険しい王様の絵
ゆっくりと天井に飾られた絵に近づくと、その巨大さに目を見開くほどだった。子供4人の顔はケンの倍ほどもあり、金髪で巻き髪の男の子が二人、いたずらっぽい笑顔でこちらを見ている。そして茶髪の髪の長い女の子が恥ずかしそうな顔で、こちらを見つめている。そして絵の周辺を、メモリが何個も飛んで、辺りを照らしているのだ。
エリカは嬉しそうに絵を見ているが、ケンとマナはいつ落ちるのでは、と気が気ではなかった。何しろ彼らの命綱はエリカの手一つなのだ。
「エリカ、もういいだろ?そろそろ降りようよ」
ケンができるだけ優しく言うと、エリカはふとお腹を押さえていた手を離した。黄色のヘルメットは宙を舞い、しばらくして図書館の床にぶつる音がした。ヘルメットが落ちる時間の長さから、ケンとマナは自分たちがいかに高い場所にいるのかを感じ取り、改めて下に降りるようエリカに頼んだ。エリカはにっこりと笑い、急につかんでいたケンの手を離した。
「うわっ!」
宙に放り出されたケンとマナは、きっと自分たちはすごい勢いで落ちていくのだと覚悟したが、体はゆっくりと下降していった。まるでパラシュートでも背負っているかのような、優しく、無理のない下降だったので、二人は横並びになり、お互いの顔をじっくりと確認できるほどだった。
ケンはマナに怖がっているのを見られてくなくて、わざとらしい笑顔を作った。マナはケンの笑顔をちらりと見た後、図書館から二人を見上げるアンを見ていた。この状況をアンはどのように説明してくれるのか、この空間はいったい何なのかを聞かなければと考えながら、我ながら冷静だと一人呆れて笑っていた。そんなマナの笑顔の理由を知らないケンは、怖がっているのは自分だけだと感じ、勝手に自己嫌悪に陥っていた。
床に足が着くと僅かな衝撃が痛めた部分に伝わり、顔を顰めることになったが、自分の足で立っている実感と共に、安心感が湧いた。ゆったりとした着地ではあったが、空中では体のコントロールが効かないので、楽な反面、怖さもある。自分の足で歩くということは、ケガをするリスクや、面倒な時もあるが、他者や環境に左右されるよりは、比べ物にならないくらいの納得感がある。普段では気にもしないことに、改めて感動しているうちに、エリカも戻ってきた。エリカは戻ってきた後も、ずっと天井の絵を見つめている。
「エリカ、どうしたの?急に手を離したから、驚いたわ」
マナの問いかけにエリカは天井を見つめたまま答えた。
「お姉さんが行っちゃったから、バランスを崩したの」
「行っちゃった?あの声の主?」
「そうお姉ちゃん、あの人たちのところへ行ったの」
エリカは天井の絵を指さした。ヘルメットの中にいた、姿のない女性はが絵の中に入っていったというのだ。ケンとマナほその真意を正そうと考えていた時、遠くからアンの叫び声が聞こえた。
「早く何とかしないと!」
水かさがどんどん増え、ケンの太ももの辺りまで深くなっていた。アンは部屋の中央にある王様の絵の前で本を積み上げ、絵を水から守っているようだが、何の効果もなく、絵からは徐々に絵の具が流れているようだった。
絵の前に置いてあった小さなテーブルも、水の中で不安定にゆらゆらと浮いてあり、置いてあった花瓶もどこかに流されたようだ。
「この絵はとても大切な絵なの、手伝って」
ケンとマナは絵を動かそうとするが、ビクともしない。それもそのはず、絵は柱の凹みにぴったりとはまっており、額縁を触ることすらできないのだ。
「この絵はなぜ一体何故、こんな場所に?」
「わからないわ。ただこの絵は大昔からこの場所に飾られていて、とても大切にされてきたの。図書館が新しく作られても、なぜかここに飾られているのよ」
アンも不安げな顔で、なすすべもなく絵を見つめていたが、不意に絵から距離をとった。
「アン、どうしたの?」
「顔が、王様の顔が変わっているような気がする」
「水がついたせいで、滲んだだけではないの?」
ケンは立っていた椅子から降りて王様の絵を見たが、見慣れていないせいか、違いがわからない。絵は手に抱いている花束以外、青色を基調としていた。濃い薄いはあるが、なぜ全体が青色なのか、なぜ花束だけが色とりどりに描かれているかなど、ケンにわかるはずもなかった。
