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午前6時のコンビニエンスストア。朝日がダイレクトに差し込み、そのカクテル光線に満ち溢れた店内は1日のうちで1番の輝きになる。
直子はこの雰囲気が大好きだ。店員にしか実感できない嬉しい発見だった。この時だけはゆっくりとした時間の流れになる。これから店が賑わってくると夜中まで客足はずっと途絶えない。そう思うとなんて贅沢な時間なのだと直子は感じるのだった。
ドン
入り口で音がしたので目を向けると、ドアがゆっくりゆっくりと開いていた。そのドアの向こう側では幼稚園児位の男の子が両手に全体重を掛けて押していた。男の子は自分が通れるほどの隙間を作ると擦り抜けるようにして店内へ入ってきた。店内に響いたチャイムを号砲代わりに男の子は走り出しレジの前を通過した。
「いらっしゃいませ」
直子はマラソンランナーに声援を送るように言った。肩に掛けたエコバッグがタスキのように見えた。男の子は脇目も振らずに乳製品コーナーに行き、牛乳の1リットルパックを抱き抱えるように持ってレジに向かって走ってきた。男の子はカウンターにその牛乳パックとエコ袋を背伸びしながら置いた。
「いらっしゃいませ」
直子は牛乳パックを受け取りバーコードをスキャンして、エコ袋に入れた。
「198円になります」
なるべく彼の目線に近付けるために前屈みになって話し掛けた。男の子の右腕がカウンターの上に伸びてきて、その握られたマッシュルームのような手が開いた。そこから500円玉がゆっくりとカウンターの上に落ちた。
コッ、コッ、ココココ。
500円玉の弾む音が響いた。直子はその500円玉をキャッチした。
「500円お預かりします」
手の平の上に500円玉を乗せて男の子に見せた。牛乳パックの入ったエコ袋を彼に渡すとまた抱き抱えるようにして持った。レシートとお釣りを渡すと男の子はそれらをまとめてエコ袋の中に入れた。
「ありがと」
その言葉を聞いた直子は一瞬にしてフリーズしてしまった。目に映し出された情報は脳が処理出来ず静止画像になり、音も遮断された。
「あのー」
その言葉でようやく我に返った。客がいた事に初めて今気付いた。いつ入って来たのだろう、どれくらいの時間が過ぎたのだろう、それすらもわからない。
「申し訳ありません。いらっしゃいませ」
直子は深くお辞儀をしてレジを打ち始めた。
――またやってしまった
ブルーな気分になる直子。
直子には幼くして死に別れた息子がいた。名前は剛。先程の男の子の「ありがと」のイントネーションが剛とそっくりだった。男の子の仕草や言葉で剛の面影を思い出すと直子の心の奥底にある扉の鍵を開けてしまう。開けられた扉から出てきた闇が直子を包み込み、フリーズしてしまう。
現実に引き戻されると直子はその傷の深さを再認識させられ、またブルーになってしまう。
――いつまでこのような状態が続くの?
自問自答するも答えを獲ることは出来ない。
――剛を忘れる事なんて有り得ない。
しかしいつまでも停滞しているようで直子は悔しかった。
――私だって先に進みたい。
開放的で清々しいと思っていた空間が突如閉鎖的に感じてしまった。あの病室を思い出してしまう。一刻も早くここからエスケープしたかった。
直子は箒とちり取りを持って外へ出た。店の前を掃除し始めた。
作業に没頭し、体を動かすことで直子は少しずつ自分を取り戻していった。一通り店の外の掃除を終えた頃には気持ちは落ち着いてきていた。
空は雲一つ無い快晴。思いっ切り伸びをして体を解き放った。ウインドウ越しに店内の時計を見ると6時半だった。その時背後で自転車の急ブレーキの音がした。
振り返ると太一だった。
「おはようございます」
太一はそう言いながら、自転車を横倒しにして店内へと駆け込んだ。向かった先はレジカウンター。出勤の打刻をするためだ。それを終えるとまた外へ出て来て「セーフ」と両手を広げた。可愛い笑顔も添えて。笑うと八重歯が顔を出す。そして倒れた自転車を置き直して店内へ入って行った。
「何がセーフよ。遅刻のくせに」
直子は頬を膨らませた。太一のシフトは6時からで完全遅刻だ。彼が言った「セーフ」の意味は30分に間に合ったという意味だ。遅刻は30分単位なので1分でも過ぎると1時間分の減給となる。
「倍じゃん」
新しく自分のパートナーが決まった時の直子の第一声だった。太一はこの春からこのコンビニで働き始めた。初めて彼の年齢を聞いた時、直子は今までの人生で味わった事の無い脱力感に見舞われた。32才と16才。ドラマだと親子の設定も有り得る。なかなか受け入れざる状況であった。30才の誕生日を迎えた時もブルーになったがそれよりもショッキングな出来事だった。
直子が店内に戻ると太一がバックルームからユニホームに着替えながら出て来た。背も高く細身の体で可愛いルックスは何をやらしても様になるのである。そのままアイドルグループにいてもおかしくなかった。
太一はユニホームを着るとスマートフォンをチェックし始めた。
