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0 白衣のメイドと軍服の弟

目を開けると、私は見慣れない真っ白な部屋の中にいた。ベッドの天蓋から垂れる青磁色のカーテンをあけると、見事な一枚ガラスの大きな窓が目の前に広がる。


王国一豊かだった公爵家でも、こんなに透明で大きなガラス窓はなかった。


「本当に入れ替わったのね・・・」


夢だと思っていたけど、私マリアンヌは呪師モモゾノと入れ替わったようだった。これから8ヶ月の間、モモゾノは私の婚約破棄を回避するために王都で奮闘し、私はスケートで芸術表現とやらをしながら、この辺境の地ナカメグローで生きていくことになる。


部屋を見回すと、絵画や調度品がほとんどなく殺風景だった。それでも手入れは行き届いていて清潔感に溢れ、モモゾノ家の暮らしぶりの良さと文化水準の低さが同時に感じられた。大きな窓から自然光がはいっているのに、天井の濁りガラスで覆われた燭台には昼からロウソクが灯されているのか、鈍く光っている。ベッドの横にあるたくさんの凹凸のついたキャビネットみたいなものは、実用性が高そうには見えないから、調度品として置かれているんだと思う。


「不思議な材質で希少そうだけれど、センスを疑うわ・・・」


とりあえずナカメグローの文明度の高さについて、モモゾノは嘘をついていなかったようね。でもこの無駄遣いの多い殺風景な空間を見ると、モモゾノ家の教養は推して知るべしね・・・


「モモゾノさん、お具合はいかがですか。」


ドアが開いて、真っ白なマントを羽織り、修道女のようなキャップを被った黒髪黒眼の中年女性が私のところへ歩いてきた。モモゾノ家のメイドだと思うけど、名字呼びはナカメグローの慣習かしら。使用人が明らかに新品のリネンを着ているところから見て、やはりモモゾノ家の暮らしぶりは悪くないんだと思う。


「すこぶるいいわ。だけれど、私は記憶喪失になったようなの。その専門の医者を呼んでくださるかしら。診断がでたら一族の弁護士にも連絡をして。それと私に記憶がないことは、信頼できる人にしか知らせないで頂戴。」


私が矢継ぎ早に注文を出すと、メイドは明らかに困惑した顔をした。


「いえ、でも、ええ、話し方が全然違う・・・はい、ちょうど弟さんがいらしているので、確認をしてもらいますね。」


メイドはいそいそと出ていった。主人の娘が記憶喪失と知ったらそれは取り乱すだろうけど、でも記憶喪失の娘がいる現場をよく確認せずに投げ出すあたり、あまり有能な感じはしなかったわね。有能なメイドって結婚して退職してしまうことが多いから、長く働いてもらうのは難しいのよね。


「はああああ!?」


廊下で大きな男の声が上がった。モモゾノ家の使用人たちは品格が足りないわ。


がらがらとドアが開いて、黒に金ボタンの軍服を着た、茶髪の青年将校が入ってきた。軍服はとてもよい仕立ての上等なウールで、これを着た王子が少し見てみたくなった。勲章は右胸に小さいものが一つあるだけで、年齢からいっても入隊したての少尉か中尉ってところかしら。


