このまま別れたくはありませんでした。仲居さんが朝食の用意ができたと言いに来たとき、ぼくはもう服とズボンに着替えていました。
そして宿を飛び出しタクシーを拾って下田港へ行ってみました。“私”と“薫”が別れをした場所だからです。しかし、港には船もなくて、誰もいませんでした。ただ、広く、やさしい、青い海が広がっているだけです。あとは下田の町を駆け巡って捜しましたが、ついにかすみを見つけることはできませんでした。その時、初めてぼくはかすみの住所も電話番号も知らないことに気がついたのです。大学名も聞いていませんでした。教えるのを拒まれたかもしれませんが、訊いておけばよかったと思いました。しかし、後悔あとに立たずです。あとで旅館のお将さんや仲居さんに尋ねましたが、そんな娘は知らない、あなたは一人でこの宿に泊まった、の一点張りです。
ぼくはキツネにつままれたような気持ちになりました。その時はプライバシーの問題でとやかくいわれるので、教えないのだろうと思いました。でも、相手も不思議そうな顔をしていました。もちろん、色々なところを捜しました。
最初にS女子大へ電話してみました。でも、かすみはいませんでした。ロシア語学科さえなかったのです。一体どうしたことでしょう。そのあと、いろいろ他の大学にも当ってみましたが、ことごとく失敗でした。そこで探偵さえ雇ったのですが、報告はそんな娘はあの日あの旅館へは宿泊していないという不可解なものでした。
外国のミステリーだったと思いますが、こんな話があります。パリでひらかれた万国博にきたアメリカ人の母娘がいた。一緒に同じホテルに泊まったのだけど、朝起きると母親はいなくなっていて、その痕跡もなくなっていた。娘がホテルの支配人にきいても、ホテルに来たのは娘ひとりで泊まったという。駅の赤帽、タクシーの運転手、ホテルのベル・ボーイなど会った人に尋ねてみても、みんな娘は一人だったと証言するというプロットだった。この事件の真相は、母親はペストに罹って死亡した。それを公表するとパニックが起きるので、国を挙げて娘を騙し秘密裡に処理したというものだ。
かすみも、なんらかの事件や陰謀にまきこまれたのだろうか? ぼくは、わけがわからなくなりました。それでも、ぼくはかすみを忘れることはできませんでした。そのあと、何の手掛りもなく、しばらくかすみの消息はわかりませんでした。
ぼくは、その間に、キリストについて考えてみました。かすみをもっと知りたいと思ったからです。トマス・アクイナスなどの難しい本も読みました。その結果わかったのは、たぶんかすみは、キリスト教の汝の隣人を愛せよという言葉に魅かれたんだと確信しました。たぶん、彼女は人間が好きなのでしょう。かすみは人間をとても愛しているんだと思います。ぼくはまだ若く人生なんかわかりませんが、かすみはそう感じていると直感しました。宗教とか人生は複雑に理解するばかりが能ではありません。一番わかりやすくて、もっともらしいのが答えであることが多いのです。それ以上の表現は思い浮かびません。
夏が過ぎ、秋が去り、再び、春になりました。ぼくは大学院生になっていました。
かすみに会うことはありませんでしたが、ぼくがかすみを忘れたわけではありません。あの夜のような激しい恋心がぼくの心の中でずっと燃え続けていたのです。
ずっと都内にある大学に電話かけたり、出向いたりして、捜していたのです。しかし、どうしても、かすみを発見するまでには、至りませんでした。果して東京にはいないのだろうか? 神奈川県にまで、捜索の範囲を広げましたがやはり、そんな女性は在籍していませんでした。
「かすみ、きみは一体どこにいるんだ?」
ぼくは、机の前に座っていても、よく溜息とともに、そう呟いたものでした。
ぼくの頭の中は、かすみでいっぱいでした。そして、その想いは、ぼくの心の中で、大きくなりはしても小さくなることはありませんでした。ぼくは、かすみを捜しながら、一篇の童話を書きました。
『泳げない人魚
みんなキラキラ輝いていた昔々のお話です。県の北にあるS村は、たいそう自然が美しい村です。夜は満点の星空で、夏はホタルが舞い、川辺は幻想的なやすらぎと不思議な記憶を呼びさましています。その川にも人魚がいたのです。
四郎はある日、山の麓にある湖にハイキングに行きました。四郎は地元の小学校の体育の先生で、大人しいやさしい先生でした。
