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花に恋う  作者: 日次立樹
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4.少女

 月が沈むと、花はしぼみ、少女の姿も消えた。

 どうやら彼女は月の光がないと化けることができないらしい、と司郎は考えた。アオイの時も、サツキも、月の光が弱まると少女の姿になったから。


 昨晩から開け放されたままの窓の近くで、花は日光にさらされている。心なしか昨日の昼間よりも元気がない。鉢から溢れた葉もぐったりと地面に向かって垂れている。このまま司郎が少女を拒み続けたなら、遠からず花は枯れるだろう。そうなればもう危険はなく、それは司郎の望むべきことだ。


 鼻が慣れたのか、あれほど濃く漂っていた甘い匂いも、意識しなければわからないほどに薄まっていた。


 明かりをつけないでいた室内が薄暗くなり始めるころ、司郎は窓際に立ち尽くしていた。

 もう、三度目だ。あと何度花は開くのだろうか。

 月の光がなければ、おそらく彼女は現れない。窓とカーテンをきっちり閉じて、花に袋でもかけて甘い香りをやり過ごせばいいだけだ。連休中なのだから、何ならこの花を置いてどこか旅行にでも行けばいい。そうわかっているのに、司郎はカーテンに手をかけたまま動けないでいた。

 いっそ曇り空なら諦めがついたかもしれない。あいにく天気予報では今夜は晴天だった。そして司郎がためらっている間にも花は開き、甘い匂いは司郎の恐怖心を麻痺させていくのだ。



 花びらをいっぱいに開いた花が、風もないのに揺れた。

 ふわりと空気が動き、誰もいなかった室内に影が現れる。カーテンを掴んでいたはずの司郎の手は自然と下りていた。

 長い黒髪を二つのおさげにした彼女がゆっくりと顔を上げる。初恋の少女の幻は一度司郎と視線を合わせ微笑むと、恥じらうように視線を落とす。清楚な白いブラウスにスカートという服装も、エリカの娘らしい華奢な印象を強調していた。俯いて三つ編みを弄ぶ指は司郎が握りこめば折れてしまいそうなほどに細く頼りない。その指先には、貝殻のような小さなピンク色の爪が並んでいた。彼女に恋をしていた時、休み時間にこの人形のような指が本のページをめくるのを寝たふりをして眺めたことがあった。


 エリカは三つ編みから手を離すと、ちらりと司郎をうかがいみる。そして控えめに白い腕を開き司郎を誘い込む。司郎は昨晩と同じように首を振り、エリカから離れる。


 司郎の態度に、彼女はそっと涙をこぼした。透明な雫はあとからあとから溢れ出てエリカの頬を濡らしていくのに、床に当たる寸前に宙に溶けて消える。エリカは幻でしかなかった。たとえいつまで待とうとも、司郎は少女に触れられないままなのだ。



 遮るもののない月光はくっきりとエリカの姿を映し出していた。しかし司郎は彼女の上にあの少女の姿を重ねて見た。今にも夜の空気に溶けてしまいそうな、儚い花の姿を。


 エリカとあの少女はよく似ていた。月の光を柔らかく反射して輪を作る黒髪。色白の肌。細く、すらりと伸びた形の良い手足。黒目がちの瞳。本当に、よく似ていた。だから、司郎は気づいてしまった。アオイ、サツキ、そしてエリカ。花が化けた女たちの誰よりも、司郎はあの少女に心惹かれているのだということに。


 ふと澄んだ水のような匂いを司郎は嗅ぎ取った。艶やかに誘う蜜のような香りに混じる、草木を撫でてきた風のような涼やかな香り。食らうために甘く微笑み誘いかけながらどこか純粋で汚しがたいあの少女に、よく似合うと思った。

 明日は満月だ。



 夜が来るのをこれほど待ち遠しく思ったことはない。司郎は花の前に陣取り、月が昇るのを待った。夜が迫るにつれ花は開いていき、また今夜も咲くだろうということに安堵する。

 今夜は花が誰に化けるのか、司郎には全く分からなかった。今の司郎の心の中で最も大きな位置を占めている女性はあの少女に他ならなかった。


 司郎は今夜自分は死ぬのだろうかと思う。司郎があの少女の糧になるならば、悪くないと思えてしまったから。もしかしたら司郎がこう考えるのも花に魅了され、操られているせいなのかもしれないが、そんなことはもうどうだっていい。

