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午前5時。カーテンを閉め切っていても部屋の中はもう明るい。10分前に目覚めていた直子はベットの中から時計を見ていた。そしてアラームが鳴ると同時に時計を止めた。いつも時間前に自然と目が覚めてしまうのだけれど、スタートは目覚まし時計が鳴ってからとしている。休みの日も同じ時間に起きている。
カーテンを開けると明るい日差しが待っていましたとばかりに差し込んでくる。その光はスポットライトのように仏壇を照らした。そこには朝日に負けないくらいの眩しい笑顔の男の子の遺影が飾られてある。息子の剛だ。
「剛おはよう」
手を合わせる直子。一日の内で一番無心になれる時である。
キッチンへと向かう。お湯を沸かし、トーストを焼いている間に弁当を作る。いつも前日の晩ご飯の残りを詰めるだけの簡単な物。今日は肉じゃがだ。お湯が沸いたら、まずカップに一杯の紅茶を注ぎ、そのティパックをアメリカ系のコーヒーチェーン店のタンブラーに入れ、お湯を注ぎティパックを入れたままで蓋をする。
朝食を終えたら洗い物をして着替えと化粧を済ませ、もう一度仏壇へ向かう。
「剛、行ってきます。果たして今日の太一君は遅刻せずに来られますでしょうか」
もう一度手を合わせて、立ち上がる直子。
外に出るともう陽は高かった。花粉の飛散も終わり一番過ごしやすい季節。それでも早朝はまだ肌寒いが直子はティシャツ1枚。自転車置き場に行き鍵を外して颯爽と自転車を漕いだ。
店に着いて、自転車置き場に自転車を駐めて店内に入った。チャイムと共に「いらっしゃいませ」の言葉が店内に響いた。
「おはようございます」
レジの前にいた夜勤のバイト2人が笑顔で迎えてくた。
「おはようございます」
直子も笑顔で一礼。レジ前を通過してバックルームへと向かった。荷物を置いて制服に着替え、店内に戻った。
レジではバイトの昇と健人がレジ締めのために小銭を整理していた。直子が出勤打刻を済ませるとレジ締め作業に入った。
「太一は今日も遅刻ですね」
昇が話し掛けてきた。
「多分ね」
小銭の数を用紙に記入しながら直子が答えた。
「俺達が定時に帰れるのは直子さんのおかげです」
昇はしみじみ言った。
「そんなこと言って、退勤した後はいつもここでグダグダしているくせに」
「それは直子さんに迷惑をかけている太一を説教するためにです」
「ありがとう。でも太一君を悪い道に誘ったら許さないわよ」
「あいつを連れてナンパにいったら、すぐに合コンが出来ちゃいそうじゃないですか?」
「こら!」
「おお、恐っ」
たじろぐ昇。
「直子さんは太一には甘いっす」
もう一人のバイト健人が言った。
「そんなこと無いです。みんな平等」
「でも直子さん、俺らと太一の接し方が180度違いますよ」
昇も「そう」と相槌を打った。
「嘘?」
書いていたペンが止まった。直子は2人を見た。ニヤけ顔が心の内を読めなくしている。
――2人とも気付いていた?
直子は太一とは誰とも変わらぬように接していると思っていた。しかし他の人から見たらしっかり女を出して太一に対していたということだ。
――いい歳して、とか思われているのかしら?
気を揉む直子。
「目がハートマークですから」
「からかうんじゃあないの!」
直子は本心を悟られないように強めに言った。
「冗談、冗談ですって」
健人は悪役レスラーが攻撃を受けたときにするようなポーズで、後退りしながら言った。
「まあ、まあ」
昇が健人を守るように入ってきた。
「直子さんは違うかもしれないですけど……」
昇は直子の顔色を窺いながら「違う」を強調しながら言った。直子は当然という感じで頷いた。
「これは全ての女性達に言えることですから」
「ひがみだと思って下さい」
健人が付け足した。
――何だ。鎌を掛けていたのね。
本心では無いとわかり、ひとまず安心した。直子は「そうね」と優しい口調に戻して言った。
「あれだけ見た目も良くて、性格も良ければ誰だってファンになっちゃうって。無意識のうちに接し方も変わってくるよ」
「俺達だって…… なぁ」
昇が健人に同意を求めた。健人も大きく頷いた。
「どこが?」
「ほら、やっぱり俺達の扱い、雑でしょう」
健人が唇を尖らせて前のめりになって言った。その時に顔が接近して来た。
――確かに太一君のようにときめかない?