湖には滝があり、大量の雪解け水が流れ落ちていました。季節は北国でももう春で、つくしも出て新緑が目にも眩しいほどでした。
湖の滝のそばに行くと、髪の長い女性が溺れていました。四郎は、すぐさま水に飛び込んで女性を助けて、岸まで連れて行きました。
四郎は、女性を見て驚きました。
大変な美人で肌も雪のように白かったのですが、上半身は人間で、下半身は魚だったのです。四郎は人魚の話は聞いたことがありましたが、目にするのは初めてだったのです。
「恥ずかしいわ。ジロジロ見ないで!」
人魚は、顔を赤くして頼みました。
「ごめんなさい」
やさしい四郎は目を逸らして言いました。
「キミは、本当に人魚なの?」
「そうよ」
「お伽話で聞いていただけだから、信じられなくて」
「珍しいと思うの? 何か可笑しい?」
「人魚が、おぼれたりするの?」
四郎が首を振って、聞きました。
「人魚も、いろいろな人魚がいるのよ。男の人の人魚もいるし、湖や川に住む人魚もいるわ」
人魚は、真剣な目をして言いました。
「ぼくは四郎。きみの名前は?」
「ミミよ」
四郎とミミは、しだいに打ち解けていろいろな話をしました。
四郎は、病弱な両親と一緒に暮していること、両親の面倒をみてくれるお嫁さんが早く欲しいこと、ミミは両親を早く亡くしてひとりぼっちで生きていること、泳ぐのが下手で、食べ物の小魚さえよく獲れないことなどなどです。
「ぼくは、体育の教師なんだ。キミに泳ぎ方を教えてあげようか?」
「マア、ありがとう」
ミミは、目を輝かせました。
四郎とミミが、愛し合うようになるのに余り時間はかかりませんでした。
「私、人間になりたいわ。うまく食べ物もとれないし、人間と人魚は結婚できないもの」
ミミは涙を流しながら訴えました。
四郎は、休みの日になると山の滝まで、ミミに会いに行きました。
そして、手を取ったり、尾びれを取ったりと、上手に泳げるように教えました。しかし、ミミはなかなかうまく泳ぐことができませんでした。
ある日、湖の下流の川で、四郎はミミに泳ぎを教えているとき、岩に足をすべらせて、足に大怪我をしてしまいました。足からは血が流れています。四郎の顔も青ざめています。
「病院に行かなくちゃ」
ミミが、心配そうに言いました。
「この川の下流にぼくの友達の病院があるけど、ぼくは歩けない」
「私が泳いで行くわ」
ミミが、決心していいました。
「無茶だ、おぼれ死んでしまうよ」
四郎がそう言う前に、ミミは川へ飛び込みました。そして、岩にぶつかりながらも一生懸命泳いで、川を下り四郎の目から見えなくなりました。
そして、一時間後、ミミは傷だらけで四郎の友達の医者を連れて来ました。ミミが泳げたのも四郎のことを思う気持ちからです。
「彼女の傷も診てやってくれ!」と、四郎が叫びました。
「愛のためかい?」
太郎医師は、四郎の傷の手当てをしながら、ミミを見て聞きました。
「驚いたよ。あの娘は人魚だろう? 君の何なんだい?」
「恋人さ。結婚したいんだ! 何か言い方法はないかな?」
「ここから、少し行った川のそばの森に魔女が住んでいる。ひょっとして、彼女に頼めば、何とかしてくれるかもしれない」
四郎とミミは、魔女に会いに行き、ミミを人間にしたいと頼みました。
「お前たちの愛というか絆は、この目で見て知っている」
魔女が、意地悪い目で二人を見ました。
「その娘を人間にする薬を作ってあげよう。そのかわり、私に何をしてくれるんだい?」
「これをあげるわ。奇麗だから集めていたの」
ミミは、砂金が入った袋を魔女に渡しました。魔女は、それを喜んで受け取り、薬をミミに渡しました。
ミミがその秘薬を飲むと、下半身が二つに分かれて足になり、美しい人間の娘になりました。四郎とミミは、魔女にお礼を言い、抱き合って喜びました。
その後、四郎とミミは結婚して、ミミも四郎の両親の世話をして、幸福に暮したということです。
これは、頑張ればなんでもできる、愛さえあればなんでもできるという寓話です。
そして、北の国の春を告げる物語でもあります』
これは、ハッピー・エンドの物語です。かすみが、泣いてしまった悲しい童話ではありません。このほうが、彼女に喜んでもらえると思ったからです。そして、かすみをこの世のものではない“人魚”という言葉で擬人化したのです。面白い喩えでしょう? 本当に、ぼくは幻を追いかけているのでしょうか?
