1.赤い花
夜の森は昼間とは違って、どこか神秘的で不穏なざわめきに満ちていた。
ホウホウという鳥の声、枯葉の下を這いまわる虫の気配、風か小動物か、がさごそと草木が揺れる音。星明りは木々に遮られ、頼りになるのは司郎の持っている懐中電灯一つきりだ。周囲に巡らせた白い光の中で、影絵のようだった森が一瞬だけ色を取り戻す。人工的な明かりが通り過ぎると、それらはまた夜の一部になって蠢く。
暗闇を抱いた木々の奥から、生ぬるい風に乗って甘い芳香が届く。生い茂る草木をかき分け、司郎は森の奥へと進んでいった。
木々が途切れ、丸く開けた場所へ出た。無事目的の場所を見つけられたことに安堵の息を吐く。月はちょうど真上にあり、一面に咲いた深紅の花を照らしていた。細く長い花弁が炎のように揺らめいて見える。
司郎が中に一歩踏み込むと、花達はざわりと一斉に体を揺らす。いっそう濃くなった花の匂いを身体の奥深くまで吸い込む。この香りを、司郎は求めていたのだ。
司郎が瞬きをする間に花畑の中央に一人の若い女が現れた。長い黒髪を風に遊ばせ、赤いシンプルなワンピースをまとった彼女は司郎をじっと見つめる。その顔は、司郎が求めた人によく似ていた。
満月を過ぎて少し欠けた月を背に、彼女は妖しく微笑む。こちらへ差し伸べられた両手に誘われ、司郎はおぼつかない足取りで歩み寄る。彼女は笑みを深め、司郎は紅を塗ったように真っ赤な唇の弧に視線を奪われる。甘い香りが司郎の思考を奪っていく。
ふと、彼女の纏う光の線が揺らいだ。司郎は誰かを思い出そうとしたが、月の光を遮るように彼女の影が覆いかぶさってくる。視界は闇に覆われ、顔の前面に柔らかく冷たい肉の感触が押し付けられる。すらりと細い彼女の腕が司郎の背中に回る。
「ねぇ、ちょうだい……」
蜜を溶かしたような甘ったるい声が耳をくすぐる。司郎は彼女の求めるものを悟って顔をあげた。雲がちょうど月に重なり、彼女の影が薄くなる。引き留めようと手を伸ばし、柔い唇を重ね合わせた。