「太一君はそんな冗談は言わないから、突っ込む必要が無いの」
「俺達はずっと真面目な会話をしているんですけど」
直子は思わず吹き出した。
「笑うところでは無いです」
「ゴメンね」
健人は「ふん」とそっぽを向いた。
「まあ、これだけ年が離れていると恋愛対象になりにくいよね」
2人をいじってばかりいても可哀想と思い、直子は自虐ネタで話を締めようとした。
「そんなことは無いですよ」
昇が言った。
「直子さんはまだまだイケてますから」
思い掛けない言葉に直子は顔が熱くなった。しかし悟られたく無かったので、納得いかない感じを出して言った。
「何、その上から目線は?」
「いえ、決して……」
うろたえる昇。
「しかもまだまだってどういうこと?」
「失言でした。撤回します」
一礼する昇。
「もう!」
怒ったのはポーズ。内心はとても嬉しかった。それがまた顔に出ているのでは無いかと思い、2人の様子を窺った。2人は素直に反省してくれていて、大丈夫そうなので安堵した。
直子は金額の入力を終えた。
「ほら。ぴったりよ」
「ありがとうございます。じゃあ、お疲れ様でした」
「お疲れ」
昇と健人はバックルームに向かっていった。
2人の指摘はショックだった。どこまでが本心なのかはわからなかったが、やはり太一を知らず知らずのうちに特別扱いしているのだろう。自分の気付かない一面を他人に指摘されると気恥ずかしい。
「キャラじゃないなあ」
直子は独りごちて反省した。気分転換に外の掃除から始める事にした。
掃除が終わった頃太一が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう」
直子は努めて素っ気なく言うも逆にぎこちなくなってしまった。
バックルームから若者達3人の笑い声が聞こえた。直子にはあのような大笑いは見せない太一。そう思うと寂しい。
――もしかして…… これって嫉妬?
先程の昇と健人との会話が甦る。
「気を付けないと!」
直子は休憩を取るためにバックルームに入った。暗い部屋の中は防犯カメラのモニターが煌々と光っていた。デスクに持参した弁当を広げようとした時、太一の鞄が床に落ちているのに気が付いた。
「慌ててから」
独りごちて直子はその鞄を拾い上げた。すると中からノートが一冊落ちた。ごく普通の大学ノート、この店でも売っているものである。表紙には「TEPPENを取るためのノート」と書かれてあり、TEPPENの前に吹き出し入りで「絶対にビックになる」と付け足されていた。
わくわくしながらそのノートをデスクの上に置いてイスに座った。表紙をめくると1ページ目には「レジの打ち方」と書かれていた。直子の顔が支えていた手の平から滑り落ち、ずっこけてしまった。
「お前はコンビニで天辺を取るのか?」
直子は独りごちた。その次のページは「直子さんの名言」だった。
「レベルが低いなぁ」
読んでみると全く記憶にない言葉ばかりだった。
――でもこうやって抜き出してみると、結構格好いい事言っているわね。
そう自画自賛していると、次の言葉に恥ずかしさで顔が熱くなった。
「『家族を幸せにするのも成功』って、同じ事を話している。ショック……」
昨日何気なく話した話だと思っていたけれど、以前にも同じ話をしていたのだった。そして最後に昨日の分が2度目のランクインを果たしていた。太一自身も気付いていないのも問題だとも思ったが、それよりも恥ずかしさが上回り、逃げるようにページを捲った。
次はチャレンジリストという表が書かれていた。それは今まで太一が挑戦してきた職業や資格等が記されていた。
「えらい。ボランティアもやっていたんだ」
太一がボランティア活動もしていたことは初めて知った。若いのにすでにこんなにもチャレンジしているのかと思うほどの書き込みだった。