ある日、ぼくは大学のコンパに行きました。どういう状況だったか忘れましたが、そのとき隣の女のコが、ぼくのことを「いけず」と呼んだのです。ぼくが、その女の娘の出身地を尋ねますと、“京都”だと答えてくれました。
「そうだ。京都だ!」と、ぼくは、おもわず叫んでいました。一度だけ、かすみはその京都弁を使ったことがあるし、それに川端康成の「古都」の話をしていた時、いつでも行けるというようなことを言っていたからです。ぼくは、すっかり忘れていました。なんてバカだったのでしょうか。ぼくは、たとえば新幹線の東京と京都の距離と、烏丸通りから祇園まで行く時間の長さを混同していたのです。ぼくは、その考えに憑つかれたというか、確信したのです。
ぼくは、京都の大学に、片っ端から電話しましたが、二つ目で目当てのかすみが通う大学を見つけ出しました。ロシア語学科を持っている大学は、少なかったのです。電話に出た事務員は、最初は学生のプライバシーもありますと言っていましたが、「忘れ物のバッグをもっているんです。もしかしたら彼女の大切なものなのかもしれません」という嘘をつくと、彼女のことを認めてくれたのです。個人情報といっても、いろいろ抜け道はあるのです。その後、その事務員は何か言いたそうにしていましたが、ぼくは「明日持っていきます」と、言って電話を切りました。もし明日講義がなくて欠席なら、友達にでも住所を聞いて、会いに行けばいいと思ったからです。待つ時間は、十分ありました。これまで、長い時間待ったのですから。
ぼくは、朝九時のひかりに乗って京都へ向かいました。胸に、かすみがしていたキリストの十字架をして・・・・・・。
昼少し前に京都駅へ着くと、バスに乗って山の上にあるK大学へ向かいました。わりと駅から遠いのです。ぼくは、かすみを上京した東京の大学生と勘違いしていたのです。
事務局に行くと、“忘れ物”は渡しときます・・・・・・」と、言われて断られそうだったので、ぼくはかすみのゼミの名前を聞いただけで引き下がりました。その時、事務員が怪訝な顔をしたのが印象に残りました。
いま授業中で終わるのが、三時だというので構内をぶらぶらしたり、運動場を見たりして時間を遺しました。人里離れているし、自然も残っているし、たぶん勉強をするのに、ここは快適な場所にちがいありません。山の上の大学からは京都の街並みが俯瞰されて、懐かしいようなやさしい気持ちになりました。それはかすみに再会できる嬉しさから、そのいう気分になったのかもしれません。
もちろん不安もありました。かすみに会っても完全にぼくを無視するかもしれませんし、あの夜はほんの遊びだったと一笑に付されるかもしれません。最後に別れたときの状況に思いを馳せると、ぼくは薄ら寒い冬の景色と像を重ねざるを得ません。
時間になったので、かすみのゼミの教室に戻ってくると、授業が終わったのか生徒がぞろぞろでて来ました。かすみは休みなのかどうなのか、最後まで出て来ませんでした。もう春なのに、心の中に冷たい風が吹くのを感じました。教室を覗いてみましたが、かすみはいませんでした。帰っていくゼミ生の中で、ぼくは知っている顔を見いだしました。あの写真に写っていた黒縁の眼鏡をかけた女性です。
「池田かすみさんを知りませんか?」と、その女性にぼくは聞きました。その女性は、ぼくを見てビックリした顔をしました。ぼくの胸の十字架をみて驚いたのかもしれません。
「かすみは、私の親友でした。ここでは何ですから、学食の喫茶部へ行きませんか」
「ぼくは浜田一平です。よろしく」
「私は、青山正子です」
正子ちゃんは、真面目な顔で自己紹介をしました。
「あなたが、かすみと一緒に伊豆を旅行した人ですね。かすみから話は聞いていました。そのペンダント。かすみが肌身はなさず持っていたものです」
ぼくはこの彼女の“いました”という過去形が気になりました。
「あの話は本当だったのですね」
「かすみは、いやかすみさんはどうしたんですか?」
