ターボとの再会
ケンは森の中を走っていた。岩石で覆われたこの世界で、森は城と町を隔てた砦のようだった。バランサーを船で渡るのが町からの城への唯一のスムーズな移動手段なので、まずはバランサーを目指した。
走るに連れて、足元がぬかるんでくる。雨が降っているわけではないが、濡れた土が水分を含み、泥に変わってゆく。次第に泥は水に飲み込まれ、泥水となってケンの足元にまとわりついた。この水はどこから来ているのか。
水のために重くなった足元を懸命に動かせ、バランサーへと向かう。徐々に水位が上がるのを感じながら、雨でもないのに増え続ける水の正体を、不気味に感じていた。どこかに水脈があり、何かの拍子にそこが破裂でもしたら、そしてその水脈が自分の足元にあるのでは、と良からぬことを想像していた。
徐々に明かりが弱くなってきた。光が岩肌に反射してまぶしすぎるほどだったが、輝きを失ってきた。光が弱くなると足元の水が濁って見え、底がわからない。もしかしたら一歩先に小さな池でもあったら、と思うと一歩が鈍くなる。しかし止まっている方がもっと危険だ。この水がどこから来て、どのくらい続くのかわからないなら、とにかく早く目的地に着くか、誰かに出会いたい、そう思っていた。
森の出口が見えてきた。この先にあるバランサーを目指そうと、視線を先に向けると、あたり一面水浸しだったため、一体どこからがバランサーなのかがわからない。ケンの足は恐怖で止まった。自分が踏み出す次の一歩がどこへ向かうのかがわからなくなったのだ。溢れ出る水は、周囲の景色を一変させ、濁った水は濁流となって、低い場所へと流れてゆく。その流れの先を見つめながら、ケンは重大なことに気がついた。
水が低いところに流れるなら、マナのいる地下は危ないのではないか。急いで逃げろといっても、閉じ込められているのだ。早く助け出さなければならない!
ケンは船を探した。船があれば、水を恐れることもなく、先へ進める。それに何よりも速い。前に来た時には湖岸に停められた船が行儀よく並べられ、乗員を待っていた。その船が遠く先に流され、ひっくり返り、行く宛もなく、ただ水の流れに従って漂っている。
その一つを持ち上げようとしている人がいる。水に入り、船の端を持っているが、一人ではなんともし難いようだ。ケンが近づくにつれ、その人がじいじだということに気づいた。足元は冷たい水の感覚から、ふわふわとした柔らか感覚へと変わっていく。そうだ、ここはバランサーだ。リュウが落ちたとき体験した、あの感覚だ。
「おじいさん!」
ケンは体を安定させながら、じいじのもとへ急いだ。安定感は悪いが、沈むことはないことが分かっているので、アスレチックのような感覚だ。
「おお、ケン。大変なことになってしまった。バランサーから水が溢れている」
「どうしてこんなことに?」
「湖の奥底にある、良くない感情が浄化されずに、増幅してしまったのだ。そのために、本来なら沈むべきものが沈まなくなり、水が溢れてきている」
「城の地下にマナとアンが閉じ込められているのです。早くいかないと、水が地下に溜まってしまう」
「何だと?それは急いで向かわねば。ケン、これを使いなさい」
じいさんはひっくり返っていた船を、元の状態に戻した。一体このじいさんのどこにこんな力があったのかと思うほど、何のためらいもなく一気にひっくり返した。多少の水が残っているものの、船はケンの重力に耐えられるようだった。どこからきたのか、チロが船の端に巻きついて、こちらを見ている。
「チロ、お前はケンのお供をしなさい」
じいさんは鋭い目つきでチロに指示をすると、チロは軽く頷き、ケンの手に巻き付いた。今でもチロの感触になれないが、この状況では頼もしい同僚だ。
「おじいさんは一緒に行かないのですか」
「わしはここを何とかしなければならない。マナとアンのことはケン、お前に任せた。ワシに伝えたいことがあればチロを使うことじゃ」
