1.5 夢の終わり
ナカメグローの呪師はなかなか興奮が冷めず、しばらく条件面での交渉ができなかった。
― それで、あなたは知りたいことはあるのかしら。八ヶ月も私として暮らすのでしょう?
― ううん、私はマリアンヌ様のファンだから、家族構成も誕生日も、桃のパンナコッタが大好きなことも、王子に対するお気持ちも、犬が苦手なことも知っているよ!後はできるだけ堂々としていられるように頑張るから。
呪師は怖い。裸にされている気分だわ。
― そう、あまり堂々と言うことではないと思うけれど、この場合に限っては都合がいいわ。一方で私は透視ができないから問題ね。とりあえずあなたの名前をもう一度お聞きしてもいいかしら。
― モモゾノ・マリだよ。マリが下の名前、えっとつまりモモゾノ家のマリね。
― ナカメグローでは名字を先に名乗るのね。興味深いわ。
― ナカメグロだけじゃないんだけど、きっとすぐに慣れると思うよ。それでね、親しい人には記憶喪失だと言って。私はヒキコモリだったし、チューガクを卒業して知り合いのいないコーコーに入学する直前だったの。家族とフィギュアスケート関係の数人を除けば私が記憶喪失になって困る人はあまりいないの。
― お待ちなさい、記憶喪失はともかく、ヒキコモリもチューガクもコーコーもわからないわ。文脈の説明を省かないで頂戴。
― えっと、コーコーは学園のことね。チューガクはその予備課程っていうのかな、でももう卒業したから縁がないと思うよ。ヒキコモリっていうのは、ええと、外に出ないで部屋にこもっている人のこと。
― なんてこと・・・
ナカメグローの呪師、マリ・モモゾノは幽閉されていたらしい。言い方からして軟禁のようなものだったのかもしれないけど。やはり大きな力の持ち主は怖がられるのね。私の国にこのクラスの呪師が現れたら、やはり幽閉されるように思う。
― それは気の毒なことだったわ。でも私に幽閉を引き継げというの?
― 幽閉?ううん、私が自分で怖がっていただけだから、むしろみんな私を外に出したがっていたの。
― そう、己の力が怖がって蟄居していたのね。心中察するに余りあるわ。
違う文明の出身者とはいえ、先程から私はこの異邦人に妙な親近感を覚えていた。
― ありがとう?それで、記憶喪失のフリはできそう?そうすれば困っても家の人が丁寧に教えてくれるから。
― 芝居はできるでしょうけど、周りから馬鹿にされそうで気がすすまないわ。
― うーん、気を使われるのはちょっときまずいかもしれないね。でも私のおどおどしたところを引き継ぐのは、もっと嫌でしょう?
最初は要領を得なかったマリ・モモゾノの返答は、次第に的確なものになっていた。この呪師は私のことをよく分かっている、そのことが少し怖くもあり、心強くもあった。
― 確かに、性格を一新できるのは面白そうね。それで行きましょう。その他に私が注意すべきことは?
― えっと、実は私の世界とマリアンヌ様の世界は、一見違うけれどいろいろな面で共通項が多いの。言語や文字がそう。マリアンヌ様の得意な楽器もほとんど同じなの、音楽の流行はかなり違うけど。でもデンキっていう・・・ええと、雷の力で明かりをつけたり、車を動かしたりできるの。だから見慣れないものがけっこうあると思う。あとは、歴史と地理だけはぜんぜん違うから、苦労するかもしれないけど、でも私よりマリアンヌ様の方が頭がいいから・・・
― 頭脳の差は先程から感じていたけど、学園の授業にあなたはついていけるのかしら。取り急ぎ、デンキは触ると危険なのね?
― 勉強がんばります・・・デンキは触らないほうがいいけど、触ってもしびれないように加工してあることが多いよ。
― がんばるだけじゃなくて、結果を残してほしいわ。
― うう・・・
そんなことを話している内に、だんだんマリ・モモゾノの声が遠くなっていく。
いい夢だったわ。
夢から覚めたら元のようにメイドが紅茶を持ってきて、またいつもの暮らしが始まるのだろうけど、もし夢の内容を覚えていたら、あの男爵令嬢が狙いそうな他の貴公子をリストアップするのも悪くないかもしれない。
私はいつもより安らかな気分で、うっすらと目を開けた。