ぼくは、息せき切って質問しました。
「かすみは亡くなりました」
正子ちゃんは、感情を押し殺したような声で、事務的にそう言いました。
「エッ!」
一瞬、ぼくは思考が停止して、彼女のいっていることが理解できませんでした。しかし、正子ちゃんの涙をこらえている悲しそうな顔を見ていると、信じないわけにはいきませんでした。
「自殺でもしたんですか? なんでも失恋旅行だったとか」
ぼくは、やっとそれだけ言えました。
「ガンでした。一昨年の秋に倒れたときに検査したら、悪性のガンだと告知されたのです。かすみも自分の命が長くないことを知っていました。ときどき泣いていました」
ぼくはコーヒーを飲み、正子ちゃんはオレンジジュースをすすっていました。
絶えられない時間が進んでいきます。ぼくは彼女の前に、かすみから最後にもらった手紙をテーブルの上へ置きました。
「読んでいいですか」
「どうぞ!」
正子ちゃんは涙を流しながら、そのメッセージを読んでいました。
「かすみには、恋人なんかいませんでした。失恋旅行なんて嘘です。それどころか、一平さんが初めての男性だったんです。あとで私に告白してくれました。でも、伊豆に行っていたといっていたのも、幻覚だと思っていました」
正子ちゃんは、そこで言葉を止めました。ぼくは呆然として話を聞いていました。
「かすみと、その・・・・・・」
正子ちゃんは、そこで口ごもりました。
「初めてベッドをともにした夜か次の朝に、何かかすみの様子がおかしいと気づきませんでしたか?」
「そうか。“いたい!”っていった、あの言葉」
ぼくには、思い当たるところがありました。この喫茶部も学生が立て込んできました。
「散歩しながら、話をしましょうか?」
正子ちゃんの声で、ぼくたちは立ち上がりました。
K大学のキャンパスでは、芝生の上やベンチで、学生たちがたむろしていました。ぼくと正子ちゃんは、ゆっくりと散歩しました。
「なぜ、電話や住所を秘密にしたのかな?」
「それは・・・・・・」
正子ちゃんは、言葉に詰まりました。
ぼくが正子ちゃんにS女子大のボールペンのことを尋ねますと、それはかすみが高校時代の友達からもらったものだそうです。その友達がS女子大へ進学したのです。さもありなんです。
「伊豆への旅行を選んだのは?」
「もちろん『伊豆の踊子』のせいです。川端康成のファンだったしあの限りなく淡い恋心が、かすみの心の琴線に触れたんじゃないかしら?」
「そんなこと口にしていたな。そういえば。余り自分のことは話したがらなかったけど」
正子ちゃんは、頷いて聞いていました。
「でも、ぼくだけには電話番号や住所を教えてくれればよかったのに」
ぼくは、少し恨みがましく言いました。
「もし一平さんがかすみだったら、そんなことしますか? もうすぐ死ぬことがわかっているのに・・・・・・」
「たぶん、しないと思う」
「一平さんは、かすみに一目惚れしたんでしょう?」
「なぜ、そんなこと?」
「そんなに簡単に一平さんの心がわかるのかって言うんですか? だれが見ても一目でバレバレです。いまの一平さんの顔には、かすみに恋をしているってハッキリ書いてありますもの。だから、かすみもそれを感じたんだと思います」
「でも、本当のことを言ってくれたら、少しでも心を癒やしてあげることが・・・・・・」
ぼくは、再び言葉を重ねました。
「かすみに、そんなことが耐えられると思いますか? よけいに死ぬのが恐くなるだけです。もうすぐ、この世から消えてしまうんですよ。愛する人たちを残して」
正子ちゃんの目から、涙のしずくが零れ落ちました。
「それでも話してほしかった。ぼくはかすみにこの気持ちを伝えたかった。どんなに好きだったのかを」