じいじはケンの手を握ると、バランサーに潜っていった。じいさんの声は太く、手は力強く、以前とは別人のように感じられ、緊急事態の際には、人はこんなにも変わるものかと、不謹慎ながら感心した。
そうこうしているうちにも水嵩は増し、行き場を失った水は町へと流れている。高台からみた町の景色は、一変していた。岩石に覆われた町は、山も家も、岩石の硬さが遠目にも感じられたが、今となっては泥水が覆い、水面を揺らしている。水面は高台から不安そうに街を見下ろす人々を映し出していた。人々は成すすべもなく、町が水に飲まれていくのを見ていた。日干しレンガは、コーヒーに入れた砂糖のように崩れ、隙間から勢いよく出る水は、噴水のように勢いを増している。
この状況にじいじ一人を残してゆくのは非常に気がかりではあったが、かといってマナを後回しにする訳には行かない。そんなことをすれば、マナとアンは確実に水に飲み込まれてしまうだろう。じいじはここの住人だ、土地勘もあるし、知り合いもいるはずだ。城は高台にあるが、マナがいるのは地下だ。何が起こるか見当もつかない。ケンとチロは船に乗り、城へと向かった。
船のおかげで、移動はかなりスムーズになった。自分一人では、時間も体力もかなり浪費しただろう。一人ぼっちで暗闇に怯えていた時を思い出すと、協力者の存在をこの上なくありがたく感じていた。ケンは船の中で足を伸ばし、大きく深呼吸をした。
巨大な湖と化した森の奥から、船がこちらに向かってくるのが見えた。船のはケンが乗っているものと同じくらいの大きさだ。一体こんなところに誰が?遠目で見ていたケンよりも先に傍らにいたチロが何かに気づいたようで、水中へと潜り込んだ。頭だけを水面から出し、船へと向かっていく。ケンの船は動きを止め、チロを目で追った。
チロが先導して戻ってきた船に乗っていたのはヨシだった。大きく手を振りながら、こちらへ向かっている。知った顔に出会えたので、ケンは安堵した。こんなところで妙な奴と出会ったら、戦う術も時間もなかったからだ。アンを探しに行くと城に戻ったきりだったヨシは、緊迫した表情で先を急いでいるようだった。
「ケン!無事だったか」
「ヨシ、今までどこにいたんだ?」
「アンを探しに城へ戻ったのだけれど、どこにもいないから、探していたんだ。城から見下ろすと、町が水浸しになっているから、戻ってきたのだ。じいじはバランサーか?」
「ああ。アンとマナが地下の図書館に閉じ込められているから。僕はそっちへ行く。じいじが一人でバランサーの調査をしているから、手伝ってあげてくれ」
「もちろんだ、そのために来たんだ。他の人は?」
「レイとリュウとは逸れてしまった。でもマナとはこれで連絡が取れたんだ」
ケンはポケットから、赤色の包み紙を取り出して、ヨシに見せた。
「それは何?」
「僕にもよくわからないんだけど、携帯電話のような感じで、マナと会話ができたんだ。リュウとレイも持っているはずなんだけど、なぜかまだ繋がらない」
ケンは包み紙をヨシに渡した。包み紙からはマナがレイとリュウを呼ぶ声が聞こえている。ヨシはまじまじと紙を見つめたが、どのような仕組みでマナの声が聞こえるのかは、わからなかったようだ。
「君がこのカードを持っていないなら、どうやって連絡をとればいい?」
ケンはヨシから紙を受け取ると、出発する準備をしながら、たずねた。早く行かなければ、マナが危ないのだ。
「チロを使ってくれ。俺にも専用のチロがいる。こいつ達は、どんな時でも互いに連絡を取り合う術を持っている。でも告白や愚地で使うことはやめてくれ。何たって今は緊急事態だからな」
ヨシはニヤリと笑って、バランサーの方向へと進んでいった。笑えない冗談だったが、緊迫した状況にあって、ユーモアを忘れないヨシに、ケンの心は少しほぐれた気がした。
城のある高台までは比較的順調だったが、この時にはすでにマナとの連絡は取れなくなっていた。連絡が取れなくなったこと自体に落胆はないが、図書館の状況が刻一刻と変わっているのではないのかと思うと、気が気ではなかった。
