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湖の氾濫

 ケンとマナは湖を目指していた。幽霊屋敷を案内してくれると思っていたビッキーにあっさり断られたのでじいじに屋敷の近くまで案内してもらうことにしたのだ。

「俺は行かないよ」

 ビッキーが表情一つ変えずに言ったときは、ケンもさすがに頭に来て殴りかかろうとするのを、マナに止められていたのだ。

「珍しいよね、ケンがあんなふうに怒るなんて」

「おかしそうに言うなよ。俺だって相当、腹たったのだから。だってさ、俺たちがこんなに友達のことを心配しているのに、自分には関係ないって顔をしている。そもそも俺たちだってここへ連れてこられて何も知らないのだから、道案内くらいしてくれてもいいのに。あいつは人と協力ってものを知らないのかな」

 チロを連れてはいるが、聞いているのがマナ一人という安心感も手伝って、ビッキーへの不満を遠慮なく口にしていた。ヨシもユウもいなくなって人が足りないのはわかるが、自分にとってはレイとリュウを探すことが最優先なのだ。

「いかにも研究者って感じの人だから、仕方ないよね。そういえば私、ヨシを見かけたわ」

「どこで?」

「アンとお城に戻る途中よ。バス停の近くの広場を眺めているようだったわ。その時は急いでいたから気にしなかったけど、今思うと、何だか広場の人を観察しているみたいだったわ。それ以来、見ていないのよね。どこへ行ったのかしら」

「それに『あの話』、本当なのかな」

 『あの話』とはミノとじいじがひとつの体に同居しているという話だ。これは絶対に守らなければならない秘密で、強く口止めをされている。そのため本来なら連絡用に使う、包み紙を持たせてくれなかったのだ。

 木の葉の包み紙は7種類の色があり、5枚一セットになっている。全てが同じ色の同じナンバー同士が会話できるものだが、その会話は『マスター』と呼ばれる人に聞こえる可能性があるというのだ。7色でできた本のような形をしており、紛失や故障に備えてどの色とも通信ができ、非常時に対応できるようになっているのだが、秘密が漏れる可能性があるため持たせてくれなかったのだ。その代わりにマナにもチロを一匹、つけてくれた。

「ケン、大きな声で言ってはダメよ」

「大丈夫、『あの話』としか言わないよ。それにそこまでして隠さなければならないのかな。会いたいなら、会わせてあげればいいのに。人を傷つけるって何なのだろうね」

「まだまだ私たちの知らないことがあるのかもしれないわね。それよりも幽霊屋敷に行って、大丈夫かしら」

「何だよ、怖くなったのか?」

「違うわよ。アンは『レイは無事』って太鼓判を押していたけれど、本当に無事なら、とっくに逃げているのではないかしら。もし幽霊屋敷にいたとしたら、無事ではないかもよ」

 マナの言うことはもっともだった。マナは時々、的確なことを言う。内心では怖がっているくせに、顔では冷静を装う。そのため学校では一匹狼風ではあるが、嫌われているわけでもない。そこがケンの数少ない女友達になれている要因だ。


 レイも冷静ではあるが、変なところでは非常識なことをする。本人が言うには、自分のやりたいことをやっているだけというが、傍目には十分に非常識だ。待ち合わせに来なかった理由が、天気が良くなったから公園に行ってしまった。数学の式が間違っていても、正しい答えを導いているのだから正解にするべきだ。財布を落としたのではない、寄付したのだ。どうでもいいことばかりだが、ケンが指摘すると、あっさり引き下がるところが憎めない。リュウは一番正直だ。嫌なことは嫌、思ったことはすぐ口にするのでトラブルを起こすが、一番わかりやすい。リュウはヒロの元へ行けたのだろうか。マナには連絡がついたのに、レイとリュウに繋がらなかったのは同じ色の紙を持っていなかったせいだと、後で知った。


 確かにケンとマナの紙は赤色で、確かリュウとレイの色は青と緑だったような気がする。どちらが青でどちらが緑かはわからないが、違う色だったことは間違いない。アンの説明では、キャンディーの包み紙の中に『マスター』は見つけられなかったということだ。ということは誰かが『マスター』を持っているのだろうか。ケンはこの疑問をマナにぶつけてみた。

「私も不思議に思っていたのよ。なぜケンにだけつながったのかね。ということは私たちの会話を誰かが聞いていた可能性もあるのよね」

「そうか、もしかするとターボは僕とマナの会話を聞いていて、これ以上会話をさせないために、僕の紙を奪ったのかな」

「ターボが?そしてケガまで負わせたというの?何のために?」

「わからないよ。というかわからないことだらけだ。なぜそこまでしてあの人を隠さなければならないのか。会いたいなら会わせてあげればいいのに」

「そうよね。もしかしてあの人がすごい人で、フジに見つかることで、何かすごいことが起きるとか」

「凄いことって?」

「わからないけれど、ネイチャー・キャッスルがひっくり返るようなこととか。私が図書館にいた時も、ずっと絵の中にいたなんて、気がつかなかったわ」

 二人は知らず知らずのうちに、ミノを『あの人』と呼んでいた。フジがミノを探しているということは、ここでは伝説のように語り継がれているが、住人はまさか本当の話だとは誰も思っていないのだ。


 眼下に湖が見えてきた。城や洞窟のある小高い丘を下り、城を守るように覆い尽くされた森を抜け、町や湖が一望できる場所までやってきたのだ。ここを下るとじいじのいる湖がある。

