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花に恋う  作者: 日次立樹
3/7

3.開花

 同窓会の後は実家に泊まって、一人暮らしの部屋に帰ったのは次の日の午後だった。

 めったに実家に帰らないと両親には文句を言われたが、帰るたびにいい人はいないか結婚はまだか、どこそこの息子の誰はああだのこうだの、それに比べてお前はどうだの、散々にいわれたのでは帰る気もなくなる。自室は物置にされているし、あからさまに邪魔者扱いしてくる大学生の妹もうっとうしい。ひとりは気楽だ。同窓会前は血迷ったことを考えたような気もするが、当分結婚はしなくていいと思いなおした。


 玄関のドアを開けると、こもった空気が流れ出ていく。そこに混じった違和感に司郎は首をひねった。頭の隅が少し重たくなるような、甘さを前面に押し出した香りがうっすらと漂う。たしか以前付き合っていた彼女の部屋がこんな甘ったるい匂いをさせていた。だが、司郎は彼女のようにルームフレグランスなんて洒落たものを使った覚えはない。


 中へ入るとすぐに原因は分かった。窓際に放置されていた花の蕾が膨らんでいる。先のほうが少しだけ開いていて、そこから甘い香りが漏れているようだった。葉も成長したようで、百均で買ってきたプラスチックの鉢には収まらず窮屈そうにはみ出している。土が乾いていたので、ペットボトルに水を汲んで水やりをした。窓を開けて甘い匂いを追い出す。


 この花をどうするべきか、司郎はまだ決めていなかった。

 あれだけ言われるのだ、天嶺がこれを何か良くないものだと思っていることは間違いない。あの本が何だか知らないが、ほかのページに乗っていた絵を思い出すとこの花も気味が悪いのは確かだ。しかし天嶺の見せた本に載っていた植物とこの花が同一のものであるという確証もなかった。それに、天嶺の二つ目の忠告は花が咲いたら、というものだった。花が咲いてすぐに命にかかわるようなものでもないはずだ。

 すでに開きかけているのだ、咲くまで待っていても同じことだろう。心配なら図書館にでも行って何の花か調べてみればいい。

 そう決めて、司郎はいったん花のことを考えるのはやめにした。



 司郎が目を覚ました時にはすっかり日が暮れていた。少しだけ休むつもりでベッドに入ったまますっかり寝てしまっていたらしい。昨日の疲れが残っていたのだろう。


 部屋の中は薄い青色に沈んでいた。窓もカーテンも開けたままだったので、月の光が差し込んでいるのだ。司郎は立ち上がって窓を閉める。床に映る花の影がふるりと震えたように見えた。

 空気の動きがなくなったせいで急に花の香りが濃くなる。藍色の影を落とす蕾は半分ほど開いていた。夜に咲く花なのだろうか。花の色が白いせいか、薄青い部屋の中でそこだけがぼんやり光っているように見える。


 さっきまでぐっすり寝ていたせいで、今からもう一度眠れる気もしなかった。ベッドから降りた司郎は窓際にそっとしゃがみ込み、花を観察する。白い蕾は外側からゆるゆると開き、中央はまだあまり開いていない。満開になるには時間がかかりそうだ。花の種類以上に香りには詳しくなかったが、甘い香りの奥に凛とした青い香りがあった。昼間の匂いは甘ったるさしか感じずに苦手だと思ったが、昼と夜では香りが違うとは、面白い花だ。


 ふと花に影がかかる。カーテンが揺れたか。いや、窓はもう閉めたのだ、カーテンではない。不思議に思って司郎が顔を上げると、窓と花の間に人が立っていた。逆光になっている顔に目を凝らし驚く。


 丁寧に巻かれた茶髪に、くっきりした目鼻だち、赤い唇の脇にあるほくろ。そこにいたのは藤堂葵だった。いや、彼女がこんなところにいるはずはない。彼女が司郎のところへ訪ねる理由はないし、司郎の住所を知っているはずもない。そもそも、窓を閉めた部屋は密室だった。肩の露出した華やかな白いドレスをまとい、月光に透けているその人は明らかに普通の人間ではなかった。


 アオイは両手をまっすぐに司郎に差し出し、美しい笑みで司郎に誘いをかける。

 甘い、花の香り。

 頭にもやがかかったように夢と現実の境目が分からなくなる。

 司郎はアオイの手を取るため、ゆっくりと重い腕を持ち上げた。


 その時、じわりと夜が滲んだ。室内が深い青に包まれる。月が翳ったのだ。見つめていたアオイの輪郭がぶれ、わずかにあどけなさの残る少女の顔になる。

 はっとして司郎は腕を引いた。少女の顔が悲しげに曇るが、もう惑わされはしなかった。

「こういうことか」

 天嶺の二つ目の忠告。もし花が咲いても、絶対に応えないこと。

 司郎がもう手を伸ばさないと悟ったのか、しばらくして少女は黙って姿を消した。



 夜が明けるころには花はすっかりしぼんでいた。司郎は一晩ずっと起きていたが、少女が再び現れることはなかった。

 あれは一夜の幻だったのだ。窓を開ければ、室内に満ちていた匂いも薄れていく。しぼんでしまった花は燃えるゴミに出してしまえばいいだろうが、あいにく今日は祝日だった。次の燃えるゴミの日は連休明けになる。だからそれまでは置いておいてもかまわないだろう。