「姉ちゃん、嘘だよな?記憶喪失なんて・・・」


青年は馴れ馴れしくベッド脇に駆け寄ってきたけど、どうやら呪師モモゾノの弟らしい。兄弟がいるなんて聞いていなかったけど。


よく見ると髪は茶色なのに眉毛は黒いのね、不思議だわ。


「残念ながら本当よ。弟がいたということさえ知らなかったわ。」


「そんな、姉ちゃん、俺がサッカー留学している間に・・・」


モモゾノの弟は涙目になった。サッカーというのは遠い国なのかしら。


「泣くのはおやめなさい、それでも軍人なの?あなたも呪師モモゾノ・マリの弟ならこれくらいの覚悟はあったでしょう?」


私が叱咤激励をしたつもりだったけど、モモゾノの弟はなぜかぽかんと間の抜けた顔になった。


「・・・姉ちゃんがチューニ病になった・・・」


ぽつんしたつぶやきが殺風景な部屋にこだまする。チューニ病?なんの病気かしら。


「何の病気か存じ上げないけれど、私は単純に記憶喪失なの。体に異常はないわ。」


「でも自分の名前をわかってんじゃん。」


目が点になっているモモゾノの弟がぼそりと言った。そういえば、さっき間接的に名乗ってしまった。


「でも覚えているのは名前くらいよ。それと、語尾に『ジャン』をつけるのにはどういう意味があるのかしら。ナカメグロー訛り?」


「ほら、今の家がどこにあるかだってわかってんじゃん。」


しまったわ。記憶喪失って思ったより制限が大きくて、うまくいかない。


「それは・・・国の名前くらいはわかっているわ。一般名詞よ。」


「国って・・・姉ちゃん、今回のことを考えれば気持ちはわかるけど、春からコーイチになるんだぞ。親父も母さんももう無理にスケートをしろなんて言わないから、しっかりして。」


コーイチ?とりあえず、周りはモモゾノがスケートをやめても構わないというスタンスなのね。自信をなくしたというスケートをやるために入れ替わったのに、まるで話が違うわ。


「いいえ、スケートはするわ。それが私の使命だから。スケートを考えるとたしかに記憶喪失は無理があるわ。こうなったら私の正体を明かすしかないようね。」


「正体って・・・俺チューサンだけど、姉がチューニ病になるのがこんな恥ずかしいなんて知らなかった。」


なぜか顔を赤くしたモモゾノの弟がうつむいている。


「さっきからチューチューうるさいわね。一体何を言っているのかしら。ともかく、私は公爵令嬢マリアンヌ。気骨のないモモゾノ・マリに代わって、スケートに復帰するのよ。」


「公爵令嬢って、まさか姉ちゃんのハマってたオトメゲームのやつ!?」


モモゾノの弟はハッとした顔をした。


「オトメゲーム?わけがわからないわ。それが公爵令嬢に対する態度かしら。」


「悪役令嬢のマリアンヌが意外と素敵とかどうこういってたじゃん。まさかキャラになりきるとは・・・」


確かにモモゾノ・マリは私のことを慕っているようだったけど、悪役とは失礼ね。


「悪役ですって?私マリアンヌは由緒正しき公爵家の嫡子として生まれた、正統なる・・・」


「わかった、わかった。とりあえず正常っぽいというか、正常じゃないけどまあ正常なのはわかった。それで、いつまでそれ続けんの?」


なんだか子供をあやすような態度をとられて、とても癇に障る。


「話を遮るとは失礼ね。モモゾノ家の教育が心配だわ。それって、入れ替わりのことかしら。向こう八ヶ月という契約よ。」


「八ヶ月・・・あ、東日本大会か!なるほどね・・・」


なにに納得したのか、モモゾノの弟は大きくうなずいた。さっきから百面相ね。


「大丈夫ですか?」


さっきのメイドがおずおずと様子を見に来たようだった。


「心配有りません。姉は混乱しているだけで、完璧に記憶があります。姉の挙動がおかしいのは理由があって・・・」


モモゾノは弟になめられていたようね。ひどい言いようだわ。


「まあ!使用人の前でなにを言っているの?私は公爵家の誇りにかけて、身分にそぐわない所作をとることなど断じてありません。記憶喪失だといっているでしょう。」


「公爵・・・!?」


メイドが驚いたのか唖然としている。高位貴族に会ったことがないのかしら。どうやらモモゾノ家は爵位がないみたいね。


「姉は、その・・・チューニ病になっちゃったんです・・・」


顔を赤くした弟が、尻すぼみな話し方でつぶやく。


「だからチューニ病とはなんなのですか!さっきから将校らしからぬ態度ばかりとって!その立派な軍服が泣きますよ。」


「姉ちゃん、せめて俺の前だけにして!お願いだから人前で将校とか公爵とか言わないで!」


そういえば、身分だけで名ばかりの尉官や左官になった貴族の少年たちが、ベテラン兵の前でたまに気まずそうにしていたわね。


「あなたの年齢と頭脳で将校になれたのは、お金かコネクションか知りませんけど、結果を出せば誰も噂などしなくなります。下士官のいる身なら誇りを持って堂々としなさい。」