リストの中にビールのCMオーディションを見付けた。横に「勝ち」と書かれていたのを見て直子は吹き出してしまった。太一の記念すべき初勝利である。
その次のページは雑学だった。
「統一性ないな」
突っ込みどころ満載のノートだった。それにしても字が汚く誤字だらけ。直子は引き出しから赤いペンを取り出し添削し始めた。
「休憩終わりました。次どうぞ」
「はい」
レジの前のチューインガムや飴のコーナーの棚を掃除していた太一が笑顔を見せて、バックルームに向かった。その後ろ姿に思わず笑ってしまう直子。するとバックルームのスチール製の扉がまだ反動で動いて止まらないうちに、太一が飛び出してきた。
「直子さん!」
「はい」
直子は背筋を伸ばして返事した。太一は真っ赤な顔をしていたが、それが怒っているからなのか恥ずかしいからなのかは判別が出来なかった。どちらにしてもその表情はレアケースでとてもキュートだった。
「見たでしょう?」
「あのノート?」
太一は頷いた。
「ごめんね。面白かったよ」
「やめて下さいよ。人のものを勝手に漁るの」
「失礼ね。落ちていたから拾ってあげたのよ」
「もう」
太一は大きな溜め息とともに言った。そして踵を返してバックルームへと戻った。しかしまたすぐに飛び出してきた。今度はあのノートを持って。
「勝手に書き込まないで下さいよ」
「ごめんね。あまりにも間違いだらけだったから、思わずね」
太一の顔はさらに赤くなった。今度は恥ずかしさからだろう。
「そうだ。今度から私がそのノートに漢字の問題を出題してあげるよ」
「大きなお世話です!」
太一はバックルームに戻っていった。あのムキになるところを見ているとまだまだ子供だなと思えてかわいいと感じた。
おやつ時のコーヒーショップはほぼ席が埋まっていて、さらにカウンターでは注文待ちの客達が並んでいた。アメリカ系のコーヒーチェーン店。値段は高いのだがやはり味が美味しいのでいつもここにしている。人間一つくらいは贅沢しなければ心も折れてしまいかねない。直子は仕事が終わるといつもここでコーヒーを飲んで帰るのが日課。夕飯の支度までの時間を過ごしていた。
いつも混雑している時間に来店するのだけれど、毎日訪れていれば店員も顔を覚えてくれる。直子がカウンターへ行けばいつも「本日のコーヒーのSサイズ」がレジに表示されてある。タンブラーとプリペイドカードを一緒に差し出す。タンブラーは朝に紅茶を入れて持って出た物。プリペイドカードで買い物しているとポイントが貯まり、ドリンク無料券がもらえる。それで一番値段の高い飲み物を注文するのが直子のささやかな楽しみだった。時には期間限定商品だったり、時にはトッピングを充実させたりと、楽しみは尽きない。
席に着いてメールを見たり夕飯のおかずを考えたりして気ままに過ごすのがルーティンなのだけれども、今日はあのノートのおかげでとても楽しい。思い出し笑いが絶えない。
しかし太一のあのチャレンジ精神は素直に素晴らしいと感心した。自分も見習わなければと思った。
――自分の夢は何だったのだろう?
思い返してみる。絵を描くのが好きだった。けれども好きで止まっていた。
そういえばよく剛に絵を描いてあげた。そして息子も絵を描くのが好きだった。新幹線ばかり描いていた。だからそれだけはとても上手だった。だんだん細かいところまでこだわるようになってきて、夏休みに実家へ帰る時に新幹線を充分に見せてからでないと、乗車しないので家をかなり早く出たものだ。
直子はペーパーナプキンを取り、それに新幹線の絵を描いた。ペーパーナプキンは柔らかく動いてしまうので、左手でしっかり押さえた。その時気付いた。自分の手が太くなっていることを。マッサージのしすぎでこうなってしまったのだ。直子はコンビニで働く前はマッサージ師をしていた。
しばらく左手を眺める直子。そして自分の左手をスケッチし始めた。