 天嶺の忠告は意味が分からなかったが結果的には役に立った。あのままアオイの手を取っていたら、司郎はどうなっていたことか。おそらく生きてはいなかっただろう。花に殺される、などと言われても司郎は信じないですぐに忘れてしまっただろうから、あえて天嶺は詳しく説明しなかったのかもしれない。


 とはいえ悪くない経験だった、と昨夜の光景を思い返す。月光の差し込む薄青い部屋の中で透ける少女の姿は幻想的だった。こうして命を拾ってみればもう一度くらい現れてくれないだろうかと思うのだから、現金なものだ。


 うなだれた白い花の花弁のすぼんだ先をかき分けると、花は司郎の指に吸い付くようにきゅっと縮まった。驚いて反射的に手を引く。そのせいで背後にあった座卓にしたたかに肘を打ち付けて呻く羽目になった。その痛みが引いてから、おそるおそる花を指先でつつく。今度は何の反応もなかったが、薄気味悪く感じた。燃やすよりも、元の場所に捨ててくるほうが早いかもしれない。



 この花を手に入れたのはある山の中だった。司郎の自宅からそう遠くもなく、遊歩道があり散歩にはうってつけ、という評価を知人に聞いて休日に行ってみたのだ。ところが人の話というのは往々にして当てにならないもので、ろくに整備もされていない遊歩道は足場が悪く、その上途中で行き止まりになっていた。


 遊歩道の終わりは腰のあたりまでの柵で区切られ、「行き止まり」の表示の色の抜けた看板が立っていた。そのまま引き返さずに先に無理に進んだのは、甘い香りが気になったからだったことを思い出す。その香りを追いかけてしばらく行くと開けた場所に出たのだ。

 森の中では、倒木のせいでこうした空間が出来るらしいと聞いたことがあった。その広場一面に赤い花が咲いていた。うねった葉は地面を覆いつくし、膝ほどの高さにある赤い花が風にざわりと波打つ。司郎はその花畑の隅に一つだけあった白い蕾の株を見つけた。仲間はずれにされたような花が哀れに思えて、司郎はそれを持ち帰ったのだ。



 今思えば、なぜそんなことをしたのだろうか。わざわざ柵を超えて甘い匂いの元をたどったことも、白い花を持ち帰ったことも、いつもの司郎ならば実行するどころか思いつきさえしないことだ。

 去り際に長い葉の何枚かが引き留めるように足に絡みついたことを思い出す。

 あの時は気に留めなかったが、あれが司郎を捕食しようとしての動きだったとしたら。そう考えて、司郎はぞっと背筋を震わせた。花の色が血を連想させるような赤さをしていたことも、いかにも不吉だった。


 もう一度あの場所へ行くのはやめたほうがいい。かといって、人の来ない場所というのがすぐに思い当たるわけでもなかった。アパートの狭いベランダで花を燃やすこともできない。

 連休が明けるまではこうして部屋の隅に置いておくほかないだろう。仕方がない、とため息をついたとき、花が震えた気がした。

 また、今夜――そう、期待しなかったといえば嘘になる。



 昨晩と同じようにカーテンと窓を開け、少女が現れるのを待つ。青の濃淡に染められた部屋にいると、司郎もまた夜の一部になって溶け出してしまいそうだ。

 室内ではただ一つ、花だけが凛とした白さで浮かび上がる。やはり夜に咲く花らしく、昼間閉じていたその蕾はゆっくりと開いていく。昨晩は半分ほどしか開かなかった蕾は大きく開き、その香りを部屋に満たした。それを想定して窓を開けていたというのに、息苦しくなるほどの濃い匂いだった。

 満月が近いのか、月の光が眩しいほどに降り注いでいた。その光を受けてゆらりと揺れた花の影のように、女は静かに姿を現す。


 今夜現れたのはアオイではなかった。彼女よりもっと司郎がよく知っている人物だ。その首に揺れているイルカのペンダントはいつか彼女にねだられて司郎が買ってやったものだった。

 サツキは見覚えのある白いエプロン姿でしゃがみ込み、司郎の顔を覗き込む。黒い瞳がいたずらっぽく光る。

 付き合っていたころ、司郎はサツキのこの上目遣いに弱かった。当時と同じしぐさで甘えるようにそっと差し出された傷一つない指先に、司郎は苦い感情を覚えてサツキと距離を取った。彼女の指がこんなにきれいなはずはないのだ。高校時代から彼女の手には包丁でついた傷があった。

 サツキは不思議そうに首を傾げてみせる。司郎が首を振ると、寂しげに俯いた。


 昨夜の幻は司郎が葵を知らなかったからこそ幻想的に見えたのだろう。サツキの幻は司郎の記憶の中の姿に似ていたが、現実の皐とはかけ離れすぎていた。たとえもし本物の皐がこうして誘いをかけてきても、今の司郎は応じなかっただろうが。

 司郎は手を伸ばしても届かないだけの距離を開けて、じっとサツキを見つめる。サツキは笑みのような表情を作って司郎を見つめ返す。


 おそらくこの花は、甘い香りで人を誘い込み、相手の知る人物に化けて誘惑し、罠に嵌めて食らう、そんな恐ろしい花なのだ。しかしその凶悪さなど微塵も感じさせず、花は笑んでいた。


 ときおり雲が月にかかるとサツキの姿は薄くなり、少女の姿が重なって見える。袖のない白いワンピース姿の彼女の見た目は、人間でいえば十代の終わりごろの年だろうか。かすかに子供らしさが残る頬に、すらりと長く伸びた手足。そしてこちらがはっとするほど大人びた、達観した表情をするのだ。


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