「かすみは、伊豆で素敵な男性に遇ったことを教えてくれました。そして、“一目惚れだったの”と笑って告白してくれました。“もし許されるなら、つき合ってもらいたいのに”って。心残りだったのでしょう。また、ある時には、“きっと彼も悪い感情は持っていないはずヨ”って。冗談めかして色々喋ったりしていました。本気だったから、そんな風にしか表現できなかったんです。もちろん、その男性って一平さん、あなたのことです。あれから話題はあなたのことばかり。いつも、同じことをとても楽しそうに喋るんです。そんな子供っぽいかすみの笑顔を見ていると、いじらしくて。切なくて・・・・・・」
ぼくの目からも涙が溢れ出ました。ぼくと正子ちゃんは、木陰のベンチに座りました。
「かすみが一平さんを好きになったのも、よく理解できます」
「なにが?」
「やさしいし、話をしていて気持ちがいいし、誠実だし、なによりもいい人だもの」
「いい人か。その言葉、どこかで聞いたな。かすみが言ってたっけ」
ぼくは、伊豆の旅行のことを思い出しました。
「かすみの口ぐせです。『伊豆の踊子』に出て来るのは、みんないい人ばかりだって」
「でも、あんなに元気で明るかったのに。かすみが死んだことが、まだ信じられない」
ぼくは頭を抱えました。
「あの子は、悲しみや、辛さを自分の引き出しにしまって、けっして取り出さないんです。だから、初めて会う人はいつもかすみを、幸せな女性としか思わないんです」
「でも彼女はぼくの前でワンワン泣いたよ。ものすごく」
「それは、一平さんといつまでも一緒にいたかったからです。いまから思えば」
正子ちゃんは、やさしく言いました。
「ありがとう」
「私もかすみが大好きでしたわ。いまも忘れられません」
通り過ぎる学生たちは、暗く沈んでいるぼくと正子ちゃんを奇異の目で見て通りすぎます。
「これから、信じられないような話をします」
正子ちゃんは、ぼくの方へ顔を向けた。
「私も半信半疑だったんです。病気がみせた幻だったのではないかと・・・・・・。そのかすみの十字架を目にするまでは」
「それはどういうこと?」
「かすみの病室の向かいに、白髪のおばあさんが入院していたらしいんです。かすみがいうには、身寄りもなくガンだったそうです。いつからか、かすみと話をするようになって、ある日そのおばあさんから、いま一番したいことをきかれたそうです。かすみは、一人旅行をして素敵な恋をしたいと、正直に答えました。そう言っていました。すると、そのおばあさんがいうには、自分は魔法使いだからその願いを叶えてあげよう。でも、アタシも病気で力が弱っているから、今度の魔法で命を落とすかもしれないと言ったそうです。でも、かすみはおばあさんの命を奪ってまで自分の希望をかなえたくないと反対したそうです」
「やさしいんだ」
「一平さんが想像以上です。とても、かすみらしい話です」
正子ちゃんの瞳から涙が落ちました。
「おばあさんは、次の日亡くなりました。そして、一平さんの話にシンクロするのです。私はかすみの話を信じませんでした。元気に歩く力もなかったからです。かすみは、キリストのペンダントを一平さんにあげたといっていました。実際、部屋を探してもなかったし、あんなに大切にしていたのにあれ以来みたこともありません。一平さんと一緒に目の前に現われるまでは」
「魔法?」
ぼくは、旅館の女将さんなどの不思議な話をしました。
「かすみの話は本当だったんです。いま確信しました」
正子ちゃんは、ぼくの目を見ました。
「それじゃ、行きましょうか?」
正子ちゃんが、ベンチから立ち上がりました。
「どこへ?」
「どこへって。もちろんかすみに線香を上げにです。一平さんも一緒に来るでしょう?」
「一人で行く勇気がないな。だいいち家に上げてくれるかどうかさえわからないし」
「だから、私と一緒に行くんです。私はかすみの親友だから、いつでもフリーパスです」
かすみの実家は、烏丸通りに面した大きな呉服問屋でした。ぼくと、正子ちゃんが、店の中に入ると、正子を知っていると思われる番頭が頷いて奥へ入って行きました。
「まあ、正子ちゃん! また、来てくれはったの。いつも有りがとう。かすみも喜ぶわ」
この京都弁だ!