「やっぱり違うわ。穏やかな顔をされていたのよ、それが今では険しくなっている」
確かに絵に描かれた王様の表情は、どこか険しい。足の部分は水に濡れ、ふやけた感じがするが、顔には水がかかるはずもなく、また滲んだだけではこのような顔にならないことは、誰が見てもよくわかった。
「チロ、チロはどこへ行ったの?」
アンは辺りを見回したが、どこにも見当たらない。一体どこへいったのかと皆で探したが、濁った水で足元はよく見えないし、スムーズに動くこともできない。このまま水位が上がることを考えると、ぞっとする。チロは自分をここへ連れてきただけで、逃げたのではないだろうか、と嫌な考えが頭をよぎった。
「チロは何者なの?」
「チロは王様の忠実な下僕よ。代々バランサーに住む守り神の一族なの」
「じゃあ僕たちを見捨てるなんてことは?」
「絶対にない」
アンの返答を聞いて安心したが、状況が変わるわけではない。少し話している間にも、絵の王様の顔が、さらに険しくなっている。水に濡れて不快なのだろうか、など普段では考えもつかない事にケン自身も驚いていた。
何をすべきか、どこに行けばいいのか、そしてこの状況をどうすれば打開できるか、何一つわからない中で、脱力感が襲ってきた。チロを探すこともやるべき事の一つだろうが、彼を見つけたからといって事態がどうなるわけでもなく、ただ濡れた体と、痛めた足を不快に感じるしかなかった。きっとマナも同じ感覚に違いない。
ふとケンの目の前に、花瓶が流れてきた。どこからか流れてきたのだろうかと気にも留めずにいたが、やたらと体に当たる。少し距離を取っても、また当たるので不思議に思い、すくい上げてみると花瓶に巻き付いたチロがいた。
「チロ!お前何をやっている?」
ケンが叫ぶと、チロは花瓶から離れて体勢を整え、今度は花瓶の底に尻尾を巻きつけ、自由になった上半身をぐるぐる揺らして、ハンマー投げのような動きをした。勢いをつけたチロはスピードを上げ、体から花瓶を離した。花瓶は宙を舞い、花を抱えた王様の手の部分に当たった。
「危ない!」
ケンは飛んでくる破片を避けようと目を閉じて頭を覆ったが、花瓶が割れる音も聞こえなければ、破片が飛んだ様子もない。恐る恐る目を開けてみると、絵の前に立ったままのアンとチロの姿があった。驚いた顔のアンが声を出せずに見つめている先には、絵の中で体を動かし始めた王様の姿があった。
「危うく消されるところだったぞ」
低い声の持ち主は王様のようだ。絵の中から厳しい目でこちらを睨み、その威厳にケンもアンも固まってしまうくらいだ。
「お前たち、何をしている。早くこっちへ来い」
王様が絵の中で手招きをしているが、ケンには意味がわからなかった。こちらへ来いというのは、もしかすると絵の中へ入れということだろうか。次第に水位が上がるとは言え、絵の中へ入るなんて、非現実的だ。そもそもこの人はいったい誰なのだろうか?
「王様!本当に?」
アンは驚きと興奮が入り混じった表情で叫んだ。王様と呼ばれた人物は、少し微笑んで、手招きを続けている。
「この方はネイチャー・キャッスルの初代の王様よ。それは素晴らしい方で、たしか行方不明になられたと聞いているわ。でも大昔の話だから、生きているなんてことはないはずよ。でも生きてはいないのかしら、絵に描かれているから」
「説明している暇はない!このままだと共倒れだ」
王様はさらに近づくと、絵の中から体を乗り出して、アンの腕を掴んだ。驚いて立ちすくんでいると、そばにいたチロが飛び込むように絵の中へ入った。まるでプールに飛び込むかのようにするりと入り、こちらを見ている。王様の力は段々と強くなり、アンは次第に絵に近寄っていった。そして覚悟を決めたようだった。
「あなたたちも早く!」
その言葉に導かれるように、ケンたちも絵に向かって歩いた。目の前に額縁が見えたとき、ぶつかるのでは、と目を閉じたが、カーテンの向こう側に行くような感覚がしたと同時に、足元の水が消えた。