「こら仕事中」
直子は本気で注意はしていない。
「すいません。昨日疲れてメール見る間もなく寝てしまって、CMの結果発表が来るはずなのです」
「この間話してくれた、書類審査受かったってやつね」
太一はメールをチェックした。
「来てた」
「どれどれ」
直子もスマートフォンを覗き込んだ。かなり至近距離に太一の顔があった。そんなアップにも十分に耐えられるほど、彼の顔は整っていた。肌はみずみずしさで溢れていた。
吸い込まれるようにスマートフォンを見る太一。そして一つ大きなため息を吐いた。それでだいたいの察しが付いた。メールは表題から定型文的内容だった。普通合格していれば事前に主催者から直接アプローチがあるはず。まだまだ世間の荒波に船出したばかりの彼にはそこまで経験値を獲ていなかった。
「駄目でした」
元気の無い笑顔だったがいつものように八重歯は光った。
「そう、残念だったね。若いからチャンスはいくらでもあるって」
「はい」
「それで何のCMだったの?」
「ビールです」
「は?」
自分でもびっくりするくらい大きな声を出してしまった。太一はきょとんとしてこちらを見ている。
「未成年のあなたが書類審査をよく通過出来たものよ」
「そうですか?」
「そうよ、オーディションに出れたのは、ある意味受かった以上の価値があるって」
「本当ですか?」
直子は大きく頷いてから言った。
「だからあなたの勝ち」
「やった」
直子もどんな慰め方なのかと思ったがそれ以上に太一が元気を取り戻しているのでとりあえず良しとした。
「早く見つかれば良いね」
「ええ、世の中にこれだけ仕事があるのだから絶対あると思うのですよね。俺が天辺を取れる仕事が」
「天辺」は太一が好んで使う言葉。(後で太一の感性では「TEPPEN」と表す事がわかる)太一は今その「天辺」取れる仕事を模索中。オーデションだったり資格だったりライブを見に行ったりと有りと有らゆる所に足を運んでいる。直子に言わせてみればアイドルをやれば必ず天辺を獲れる思うのだけれども、そこにはまだ本人は辿り着いていない。
「そこは男子の考えなのかな……」
直子は自分の呟きに驚いた。全く自分の意志とは別に出てしまった。直子には珍しくネガティヴな言葉。太一も戸惑っている。別に言わなくても良い意見。若者が夢を語っているのだから見守ってやれば良いのに、やはり先程のフリーズをまだ引きずっていたのだろう。言ってしまったものはしょうがないので、直子は言葉を続けた。
「成功って仕事だけでは無いと思うの。例えば家族がずっと幸せに生きていく事が出来たらそれも成功だと思うの」
「家族……」
そう呟くと太一は何度も頷いた。直子の言葉を何度も咀嚼して理解するように。
「大人の意見なんですね」
太一は自分の意見が否定された時にこの言葉を使う。「それは受け入れられないけど、一応聞いておきます」といったニュアンスなのだろう。その言葉は直子にとってショックだったりする。太一との距離を感じてしまう。
「そうかもね、ほら、私の場合一度失敗しているから。そう思うのであって。太一君は若いのだからそう思って当たり前、むしろそう思わなくてはダメよ」
「そうですよね」
太一が笑顔になった。直子はほっとしたと同時に思った。
――歩み寄っているなあ
直子は太一に何を求めているのか自分でもわからなくなる。職場の同僚以上の関係を築きたいのか…… その時は果たして恋人なのか、友人なのか、姉としてなのか、はたまた親子なのか…… 自分でもわからない。
ただ若者とは無限の可能性を秘めているもの、それは無条件に応援してあげたいと思う。
「さあ」
直子は気持ちを切り換えるべく手を叩いた。
「遅刻した上に油売ってない。仕事仕事」
「はい」
「トイレ掃除にレッツゴー」
直子は太一の背中を押した。新聞コーナーを通った時太一が言った。
「おお、ボルケーノが噴火した」
「嘘、大変」
直子は少しオーバー気味に言った。
「といっても本物の火山では無いですよ」
太一が得意げな顔で言った。
「知ってる。プロレスラーでしょ」
今度は直子がしたり顔で言った。
「マジ!」
太一が立ち止まって振り返った。
「直子さんて何でも知っているんですね」
明らかに太一の眼差しが尊敬を表していた。
「当たり前でしょ。倍生きているのだから」
そんな太一の態度が嬉しくて舞い上がっておどけて見せた。しかしそのあとで胃の辺りから猛烈な自己嫌悪が込み上げて来た。どうやら心の奥では太一とは年齢の話をしたくないようだ。やはり女の部分が親子的な関係は望んでいないのだろう。
「直子さん!」
「何?」
「一生付いて行きます」
太一は頭を下げた。
「任せなさい」
胸を叩く直子。
「俺、今度プロレスの入門テストも受けようと思っているのです」
一瞬、直子はその美しい顔に傷を付けたらもったいないと思ったが、夢見る若者は無条件に応援してやらなくてはならない。
「だったらインディーズじゃなくメジャーにするんだよ」
「わかりました」
太一は敬礼のポーズをした。とても気持ちが良かった。