「ケン、湖ってあんなに大きかったかしら」

 マナが指差した先には大きな湖が見えたが、整然と並べられていたはずのボートは、不規則に浮いており、誰かが乗っている様子もなく漂っているように見える。湖からは湯気のように白い気体が浮かび上がり、その下では濁った水が行き場を求めて、地面を這いつくばっているようだ。

「やっぱり様子が変よ」

 マナの言葉に頷き、二人は急いで丘を下ったが、足が疼いてうまく走れない。痛みが収まったとは言え、走ると筋肉の奥から、うめき声のようにじわじわと痛みが湧き出てくる。マナは速度を落として、ケンに合わせた。この足でレイを助けることなどできるのだろうか。

「無理しないほうがいいわ」

 マナの心配はありがたいが、心の奥から焦りが出てくる。一瞬の差で届かなかったレイを思い出すと、今ここでの遅れが大きな遅れにつながるかもしれない。そう思うと、とにかく一秒でも早く湖に着きたかったが、デコボコの下り道は、普通の足でもバランスをとるのが難しい。左足を庇いながらでは、早く進むことはおろか、新たなケガを生む可能性もあった。これ以上ケガが増えては元も子もないと思いつつも、気持ちばかりが焦り、時々つまずく石にさえイライラしてくる。どうしてこうもうまくいかないのか。


 そんな思いを察してか、左手に巻きついていたチロが左足へと降りてきた。足首にぐるぐると巻き付き、足に圧迫する様はスポーツドクターにサポーターをしてもらっているかのようだ。足のケガが治ったわけではないが、随分と楽になった。痛みが落ち着いてくると気分にも余裕が出てきて、ケンは一定のスピードで歩くことができた。

「ありがとう、チロ」

 チロにそっと触れたが、彼は反応することもなく長い舌を進行方向に向かせたまま、前を向いていた。マナは自分のチロをペットのように腕に巻きつけ、微笑みながら走っていた。

 水際までたどり着いた時には、誰の目にも事の重大さは理解できていた。バランサーと呼ばれる綿状の雲は水の上に浮かんでおり、どんどん大きくなっていく。いや大きくなっていくと言うよりは、湖から逃げてくるように、湧き上がっていた。そしてバランサーがあった場所には水が湧き出し、巨大な湖と化していた。下から溢れ出る水はとどまることなくその勢力を伸ばし、平地にもどんどん流れこみ、辺りは水だらけだ。

 人々はボートに乗って、ひっくり返ったボートを戻す作業をしているが、流れたボートに追いつくだけでも大変な作業だ。この湖から水が湧き出て、町まで流れ出している。家の水道なら簡単に止めることができるが、この溢れ出る水を止めるには、一体どうすればいいのか。


「じいじが手を振っているわ」

 マナが指差す先には、ボートに乗ってこちらに向かって左右に大きく手を振る人物の姿が見えた。長い三角帽がうっすらとみえるので、じいじに違いない。今日はネックレスはしていないようだ。ボートはエンジンでもついているのかと思うほど、ものすごいスピードで二人の元へやってきた。

「二人共、よく来てくれた。大変なことになっている。水が溢れて町まで流れている。このままでは町が沈んでしまう」

 じいじの長い三角帽は、水で滲み、重くなっているようだ。不快なのか、時々帽子の位置を直すと、手に持った杖の先で水面をつつき、ボートに乗るよう手招きをした。二人は指示されるままに、ボートに乗り込むと、湖の中心までやってきた。

「バランサーが全部、宙に浮いてしまい、ここは本当の湖になってしまった。今まではバランサーの深さで、君たちの世界の感情のバランスを観察していたのだが、何かが起こり、バランサーが逃げてしまった。バランサーも感情の塊だから、奇妙な感覚を感じ取ったのだろう。この底から何かが湧きあってきているのだ。早く何とかしないと」

 湖面からは、湖の中までは見ることはできないが、透き通っていたはずの水は冷たく、緑がかっていて、覗いているうちに吸い込まれそうになる。奥から何かが湧き出ているようだが、それが何なのかはわかるはずもない。

「村人が潜って調べたが、底があまりにも深すぎて危険なため、中止した。今はチロが潜っている。君たちの世界はどうなっているのか心配だな」

 じいじは心配そうに呟いたが、二人を見る目は優しかった。シワだらけの手で二人の手を握り、無事でよかったとつぶやいていた。


 この大変の状況でもじいじの穏やかな表情を見ると、心が落ち着くのを感じた。じいじ中にミノが同居していても、いつも晴れやかな笑顔で過ごしていたのだろうか。それともミノがいるときは、また違った表情を見せたのだろうか。あの湖面に写った若い男性が、ミノだったのだろう。

 青い王様姿のミノは、真っ直ぐで不器用だけれど誠実な感じがした。生きていた頃はきっといいお父さんだったろう。友人にも恵まれていたに違いない。じいじとはどんな会話をしていたのだろう、ケンは『あの話』を聞いてみたくなった。その様子を察知したのかマナが遮るように、これからレイを探しに行くつもりだと話に割って入った。

「そうか、幽霊屋敷に行くのか」

 じいじは少し悲しそうな顔で、杖で湖をつついた。ケンは手伝えずに申し訳ない気持ちだったが、マナはお構いなしにじいじに質問していた。

「そもそも幽霊屋敷って何なのですか?」

「幽霊屋敷について、ワシが知っていることを教えてやろう」

 じいじは少し水位が上がったボートの真ん中に腰をかけ、話し始めた。ボートの周りは4匹のチロが3人を守るように巻きついて、ボートの揺れを抑えていた。


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