和服を奇麗に着た、落ちついた女性が現れ、声を掛けてくれました。かすみにどこか似ていました。初めて会うかすみの母親でした。菊江さんという名前です。
「あら、こちらは?」
「かすみさんの友達です」
ぼくは、お辞儀しました。
「それは、それは! よく来てくれましたね。それじゃ、かすみに焼香してやってください」
かすみ本人はキリスト教を信じていたかもしれませんが、正子ちゃんから聞いたところではこの由緒ある家は大きなお寺の有力な檀家だそうです。もちろん、仏教の・・・・・・。いかにも歴史がありそうなこの建物がそのことを物語っていた。
「もちろん、そうさせてください。そのために来たのですから」
「ありがとうございます」
かすみのお母さんは、目に涙を溜めて頭を下げました。
「さあ、さあ、こちらへ上がってください」
ぼくと正子ちゃんは、靴を脱いで板間の廊下に上がると、廊下を曲がり、仏壇がある部屋へ案内されました。黒縁で囲まれたかすみの写真が目に入り、かすみの死という現実を受け入れざるを得ませんでした。やさしい顔で美しく微笑んでいました。きれいでやさしい笑顔です。ぼくは、その写真を見て涙ぐみました。ぼくは、正子ちゃんの次に焼香し、線香に火をつけると三本線香を立て、手を合わせました。その時、初めて悲しみと共に、神にたいする怒りが芽生えるのを感じました、あんなにも敬虔で、信心深いかすみに、究極の試練を与えたのですから・・・・・・。お母さんは、席を外しました。
“はい”と、正子ちゃんが、一通の手紙を一平に差し出しました。宛名は、浜田一平さま、差し出し人は池田かすみ、とありました。
ぼくは、びっくりして、その手紙に目を遣りました。
「一平さんが、もし自分を捜し出して、会いに来てくれたら渡してほしいって。かすみは一平さんが来てくれるのを、本当は心待ちにしていたんです。住所や、電話番号なんかはあえて教えなかったけれど、心の中では見つけてくれることを望んでいたと思います」
「読んでいいかい?」
「一平さんへの手紙なんだから、遠慮なく、どうぞ!」
ぼくは、かすみの手紙を読みました。
『一平さん。
あなたがこの手紙を読む頃には、わたしはもうこの世にはいないでしょう。
寂しいというのが本当の気持ちです。
わたしはあなたと短い間しか会っていません。
しかし、わたしはあなたを好きになり、恋に落ちました。
こうしている今も恋しさが募ってきます。
思い返すと、いまでもあの夜のことも夢ではなかったのではないかと、わからなくなるときがあります。
でも、現実の出来事だったと信じています。
わたしは、一晩だけの男と体を重ねるような女ではありません。
それだけは信じてください。
あなたも、わたしと同じ気持ちだと思っています。
なぜなら、いまこうしてわたしの手紙を読んでくれているからです。
あなたは、わたしを、みごと捜し出してくれました。
ありがとうございます。
これは、恋する女のずうずうしさでしょうか?