「・・・モモゾノさん、後ほど脳の検査の方がありますので、そこで・・・」


「そんな!今の姉の検査をしないでください!恥ずかしくて死ぬ自信があります!!」


メイドも弟もこんなに礼儀のなってない家だなんて・・・いくら暮らしぶりが裕福だからって、先が思いやられるわ。


「まったく、何を恥ずかしいことがあるのですか。だいたい検査だなんて、私、宮殿に上がるときも持ち物検査が免除される身分でしたのよ?」


「やめて姉ちゃん。もうやめて。もうオトメゲームの世界に浸らないで。」


「・・・お気持ちはわかりますが、検査はルーティンですので・・・」


困惑したメイドを前に、モモゾノの弟はため息をはいた。


「本当はやりたくなかったけど・・・姉ちゃんの二次元のあこがれの王子は?」


「二次元?なんのことかしら?」


姉相手にやりたくないって、まさかモモゾノ家に伝わる尋問かなにかかしら。


「そっか。チューニ病だから・・・姉ちゃんが未来で結婚する、婚約者で第二王子の名前は?」


今の一瞬で姉の未来を透視したのね!


「ウィルフリード王子のこと?私が第二王子の婚約者だと知っているなんて・・・やはりモモゾノ家には呪師の血がながれているのね・・・」


能力者の弟がいるならさっさと教えてほしかったのに、モモゾノの説明不足が際立つわね。


「・・・ということなので、検査は免除していただけると、とっても、とーってもありがたいです。」


「はあ・・・カトー先生に相談してみます・・・」


メイドは首をかしげながら部屋を出ていった。どうやら第二王子の婚約者ということを理解してもらえたみたいで、脳の検査は免除してもらえるらしい。


「よくやったわ、モモゾノの弟。」


「そのまま検査されたら俺が恥ずかしいからね・・・ほんと、姉ちゃんの演技の徹底っぷりには度肝を抜かれたけど、でもよく考えるとさ、なりきるくらいでちょうどいいかもね。今回の事件はまったく姉ちゃんのせいじゃないけど、姉ちゃんの性格がああいう隙をつくっちゃったとも言えるし、もしスケートを続けるんなら・・・うん、俺は応援する。」


さっきからモモゾノの弟は表情と言動の移り変わりが激しい。


「本当に事態が飲み込めているのかしら。事件ってなんのこと?私は公爵令嬢で、モモゾノ・マリのことはほとんど知らないのよ?」


「うん、むしろかなり飲み込めてきた。事件を覚えたない設定ならそれでいいと思うよ。それに春から行くコーコーはドーチューの人がいないんだったよね。その設定でもなんとかなるかもしれないけど、その感じだと友達ができるかは怪しいな・・・でも少なくともストーカーは減りそうだし・・・」


この将校はさっきからぼそぼそと独り言のように話しているけど、コーコー?確か夢の中でモモゾノが解説していたかも。


「コーコーは学園のことかしら。」


「そうだね、オトメゲームでいうところの、学園だと思うよ。・・・わかったよ、おれも姉ちゃんのやってたオトメゲームしてみるから。そしたら用語とか分かると思うし・・・正直ちょっと面倒だけど・・・」


文脈から察するに、オトメゲームっていうのは私とモモゾノみたいなみたいな入れ替わりのことかしら。手順はまったくわからないけど、目的を考えると確かに結構難しそうな儀式よね。


