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タクシー運転手

その日の夜、ケンは夢を見た。寝る前に部屋に犬が入ってきて言ったのだ。犬の首には蛇のようなものが巻き付いているので、今日出会った犬なのだろう。

「さあ、皆が待っているよ」

「待っているって、どこで?」

「さくら公園だよ」

 さくら公園とは皆と待ち合わせをしたり、話したりする、近所の小さな公園だ。そこへ急ぐように、ヨシは言った。隣で寝ているトモを起こさないように、ケンはそっと家を出た。こんな遅い時間に一人で家を出るなんて、初めてのことで少し興奮していた。通りを歩く人はおらず、ひっそりとしている。いつもこうなのか、この日だけそうなのかはわからないが、できるだけ人目につかないようにケンは背筋を少し曲げて、公園へと急いだのだ。


 さくら公園にはすでにレイとリュウ、そしてマナが来ていた。犬は尻尾を振りながら4人に言った。

「駅のロータリーのカーブした場所にミラーがある。そのミラーをよく見てごらん、緑色のタクシーが止まっている。運転手はよく寝ているから、何度も声をかけて起こしてほしい。そして『これで行けるところまで行って』とお願いして」

 犬は木の下に置いてある500円硬貨くらいの大きさのコインを鼻で指した。銀色のコインには塔のような建物が描かれ、その横に78.275と数字が記されている。ケンは硬貨を握り締め、4人は夜遅く街を歩くという、ちょっとした悪ふざけに心を躍らせながら駅へと向かった。


 駅の時計は9時半を指していた。ケンがベッドに入った時間だ。あれから時間が進んでいないというのは、駅か部屋かどちらかの時計がおかしいのだろうが、壮大な冒険を前にしてそんなことはどうでもよかった。何時だろうと寝る必要はないのだから。

 ロータリーは帰宅客を待つタクシーで溢れており、昼間とは違った賑やかさに4人は興奮していた。同じ場所なのに、風景が違う。そしてその場所にいる自分たちが、少し大人になったような気がしたのだ。

 ロータリーのカーブした場所に、犬が言った通りミラーがあった。しかしタクシーらしき車はない。4人は不安な気持ちでミラーを覗き込むと、確かに緑色の車が止まっている。ミラーのすぐ下に止まってあるタクシーは写っていない。写っているのは緑色のタクシーだけだが、そのタクシーもミラーの中にだけ存在して、手に触れることはできない。不思議な光景だが、ミラーに写っているのだから、と特に気にせずタクシーに向かって声をかけた。それほど彼らは興奮していたのだ。


「すみません、起きてください」

何度か声をかけたが、一向に車が動く気配はなかった。夜遅い時間に、駅前のロータリーで大声を出すという行為は、子供ながらに正しいものではないかと思うのと、鏡の中にしか見えない車に声をかけるというのは、どう考えても正しいものではないとわかっていたのだ。

 だんだん小さくなる声と、冒険心にとは対照的に、恥ずかしさと脱力感が大きくなり、公園に戻ろうとしたとき、地面から突き上げるような低い声が聞こえた。

「おーい、おーい」


 その声の主はここにいる4人の誰でもない、ということは瞬時に理解できたが、一体誰なのか。辺りを見回しても、それらしき人は見当たらない。道行く人々は、行先が決まっているのだろう、4人に目をくれることもなく、目的地に向かっている。

「帰ろうか」

 レイの掛け声とともに公園のほうへ足を向けた途端、その声はさらに大きくなった。

「おーい、おーい」

 4人は揃って振り返ったが、カーブミラーが風で揺れているだけで、誰もいない。我慢の限界にきたリュウはカーブミラーを通り過ぎ、近くの花壇へと走った。

「おい、誰だよ。隠れてないで出て来いよ!」

 3人はリュウの後ろから、誰かが出てくるのを見ていたが、やはり誰もいない。カーブミラーだけがさらに大きく揺れている。

「風が強くなってきたね」

 ケンは自分で言って気が付いた。風など吹いていない。ではなぜカーブミラーが揺れるのか。ケンは近寄ってミラーの柱部分に触れてみると、あの低い声が聞こえてきた。

「おーい、くすぐったいぞ」

 ケンは慌てて手を離したが、声は続いた。

「おーい、おーい」

 耳を澄ますと、柱の根元から聞こえてくる。ケンは恐る恐る聞いてみた。

「あの、どこにいるのですか?」

「ここだよー」

「僕たち、タクシーを探しに来たのです。あなたは誰ですか?」

「俺はタクシーの駐車場だよ」

「駐車場?」

「そうさ、君たちはお客さんかな?」

「ええ、多分」

「そうか、ちょっと待ってね」


 カーブミラーはそういうと、さらに体を左右に揺らし始めた。そこだけ見れば、台風か嵐が来ていると見間違うほどだが、風も雨も降ってはいない。揺れはだんだん大きくなり、折れてしまうのではないかと心配になり、4人が後ずさりした瞬間、ミラーの中から緑色のタクシーが出てきた。

 タクシーは滑り降りるように地面に着地し、何事もなかったかのように、別のタクシーの列に並んだ。4人は急いで近寄ってみると、運転手がシートを倒して、帽子を深くかぶっていた。犬が言った通り、寝ているようだったので、窓を叩いたが、一度では起きなかったので、二度目は強く叩くと、運転手は飛び起きて、窓を開けて言った。