あなたはきっとわたしを見つけてくれる。ずっとそう信じていました。
もっと、わたしが長く生きられたら。もっと、もっと、あなたを愛することができたら・・・・・・。
そう思うと、残念でなりません。
これからも、健康には十分気をつけて、わたしの分も長く生きてください。
そして、いい童話作家になって、子供たちを楽しませてあげてください。
わたしは、あなたの幸せをだれよりも祈っています。
あの伊豆への旅行は、とても楽しかった。ほんとうです。
わたしには、男性との楽しい思い出は、あの二日しかありません。
「命短カシ、恋セヨ乙女!」よ、ですね。
そして、恋は不可能なことを可能にする魔法です。
あの時ほど、この言葉を実感したことはありません。
本当にありがとう。
一平さん、本当にありがとうございました。
また来世で会いましょうね。
暫しの間、“さよなら”です。
一平さんへ
あなたのかすみより』
ぼくは、この手紙を読んで涙が止まらなくなりました。正子ちゃんも、しきりに鼻をすすり上げます。かすみのお母さんは、事情を察したのか、襖の前に佇んで、ぼくの様子を見て、涙を流していました。
「かすみの病室には、いつも白いゆり花が飾っていたんですよ。あの娘が強く望んだものですから。あの娘が、わがままを言ったのは初めてですわ。“小さい百合の花”のせいですね」
菊江さんが涙を流して言いました。
「お母さん! ご存知だったんですか」
「かすみは、いつもその花に話かけていました」
正子ちゃんの目からも涙があふれ出ます。
青年が、美しい花と短い時を物語です。まるで、ぼくとかすみのように・・・・・・。花の命は短く、儚い。だから、かすみは、あんなにも涙を流したのでしょう。
「いつまでも、一平さんと一緒にいたかったのね」
「かすみは、あなたを愛していました」
その日は、お母さんの強い希望で、池田家にお世話になり、夜遅くまで、かすみのことを語り合い、偲びました。いま、かすみのお父さんはアメリカの大使館にいるそうです。たぶんかすみも尊敬するお父さんと同じ外交官になるために、外国語を学んだんじゃないかと思います。なぜかすみがロシア語を選んだかわかりませんが、お母さんは、かすみのいろいろな思い出を語ってくれました。ぼくの中で、かすみが生き生きと蘇るのを感じました。かすみがぼくのすぐそばにいるのを再認識しました。ぼくは、正子ちゃんがいった言葉が印象的でした。
『かすみは、世界一、幸せ者で、世界一、不幸な娘です。自分の炎が燃えつきようとしている時、あなたという最愛の人に出会ったんですから』
池田家の菩提寺は、近くの山の上にありました。
教会ではありませんし、十字架もありません。
かすみの墓は、まだ新しく、きれいに掃除されていて、草一本、落ち葉ひとつありませんでした。新しい菊の花が添えられています。ぼくは菊江さんと一緒に、墓の前に立っています。ぼくの腕には、近くの花屋で買って来たピンクのかすみ草の花束が抱えられています。
※注一、かすみ草の花言葉・・・清らかな心。幸福。
“かすみに、初めて会った時に感じた儚さは散りゆく花の儚さだったのでしょうか?”
ぼくの心に、そんな情景がちらりと心を過りました。
「彼女は、花のような女性でした」
ぼくは、菊江さんに言いました。
「そうですか?」
「美しく、慎ましやかな白い百合のような花でした。でも、もっと華やかです」
「やはり、あなたは、やさしくて、ロマンチストなのね。かすみから、よく聞かされていました。そして、もう一度会いたいと泣いていました。かすみは私には何でも話してくれました」
菊江さんの頬に涙が伝わりました。
「でも、その頃は、もちろん外に出ることができなかったし、インターフェロンの副作用で髪の毛が全て抜け落ちていたの。私はあなたに来てもらうことを勧めたんです。でも醜い姿をあなたに見せられないって。私が何度説得しても、かすみの決心を覆られなかった」
「ぼくは会いたかった。たとえ、かすみさんが二目と見られないような姿になっていても」
「かすみは、あなたの心の中できれいなまま生きていたかったんじゃないかしら。そして、たぶんあなたの重荷になりたくなかったんだわ」
ぼくは何も言えませんでした。
「かすみは敬虔な、カトリックでした。カトリックは離婚が許されません。初めての夫と一生添いとげるのです。きっと、いまも天国からあなたを見守っているわ」
菊江さんは、涙を流しているぼくの左手を両手でそっと包みました。
「お母さん」