 司郎はただ、少女を待ち焦がれていた。


 月光に触れた白い花がふるりと身を震わせ、甘い香りを吐き出す。満開になった花は床の上に繊細な影を映した。そしてその影を塗りつぶすようにもう一つの影が重なる。

 そこにいたのはあの少女だった。今夜は誰にも化けなかったのか、それとも司郎が望む姿として少女が現れたのか。白いシンプルなワンピースをまとった少女は、深い悲しみを湛えた瞳で司郎を見つめた。今までの女たちのように笑いかけてくるものと思っていたので、司郎は戸惑う。

 二人の視線が絡み合い、夜の部屋には沈黙が落ちる。風がカーテンを揺らし、さやさやと布の擦れる音がした。


 先に動いたのは少女のほうだ。ふいと司郎からそらされた視線はある一点に向けられていた。司郎は視線を追って振り返る。

 少女は座卓の上に手を伸ばした。そこにあるのは、半分ほど水の入ったコップだ。しかし少女は花から離れられないのか、あと少しの距離でその手がコップに届くことはなかった。司郎がコップを持ち上げると、少女は期待するように司郎を見上げた。


 司郎の持つコップに少女が唇をつける。赤い唇の間からのぞいた白い歯がコップにぶつかり、かつりと小さな音を立てた。その振動が司郎の手に響く。司郎は幻影に過ぎないと思っていた少女に実体があることに驚いた。

 そのままゆっくりとコップを傾けてやるとこくり、と細い喉が動いた。よほど喉が渇いていたのだろう、少女はコップ一杯の水をすぐに飲みほしてしまった。思えば、彼女が現れるようになってから司郎は一度も花に水をやっていない。コップ一杯では足りないだろう。

 キッチンで水を汲んできて、もう一度少女に水を飲ませる。少女はこくこくと無心に水を飲んだ。その動作に合わせて、伏せられたまつげが震えるのを、司郎はじっと見ていた。

 飲み終えた少女の口からそっとコップを離す。少女は名残惜し気に視線でそれを追った。まだ足りないのか、ともう一度水を汲みに行こうとすると少女は首を振って司郎を制止した。


 コップを置いて、少女に向き合う。彼女は何も言わないが、じっと司郎を見つめていて、はじめの晩のように消える気配もない。なのに、司郎が近づこうとするとゆるゆると首を振って拒絶した。水に濡れた少女の唇は誘うように光るのに、固く引き結ばれたままだ。

 なぜ、彼女は司郎を誘わないのだろう。なぜ、今までのように笑ってくれないのか。


 司郎は少女に手を伸ばした。彼女は首を振ったが、それを無視して後頭部に手を伸ばす。少女は司郎を拒んで消えてしまうかと思ったが、癖のない真っすぐな彼女の髪に触れることができた。人ではないからか、ひんやりとした体温を掌に感じる。

 少女は祈るように静かに瞼をおろした。一筋の涙がその頬を滑り落ちていく。月明かりにきらめく涙の跡を美しいと思う。そっと抱き寄せて司郎の腕の中に収めても、少女はもう抵抗しなかった。



 ごう、と夜の空気が部屋の中をかき回し、甘い匂いを吹き飛ばしていった。風をはらんだカーテンが留められたままばたばたともがく。それはたった数秒のことで、しかし司郎の幸福を奪い去るには十分なものだった。



 司郎の腕の中から少女は消えていた。まだ月は空に居座っているというのに。ひんやりとした夜の空気に塗り替えられた部屋の中には、ほんのうっすらと甘い香りが残っているだけだ。そして床の上には幾枚もの白い花びらが散っていた。

 司郎は呆然としたままその花びらを数え、正確に数えることもできず。鉢に目をやると、花はほとんど散ってしまっていた。司郎は膝をつき、慎重にその花を両手でそっと包み込む。それは彼女と同じ体温だった。


 どうして自分は窓を開けたままにしていたのだろう。司郎は繰り返し自分を責めたが、取り返しのつくことではなかった。

 花が司郎の体温でぬるくなってしまっても、月が空から消えても、司郎はそのままでいた。


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