「これは大変失礼しました。眠っていたわけではないのですよ。よりよりサービスを提供するにはどうしたらいいかを考えていただけで。考えに没頭していました、さあどうぞ」

 小太りの運転手は慌ててドアを開けた。人の良さそうな笑顔に安心した4人は、タクシーへと乗り込み、助手席に座ったケンはコインを出した。

「これで行けるところまで行ってください」

 運転手はコインを受け取り、裏表を確認すると、残念そうに言った。

「この金額では行けるところは一つしかありません。では行きます」

 そう言うと行き先も告げずに、車を走らせた。車は小学校の横を通り、普段は車の乗り入れを禁止している河川敷を下り、川沿いを走った。4人は見慣れた風景に安心し、いつもとは違うスピードで流れる景色を見ていた。


 前方に建物が見えてきた。たしか隣町の駅があるはずだ。しかし今日は少し様子が違う。駅の近くには四角くて平べったくて、そう高くない建物が並んでいるはずだが、先が三角に尖って、高い建物が何棟も見える。写真で見た外国のお城のようだ。

「どこへ向かっているのですか」

 ケンの問いかけに、運転手は申し訳なさそうに答えた。

「あのコインではネイチャー・キャッスルの裏口までしかいけないのですよ。あと0.025円あれば、表玄関まで行けるのですがね。サービスが悪いなんて思わないでくださいよ。距離には厳しいのです。代わりにいい景色をサービスしますから」


 運転手が笑顔に変わった瞬間、窓の外の景色が変わった。窓の外には魚が泳ぎ、フロントガラスの向こうにはアシカのような大きな生き物が見える。まるで海のなかにいるようだ。

「どうなっているの?」

 レイが窓を叩いた。

「お客さん、窓を叩いてはダメですよ。壊れてしまうではないですか」

「僕たちは水の中にいるの?」

「違いますよ、景色のオプションです。『理科』はお気に召しませんでしたか?では『社会』にしましょう」

 運転手はそう言うと、運転席近くのボタンを押した。すると今度は、草原に立つ黒人が見えてきた。伝統衣装を身に纏い、こちらを気にする様子もなく、集団で踊っている。教科書で見たことのある風景だ。

「マサイ族だ」

 レイがつぶやいた。いつも冷静なレイの目は輝き、じっと外を見ている。リュウは特に興味もなさそうだが、マナはマサイ族の女性の衣装を見ては、コメントしていた。

「『理科』とか『社会』があるということは、『国語』や『算数』もあるのですか?これはプロジェクション・マッピングですか?」

「プロジェク・・?難しい言葉はよくわかりませんね。でもお客様には景色を楽しんでいただけているようなら、こちらの映像は届いているということになります。お客様が意識したものしか、お届けできませんから。現にあちらのお客様には、楽しんでいただけてないようです。ということはあちらのお客様には、こちらの景色はみえていない、ということになります」

 運転手はそう言って、リュウをちらりと見た。


 リュウは窓の景色には興味なさそうに、天井をぼんやりと見ていた。運転手は続けた。

「私の車は品揃えがいいのが評判なのです。『理科』の中でも『物理』、『化学』、『地学』など、どんな分野でもあります。お客様のニーズに合わせて、セレクトするのが運転手としての義務ですから。お客様のニーズに合わせて運転するのは、高い技術がいるのですよ」

 確かに風景が変わる中で、目的地にたどり着くのは難しい。しかし、そもそも目的地を伝えていないから、どこに着こうと、正しいのか間違っているのかもわからないのだが。


 そうしているうちに映像のような景色は消え、車は山道を走っていた。かなり狭い道で、ガードレールもなく、下は崖なので窓の外を見るのが怖かった。もしかすると景色のサービスは、この景色を見せないためのカモフラージュだったのではないかと思い始めた。

 運転手はケンの不安をよそに、スピードをどんどん上げていった。横揺れが激しくなる中、ついに車は道を外し、宙を浮いた。全員は重力から解放され、支えのない体の重心をどこへ向ければいいのかわからないまま目を閉じ、来るべき衝撃を覚悟したが、体は安定している。


 恐る恐る目を開けると、車は宙を浮いて眼下の橋を目指していた。どことどこを繋いでいるかもわからないほどの長い橋は、欄干のない赤い橋だった。車はふわりと橋に着陸し、一息つく暇もないくらいのスピードで先に進んでいる。橋のすぐ下には湖だ。落ちればひとたまりもない。上下左右に揺れる体を制御するすべもなく、状況を理解することもできない。声を出しただけでも落ちてしまうと感じるほどのスピードと恐怖で、誰もが声を出すことができなかったが、運転手が微笑みながら運転しているのが唯一の希望だった。いや、そもそも運転手のせいでこんな状況になっているのだが。

 しばらく走った後、大きなコンクリート製のゲートの前で車は止まり、ドアが開いた。

「着きました。お帰りの際も、ぜひ私をご指名ください」

 運転手はそう言うと、一人一人に名刺を取り出し、ケンとマナには赤色、リュウには緑、レイには青色の名刺を渡した。

「グループの方にはそれぞれ違う色を渡す決まりになっているのですが、今日は繁盛したため、この色しか残っていなくて」

 

 受け取った名刺は半分のスペースが彼の写真だった。吹き出し付きで、「行きは無料だよ」と書かれていたが、電話番号や住所などの記載はなかった。これでどうやって利用しろというのかは不明だが、一応ポケットにしまっておいた。

「いつでも使えるように、普段から持ち歩いてくださいね」

 運転手はそう言うと扉を閉め、どこかへ行ってしまった。


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