5.花に乞う
花が散ると、茎も葉もあっという間に枯れてしまった。まるで枯れて何日もたっているかのような茶色い残骸だけが鉢植えの土に張り付いている。もしかしたらと思って種を探したが、それらしきものは見つからなかった。
玄関の扉を閉める。甘い匂いが遮断され、だいぶ換気をしたのだが少し残っていたらしいことに気づく。やはり鼻が鈍っているらしい。あれだけ濃い匂いにさらされていたら当然か。もう帰るつもりはないので、鍵は開けたままにしておく。
コンビニの横にあった赤いポストに先ほど書いた葉書を投函する。とん、と指先で押すと赤いポストの口に葉書が飲み込まれた。こと、と底についた音を聞いてポストを離れる。
宛先の住所は適当だが、まあ届かなければそれでもいい。
司郎の選択を知ったら天嶺はどんな顔をするだろう。彼の忠告を無駄にしてしまったことは申し訳ないと思う。
思い浮かんだのは、への字に口を曲げた彼の困った顔だった。
懐中電灯で足元を照らしながら進む。日が暮れてからはかなり気温が下がっていた。もう少し温かい服装をして来ればよかった。だけどそれも、あと少しの辛抱だ。
行き止まりにある柵に足をかけて、向こう側に降りる。その奥へ、かすかな記憶と匂いをたどって足を踏み入れた。
夜の山はざわざわと蠢いている。ホウホウという鳥の声、枯葉の下を虫の這いまわる気配、何やら大きなものががさごそと草木を揺らす音。人工的な明かりといえば司郎の持っている懐中電灯一つきりだ。頼りない白い光を周囲にめぐらしながら歩いていく。
時折吹く生ぬるい風が花の匂いを司郎に届ける。そちらへ足を進めると、覚えのある場所に出る。無事目的の場所を見つけられたことに安堵の息をついた。
空には多少雲があるようだが、今日の月は明るかった。満月が過ぎたばかりの月がちょうど真上にあり、白い光を注いでいた。その中で一面に咲く赤い花は、どろりと濃密な甘さを振りまいている。
月の光を全身で受けるように、司郎は花畑の中に一歩踏み出した。赤い花はそれを歓迎するかのごとくざわざわと体を揺らす。重ささえ感じそうな濃い香りが空間に満ちていた。
花畑の中央で、ゆらりと空気が揺れる。司郎が瞬きすると、そこに一人の若い女が立っていた。肩紐だけのシンプルな赤いワンピースという寒そうな見た目だが、まったく気にしていないようだ。彼女はじっと司郎を見つめる。その顔立ちが少女に似ている、と司郎は思った。司郎が二人の違いを探す前に、若い女の顔が少女の顔に変わった。
月の光の中で少女は微笑む。もう悲しげな顔はしていなかった。黒い瞳はまっすぐに司郎を見据えている。少女はその細い腕を、司郎に向かってためらいなく差し伸べる。司郎が歩み寄ると、少女は赤い唇を歪めて笑った。
少女の唇はこんなに赤かっただろうか。司郎が疑問に思ったとき、月の光がほんの少し弱まった。少女の顔が大人びたものに変化する。
彼女はあの少女ではない。司郎を食べようとしている人食い花だった。司郎はそのことを思い出したが、逃げようという気はなかった。
彼女の影が司郎に覆いかぶさってくるのを、静かに受け入れる。触れる肌の感触は少女と同じようにひんやりと冷たかった。司郎が逃げられないように、彼女の腕が背中に強く回される。地面を這っていた葉がうねうねと動き出し、司郎の足を絡めとった。
「ねぇ、ちょうだい……」
蜜を溶かしたような甘ったるい声が耳をくすぐる。少女は口を利かなかったが、もし話をしたらこんな声をしていたのだろうか。彼女はぎゅうぎゅうと冷たい体を司郎に押し付けるが、それ以上は何もしてこない。あとは言葉で繰り返し何かを欲しがっているだけだ。
司郎は彼女の求めるものを悟って顔をあげた。雲がちょうど月に重なり、少女の影が薄くなる。引き留めようと手を伸ばし、柔い唇に自分のそれを重ね合わせた。
熱い。
彼女の唇から、指先から、触れ合っているすべての場所から熱を注がれているように体が熱くなる。司郎は冷たい空気を求めて身をよじり、はくはくと酸欠の金魚のように無様な呼吸を繰り返す。手足に緑の蔓が巻き付き、司郎の抵抗を奪った。全力疾走をした後のように心臓が暴れまわり、自分の鼓動が耳元で鳴る。頭に血が上ってぐらぐらと煮立てられている。世界が回っている。
平衡感覚を失った身体は後ろに倒れ込みそうになり、彼女に支えられた。全身がしびれ、指先一つ自分の意志では動かせなくなる。そんな司郎を見下ろして、彼女は好物を前にした子供のように満面の笑みを浮かべていた。
司郎はゆっくりと目を閉じ、彼女に身を任せた。
完結っぽい内容とサブタイトルですがあと少し続きます。