ぼくは、胸のかすみがしていた十字架のペンダントを外そうとしました。
「それは、かすみの形見です」
菊江さんは、ぼくの手を制しました。
「かすみもあなたといつも一緒にいたいと思います。負担でしょうけど。でも、もしあなたの前に素敵な女性が現れたら返してください」
ぼくは菊江さんの手を強く握りました。
「いいえ。一生肌身離さず持っています。ぼくも愛しています」
正子ちゃんが、少し離れたところから、やさしく見守っていました。
ぼくは、あれからずっと“死”というものについて考えています。もちろん、かすみの死が身近にあったからです。
かつて、精神科医だったキューブラー・ロスが書いた『死ぬ瞬間』はアメリカでベストセラーになりました。一九六九年のことで、いまから半世紀以上も前のことです。
それだけ、人間は誰でも、“死”というものについて関心があるのでしょう。
もっとも人間であるからには当然のことです。彼によりますと、人間は“死”を告知されてからは、否定→怒り→取引→憂鬱→受け入れという過程を通るそうです。すなわち“否定”とは、自分が死ぬことが信じられないこと。“怒り”は、なぜ自分が死ななければならないのか、なぜ神は私を救ってくれないのかということ。“取引”は、神に救いを求めたり、医療にすがったりすること。憂鬱”は、生きることを諦め、落ち込むこと。“受け入れ”は、文字どおり、死にゆく自分の運命を受け入れるということです。
果して、かすみも、キリストを信じられなくなったり、怒ったり、取引したり、落ち込んだりして、最後は受け入れたのでしょうか? すなわち、キリスト教に対する信心を強めたのでしょうか? わかりません。でも、かすみのことですから、最後まで真面目に精一杯生きたのだと信じています。そして、キリストのもとに帰っていったのでしょう。
ぼくは、人間の死というものを考えるとき、あのゴーガンの大作のテーマを思い浮かべます。あの、タヒチの原住民が画かれた有名な絵のことです。そのテーマは、” われわれはどこから来たのか? われわれは何者か? われわれはどこへ行くのか?”というものです。この絵は、右側の岩の上にこれから生きていく赤子が、真ん中には生気あふれる壮年の男女が、左には人生の終焉を迎える年おいいた老女がエガがれています。そして、この絵にもゴーガンが傾倒した浮世絵の影響も伺われます。本当に、人間は何者でしょうか? 生まれる前に何をしていたのでしょうか? そして、死んだらどこに行くのでしょうか? これは、人類の永遠の謎です。たぶん、人間はその答えを求めて、永遠の人生を旅しているのではないでしょうか?
ぼくの母が亡くなったのは、ぼくが高校二年生の時ですが、ぼくは長い時間、その出来事が信じられませんでした。第一発見者はぼくでした。母は浴槽の淵に腕をかけて眠るように死んでいたのです。まるで悪い夢をみているようでした。
最初ぼくは、母の死を受け入れられずに拒絶しました。いつも生前の母の姿が、ぼくの目蓋の裏に現れました。ぼくは限りなく母を愛していたのです。しかし、やがて諦めがぼくを支配して、受け入れるときが来ました。それはずっと後になってのことです。形は違いこそあれ、キューブラー・ロスのいう否定→怒り→取引→憂鬱→受け入れを体験したのです。これは、すべての人が。「死」というものを目前にして遭遇しなければならない道でしょう。人は友だちや肉親や自分の死に遇ってはじめて、人生の無常さ、悲哀さを知るのだと思います。若い頃は、死に神に遭ったことも、考えることも、余りないでしょうが・・・・・・。それは、ある意味では幸福なことなのです。
ぼくのかすみを想う気持ちは言葉になりません。
たとえ詩人が言葉を尽くしても、その詩は思いから美から遠ざかるばかりです。ただ「葦と萱のなかに殺られ横たわる騎士は美しい」というオスカー・ワイルドの詩の一篇が頭に浮かんで来るのみです。彼女とはもう会えないから、遠く離れてしまったから、より美しく感じられるのかもしれません。手に届かないものこそ、憧れるものですから・・・・・・。
いま、ぼくは伊豆の踊子歩道の入口にある「踊子と私」のブロンズ像の前に立っています。あの時と同じように・・・・・・。山桜の花びらが満開です。
「かすみ! もう一度一緒にこの道を歩こうよ」
ぼくは、心の中のかすみに声をかけ、かすみと一緒に立ち上がりました。
「さあ、出発しようか?」
ぼくの胸には、かすみがしていた十字架が光っています。
遠くでアヴェ・マリアの歌声が聞こえています。




