感情の部屋
ほら、壊れている。俺は出ようとしたが、ドアノブが壊れていれば仕方がない。俺のせいではない、ドアノブのせいだ。ポケットのユウは何を叫んでいるのだろう。
「ドアではない、お前のせいだ!ドアが開くまでやれ」
無理言うなよ、よく見てくれ。俺の手はドアノブを回している、でも開かないのだ。
「力を入れろ、力は感情からしか出てこない。全力で出ると決めるのだ。外に出れば友達に会えるぞ」
友達に会える?本当か?それならば一度くらいはやってみよう。一度くらいは。
リュウはありったけの力を出してドアノブを回すと、カチャリという手応えがあった。
「ドアを押せ、力を入れろ」
まだやれと言うのか、俺は十分頑張ったと思う。少し休ませてくれ。今まで一人で戦ってきたのだ、疲れたよ。
動きの止まったリュウにユウが叫び続けた。
「俺がいる、一緒に外へ出よう。あと一息だ」
押すだけ、押すだけだぞ。本当は俺も怖いんだよ。また知らないところへ行けというのか?この世界でやっと見つけた、俺専用の場所だぞ、なぜ邪魔をする?
リュウはなぜだか腹が立ってきた。何に怒っているのかはわからないが、この怒りをどこかにぶつけなければ気が済まない。ユウだ、こいつを思い切り投げつけてやろう、ユウはこんなにも俺を苦しめる。休みたいのに、なぜ邪魔をする?
リュウは怒りに任せて思い切りドアを押すと、ドアは開き、廊下が見えた。ユウはその瞬間にリュウのポケットから滑り、廊下へ転げ落ちた。ユウを拾おうとしたリュウは大きく一歩を踏み出し、ユウを掴んだとき、廊下へ出て扉が閉じた。
空にかかった霧が晴れたように、目の前の風景がクリアに写った。俺は今まで何をしていたのだ?と思いながら足元に目をやると、いつになく高く飛び跳ねているユウの姿があった。
「よかったな。無事に部屋を出られたぞ!」
「部屋を出ただけで、大袈裟だぞ」
「何を言う、あの部屋に長くいると、外に出られなくなっていたぞ」
「どう言う意味だ?」
「あの部屋はお前自身だ。自分では気づいていないかもしれない奥底の感情を写している。お前は強がって、勇敢なふりをしているが、本当は怖がっているはずだ。安心な場所で心を落ち着けたいはずだ。普段は押し殺しているその感情を、あの部屋は読み取る力がある。あの部屋にいると妙に安心したはずだ。そして次第にそこから出たくなくなり、出ようと思っても、心の綱引きでは負けてしまう。意志の力はお前の奥底の感情に比べれば、小さなものなのだよ。でも強力な意思はその感情に勝つこともできる。幸いなことに、俺が近くにいて手助けをしたから助かったのだ、感謝しろよ。俺はお前ではないから、部屋の影響も受けないし、何しろすでに体を覆われているから、意外と安全なのだよ」
「何だよ、それ。お前はずっとそのままでいいと思っているのか?」
「そんなことはない、早く本当の姿に戻りたいと思っている。でも不思議なもので、この姿にも慣れてきたから、以前の姿が別人みたいに感じる時もある。不思議なものだ」
リュウは隣の部屋に目をやり、ターボのお母さんを思い出した。だから彼女は頑ななまでに部屋を出ることを拒否したのか。しかしあのまま部屋を出なければ、彼女はどうなるのだろう。ユウに聞いても、素っ気ない返事だった。
「あのまま、ずるずると居続けることになりうだろうな。時間が経てば経つほど、出るのは難しくなる。しかも大抵は一人で部屋にいるから、よほどのことがない限り、自分で何かを決意することはない。俺のようにそばに誰かがいて、そいつと協力するか、そいつからの強力なメッセージを受け取らない限り、一人では難しいのだよ。自分の望むものを無意識に見るから、自分の思いが増長される。そうなると他人の意見に耳を傾けないものなのだよ。しかし一番の問題は、この建物だ。一体いつからこんなものがあったのだろう。岩山の中にあるから、外から見ても簡単には気がつかない。こんなところに入ってしまうと、二度と出られないぞ」
「じゃあターボのお母さんはどうしたらいいの?」
「俺たちでは無理だ。仮に無理やり部屋から出したとしても、またすぐに自分の足で戻るさ。厄介なのは、自分の状態に自分で気づいていないことなのだ」
ユウにしては静かな声で言った。自分の信じていることが、本当に自分の行きたい道につながっているのかは誰にもわからない。だかあのまま部屋にいてはターボに会えないことがわかっているにもかかわらず、立派な理由をつけて留まるターボのお母さんを哀れに思いつつ、自分もついさっきまで同じ思いに取り付かれ、必死に声をかけるユウを疎ましくすら感じていたことに、後悔というよりは恐ろしさを感じた。
もしユウの声掛けがなく、そして知り合いもいなく、ターボのお母さんの助言だけを信じていいたら、きっと同じ運命を辿るに違いない。
「それにしても、何も知らずにこの建物に入ったら、恐ろしいな。この建物のことを調べるついでに、何とかしてこれ以上、新しい人が入らないようにしなければならない」
ユウはそう呟き、ドアの隙間から部屋の中を覗くようにして呟いる間、リュウは彼女の他に誰がいるのかが気になったが、再び部屋の扉を開ける気にならないでいた。次に彼女に会うとき、どういった状況になっているのか、想像するだけでも怖かった。
リュウとユウは重い足取りで階段を上った。階段を登る間も、自分の見たくない感情と向き合うのが怖かった。強くて自分が一番と信じていたにもかかわらず、弱くて誰かに守ってほしい感情は驚く程、魅力的だったのだ。今でもあの部屋に留まっていたほうが良かったのではないかという気持ちがどこかにあるのだ。
不思議なもので、幼い頃に置き忘れてきた宝物がそこにあるような気がした。実際は何の価値もなく、人にも見せられない、自分だけの宝物。必要ではないが、捨ててしまうのも惜しい宝物に思えて仕方がなかったのだが、今はそれを取りに戻る時ではない事も十分に理解していたのである。




