湖にいたターボ
ケン一行はバランサーを目指していた。マナとリンリンを先頭に、元気のないロンロンを見守るべくケンとレイが最後尾を歩いていた。名無しの女性に婚約者がいたことがそれほどショックだったのか、ケンにはわからないが、そういった感情を持ち合わせたロンロンの正体は、何なのだろうと考えていた。
歩いているうちに、レイの様子がおかしいことに気づいた。やたらと首を振り、辺りを見回している。そうかと思えば、寒いのだろうか、両手で腕を擦る仕草を始めた。
「レイ、寒いのか?」
レイは頷いたまま頭を振り、頭の周りを飛ぶ虫でも探すような仕草を始めたが、ケンには何も見えない。
「何か飛んでいるのか?」
レイは頷くと、ポケットから「真実を写す池」の水が入った瓶を取り出した。幽霊屋敷で本物と偽物の姿を見分けるのに役立った瓶だ。レイは瓶越しに辺りを見回り、何かを見つけたようだった。
「どうして付いてきたの?館で待っているのではなかったの?」
レイは誰かと話しているようだった。一行は足を止め、静かに様子を伺うと、どこから屋小さな声が聞こえてきた。
「私も待っているだけではなく、お手伝いと自分の体を探そうと決めたの。彼もそれまで待っていてくれるというから、追いかけてきたのよ」
レイは瓶をケンの前に差し出した。瓶越しに写っていたのは、幽霊屋敷にいた名無しの女性だった。ケンはロンロンの前に瓶をかざすと、ロンロンは急に長い体を垂直にして、女性のいる方向を向いた。心なしか彼の目が光ったように見えた。
「では一緒に行きましょう。あなたの体が見つかれば、婚約者の彼も喜ぶに違いないわ」
マナが空気を読まずに言った言葉をロンロンがどう捉えたか、自分が気にしても仕方のないことなので放っておくしかなかった。
名無しの女性の声は、館の外ではとても聞こえづらく、姿も肉眼では見られないので、どこにいるのかわからないが、水面にぼんやりと写るときがあった。バランサーに写ったじいじのように、特定の場所では姿が写ることもあるので、彼女を探すには水面を見れば位ということになるが、そうでない時には独り言のように話しかけるしかなかった。
「仲間にいれてくれてありがとう」
風と共に聞こえた言葉は、気のせいかと思うほど小さかったが、確かにケンの耳に届いていた。
湖に近づくにつれ、道がぬかるんできた。徐々に水が靴を覆い、リンリンとロンロンは歩くというよりは、浅い水の中を泳いでいるようにも見える。マナは濡れた靴が不快に感じるようで、「靴が、靴が」と一人で怒っていた。
ふとリンリンとロンロンが一行の前に進み、ここからは自分たちが先頭を行く、といった仕草をして、進んでいった。確かにこの状態ではどこか穴や池があってもわからなくて危険だ。徐々に深くなる地面がそれを物語っていた。
少し先にひっくり返ったボートが見えてきた。バランサーから流れ着いたものであろう、一行はボートに乗り込んだ。透き通った水ではないので、名無しの女性の姿は完全に見えず、周囲は先が見えない水で覆いつくされており、先行きの暗さを表しているようだった。
ケンとレイが折れた木でボートを漕いだが、リンリンとロンロンが後ろから体当たりで押す力のほうが圧倒的に強く、それでも何もしないよりはと思い漕ぎ進むと、対岸が見えてきた。見覚えのある対岸には人が大勢いて、何かをやっている。きっとじいじを手伝っているのだろうと安心して近づいた先にいたのは、じいじとターボだった。
「ターボ!」
レイが大きく叫んで手を振った。ターボの後ろには村人らしき人々が一列に並んでこちらを見ている。多くの人の目がこちらを向いている緊張感から、ケンは目を反らしてターボを見た。ターボに浴びせた失礼な言葉が気になり、声をかけることはできなかったが、マナは久々に見た友人に笑顔で手を振っている。
やっと約束通り、じいじの手伝いができるという期待を胸にボートを近づけ、岸に降りようとしたとき、じいじが笑顔でマナに近づいて、思い切り抱き着いた。
「わしを心配して戻ってきてくれたのはわかるが、もう一つのお使いを忘れているようじゃな。ほれ、街の様子を見てくるように頼んでいたではないか」
何のことか全くわからないのはマナだけではなかった。ケンもレイもじいじの言う意味が分からない。
「どうしたの?街って?」
「君たちはすぐに忘れてしまうのだな、困った子たちだ、さあ早く行きなさい」
じいじは一行をボートに乗るよう促し、低めの小さな声で言った。
「いいから早く行きなさい。とにかくだ」
矢継ぎ早に言葉を発するじいじに、どう対応すればいいものかわからずにいると、ターボが笑顔で近寄ってきた。
「マナ、久しぶりだね」
こんな不思議な世界で出会ったにも関わらず、あたかも毎日学校で会っているかのような口調のターボに違和感を覚えながらも、できるだけ平静を装って言葉を返した。
「久しぶり、元気そうね。レイも久しぶりだけど、ケンには会ったのよね」
ケンを突き飛ばして紙を奪った話を聞いていたので、若干の皮肉も込もっていたが、ターボは全く気にする様子のなかった。
「ケンに?そうだったかな?」