城の麓でボートを降り、流れていかないようにボートを土の上へと移した。チロはタツノオトシゴのように体を垂直にして、下からつつくような感じでボートを押し上げた。ケンは水の中には入り、反対側から持ち上げながら、そんな簡単にボートが上がるのかを不安に思っていたが、意外にもチロは力持ちのようで、持ち上げはスムーズだった。この場所では流石にバランサーの中で感じた、ふわふわした感触は得られなかったが、足にまとわりつく感覚は、普通の水よりは柔らかく感じた。
城までは岩の坂道を登らなければならなかった。足元が岩であることがケンの足取りを想像以上に早くした。今までの水の抵抗が嘘のように軽く感じ、坂道も問題なく進んでいき、この先に城がある、あと少しと思ったとき、誰かが立っているのが見えた。
岩の間からうっすらと生えた、細長い木々と逆光のため、顔はよく見えないが、背格好はケンと同じくらいだ。華奢だが背は高く、下を向いている男の子だ。レイは少しぽっちゃりしているから違うが、リュウに似ている。ケンは興奮気味に足取りを早めた。
リュウか?こんなに簡単に出会えるものなのか?もし違っていたら?いや誰でもいい、きっと彼もこの水に困っているはずだ、僕のことを拒みはしないだろう、そんな思いを胸に少年に近づくと、顔を見て驚いた。
「ターボ!」
驚きのあまり、自分でも怖いくらいの大声が飛び出した。ヒロを探しながら、どこか亡霊のようについて回っていた存在のターボが、自分の目の前にいるのだ。いなくなったと聞いていたターボに出会ったのだ、クラスメイトらしく声をかけるべきだと頭の中では理解しつつも、この不思議な世界で、しかも水があふれるという異常事態の最中にあり、何と声をかけていいか分からなかった。
「ここで何をしているの?」
ケンは当たり障りのない、しかもごく当然の質問を投げかけた。
「ちょっとね」
答えにならない返答だったが、お互いに会話を交わしたという妙な安心感が漂った。意味のない会話だが、クラスメイトという存在が、不信感を拭い去ったのだろう。
しばらく見ないあいだに、ターボの印象は変わっていた。背が伸び、顔がほっそりとして、幾分大人びた印象だが、それ以上に険しい目つきが雰囲気を変えていた。彼の印象を変えるほどの体験があったのだろうか。
「もっと話をしたいのだけれど、俺はこの先の城へ急いているのだ。ほらマナを知っているだろう?あいつが城にいるから、一緒に行かないか?」
ケンはできるだけ軽いタッチで話した。ターボの少し影のある変化と、マナに危険が迫っているという危機をできるだけ感じたくなかったのかもしれない。
「いや、俺も行くところがあって」
ターボは小さな声で、うつむき加減で言った。久々の対面にしては素っ気ないな、とケンは感じた。もしもここでヒロに会えたなら、彼も同じ反応をするのだろうか。
「そうか、残念だ。ではどうやったら、また会えるかな?」
ケンの問いかけに、ターボはほんの少しの笑顔で答えた。
「紙を持っているだろ?お互いの声が聞こえる携帯電話のようなカードを」
「持っているよ。ターボも持っているなら、都合がいいね。用が終わったら、呼びかけてくれよ」
「ああ、そうしよう。ケン、念のためお前のカードを見せてくれないか?」
ターボの硬い笑顔を特に気にも留めず、ケンはポケットから紙を取り出し、ターボに渡した。そういえば、マナの呼び声はいつの間にか聞こえなくなっている。何かあったのだろうか、心配になってきた。城へ向かうために紙を返してもらおうとしたとき、ターボに思い切り突き飛ばされ、ケンは転倒した。
「ケン、すまない」
ターボは申し訳なさそうに頭を下げ、紙を持ったまま、城の方向へ走っていった。とっさの出来事の呆然としながらも立ち上がり、ターボの後ろ姿を見つめた。走れば追いつける距離だが、足を少し痛めたようで、追いつくことはできないと悟ったのだ。しかし、どのみち急がねばならない。城でマナが待っているのだ。