「いいえ、そんな大変なことをしなくていいわ。それに曲がりなりにも事情をわかっているあなたが誰かと入れ替わってしまったら、私としても不便でしょう?」


「いや、さすがに俺まで入れ替わりは勘弁して・・・」


入れ替わり以外にどんな術が使えるのかはわからないけど、オトメゲームにはいくつかのバリエーションがあるようだった。


「別にいいですけれど、大体、あなたは呪師モモゾノ・マリが自ら幽閉生活を望んだときに、それを救わなかったのよね。今更協力を申し出たところで・・・」


私が言い切る前に、モモゾノの弟は辛そうにうつむいた。


「幽閉って、そりゃフトーコーになったってきいたときはびっくりしたけど、俺はフクシマにいたからメールしかできなかったし、親父が早いうちにカウンセラー呼んだから、週刊誌が騒いで逆に話が大きくなって・・・そっか、姉ちゃんあのときのこと・・・ごめん、俺辛いときに役に立てなくて・・・」


不凍港?フクシマって、ナカメグロとサッカーを繋ぐ港町かしら。郵船(―)便はたしかに届くまで時間がかかるから、モモゾノの軟禁のを知って反応するのに時間がかかったのかもしれない。


「わかったわ。こちらこそ事情もわかっていないのに詰問する形になってすまなかったわね。今の私は気にしていないから、謝るなら8ヶ月後のモモゾノにお願い。」


「うん・・・なんか俺、悪役令嬢バージョンの姉ちゃん、意外と好きかも。」


モモゾノの弟はすこしはにかむように笑った。笑うとそこそこ可愛いわね、威厳はないけど。


「だから悪役じゃないわ。公爵令嬢だといっているでしょう?まあ私は社交界の華だったし無理もないわね。でも道を踏み外してはならないわよ。あなたはモモゾノの血縁にあたるのだし、私はウィルフリード様のものになるのだから。」


モモゾノの弟は急に吹き出した。


「わかってるって!姉ちゃんの冗談で笑ったの初めてだ!ただ姉ちゃん顔が可愛い系だから、公爵令嬢になりきっていると威厳がないな。」


「私ってどんな顔をしているの?鏡をもってきて頂戴。」


とりあえず黒髪で私より声が高いのはわかっていたけど、顔がどんな感じかわからない。


「ほんと役になりきってるよね、家族でこんなこと言うのはあれだけど、姉ちゃん顔のレベルは高いから、その演技力ならたぶん女優になれると思うよ。母さんに話してみようか。鏡あったかな・・・あ、姉ちゃんのポシェットに入ってるかも。」


「だから悪役じゃないわ。公爵令嬢だといっているでしょう?それに公爵家の人間が芝居座になんて通えないわ。」


「はいはい、これ、鏡ね。」


モモゾノの弟は、キャビネットから取り出した見事な染色のピンクの革袋を開いて、象牙を用いた精巧な手鏡を取り出した。上等な品だと思う。鏡の裏には赤い服を着た熊の紋章が入っている。


「ありがとう。モモゾノ家の紋章は熊なのかしら。ちょっと変わっているわね。」


「プーサンだよ。紋章にしちゃ威厳がないだろ?」


鏡を覗くと、10歳くらいの幼い天真爛漫な少女がいた。綺麗とは呼べないけど、可愛らしい顔ではあると思う。愛くるしさがなんとなく子猫を連想する。ただ・・・


「ちょっとまって、モモゾノはいくつなの?」


「そういえば来月姉ちゃんの16歳の誕生日だね。俺こっちにいるし、公爵令嬢風スピーチ期待してるから。」


モモゾノの弟は軽く答えた。


16歳・・・私と同い年なのに・・・なのに・・・


「スピーチはいいけど・・・な、なに、この貧相な体。」


鏡を見るまで気づかなかったけど・・・


「胸が・・・ない・・・」


私の頭はクラクラし始めた。


「そういえばゲーム表紙の悪役令嬢ってかなり胸でかかったけど、でも姉ちゃんもうシーカップあると思うし自信もって・・・え、姉ちゃん?姉ちゃん!?」


シーカップって何?


とりあえず・・・


「・・・ゆるすまじ・・・モモゾノ・・・」


遠のいていくモモゾノの弟の声を背景に、夢の中の契約を結んだ昨晩のことを思い出しながら、私は気を失った。

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