ターボに突き飛ばされたせいで足を痛め、今も少し疼くというのに、謝らないどころか会ったことも忘れたかのような言い方に、ケンは苛立ちを隠せなかった。その様子を察知したマナはターボと距離を取り、一行をボートに戻らせた。ターボはその間、言葉を発することはなく、ただ3人の様子を観察するような目で見ていた。
「じゃあ、じいじ。行ってきます」
マナはこの場の雰囲気を和らげるような明るい声でじいじに声をかけ、ボートを進めるようケンとレイに指示をした。二人は意味の分からない行動に不満そうだったが、この場に残るほうが険悪になりそうだったので、頭を冷やす意味でも、距離を取ることに賛成だったのだ。
イライラする感情とは裏腹に、ボートは滑らかな水の上を進んでいった。街と言われても街のどの場所に行けばいいのかわからないが、今の目的はじいじとターボを分析することだった。
「今の何だったの?」
マナの大雑把な質問はいつもの事で、それを細かく因数分解するのがレイの役目だ。
「まずターボとじいじの様子を分けて考えよう。じいじはなぜか街へ行けと言ったのか。その理由がわかる人はいるかな?」
「わからないわ」
「わからない」
「本当に街に行ってほしいのか、それともこの場を離れてほしいのか」
「本当に街に行ってほしいのなら、その理由を教えてくれるはずよ」
「じいじは伝えたつもりになっているのかも」
「ターボはなぜあんな風に、何ていうか堂々としていたのかな」
「そうよね、ターボっていつもオドオドしていて、みんなにからかわれていたわよね。でも堂々っていうよりは、何というか機械的だったわ」
マナの言う「機械的」という表現はぴったりだった。少し前に湖で見たターボはどこかはにかんで、何かを発するにも遠慮がちな、以前のターボそのものだったが、さっき見た彼はどことなく大人びて、感情がなかった。少し見ない間に成長したとも言えなくはないが、それにしても「機械的」だ。
「それに後ろにいた人たちも奇妙だったわ。お互いに話もせずに、じっとこっちを見ているから、見張られている感じがして嫌な気分よ」
マナは手を水面にかざしながら言った。穏やかな水面は、ボートの足跡以外に水面を乱すものはなく、ケンたちは旅行にでも観光地に来ているような気分になった。街に向かうという表向きの理由があるため、気分も落ち着き、束の間の休息を得ていた時、ロンロンがケンの元へやってきた。やたらと体にまとわりつき、何かを伝えようとしている。
「何だよ、ロンロン」
ケンが尋ねるが、言葉が返ってくることはない。
「手鏡をもってくればよかったね」
レイが悔しそうに言った。鏡があれば会話ができるのだが、後悔しても遅かった。
「何を言っているのかしら」
マナもロンロンを見つめては何かを読み取ろうとしたが、うまくいかない。ロンロンは水面とすいすいと泳いで見せた。水に潜るわけでもなく、アメンボのように水面をすべるように泳いでいる。水面に何かあるのか。
「そうよ、あの人がいないのよ」
マナが言っているのは、付いてきていたはずの名無しの女性の事だった。ケンとレイは水面を注意深く見渡したが、濁った水に写るのは自分たちの顔だけだった。必ずしも名無しの女性が水面に写るという訳ではないが、一度自分の体に入ったことのあるレイですら、彼女の存在を確認できないということは、きっと近くにいないのだろう。
「何かを探しに行ったのではないかな」
レイがぽつりと言った。
「彼女が逸れるなんてことはないだろうから、きっと何かを見つけたのだよ。じいじとターボに気を取られていたから、気づかなかったね」
レイの言葉に納得したのか、ロンロンは再びボートを押し始めた。今までも存在を気にしたことはなかったが、改めていなくなったと気づいた途端、心配と寂しさが込み上げてくるのは、自分でも不思議な気分だった。
ふと向こうから、こちらに向かうボートが見えてきた。リンリンとロンロンはボートを止め、泳いで偵察に行き、残された3人は再び議論を始めた。
「私たちを逃がしたのではないかしら」
「逃がした?何のために?」
ケンの言葉にレイが続いた。
「ターボからだよ。そうでないと説明がつかない」
自分以外の二人が何かを悟り、それについていけない焦りから、ケンは乗り出して聞いた。
「ターボが危険な奴だっていうのか?それならじいじだって危ないじゃないか。俺たちはじいじを見捨てたってことになるよ」
3人は誰が次の言葉を言うか待っていた。
「助けに戻ろう」か「せっかくじいじが助けてくれたなら、城に行って助けを呼ぼう」のどちらかの言葉だ。どちらの言葉が適切なのか、誰にも分らなかった。ターボがなぜ危険なのか、大勢の村人は何者なのか。それがわからずに戻ったとしても、無駄ではないのか。少しの沈黙を破ったのはマナだった。
「リンリンたちが戻ってきたわ」
マナが急に立ったので、ボートがぐらりと揺れ、ケンとレイは慌ててバランスを保った。
「マナ、急に立つなよ」
緊張感のない普通の言葉を出せたことで、ケンの心のバランスは保たれた。心の重荷が取れたような軽い気持ちで、マナが指さす方向に見えたのは、ボートにのったリュウの姿だった。




