古ぼけた館の住人
その屋敷は池から程近い場所にあった。遠くから見ても豪華なものとわかるレンガ造りの屋敷だった。
正面の大きなステンドグラスは、建物をさらに華やかにするのに一役買っている。塔もケーキのホイップクリームのように、外観の豪華さと実益を兼ね備えた装飾だ。真っ直ぐに並んだ窓は、この建物が格式高いものであることを強調し、タレットからは誰かが見張っているのではないかと思うほど、威嚇を感じる。
ただ屋敷一体は薄暗く、煙突からは煙が出ているようだが、煙と空の境目がわからない。屋敷の塔には多数の鳥が止まり、窓にはうっすらとついた灯りに人の影が見える。手入れがなされていないようで、壁は崩れ、窓ガラスにはヒビが入り、門は錆び付いている。遠目に屋敷を見たときには、どこか懐かしさを感じた二人だったが、近づくにつれ、不気味さが増してきた。しかしグランの手前、引き返すわけにも行かず、中へと入っていった。
「まあ様子を見に来ただけだから」
ケンは自分に言い聞かせるように、またグランに長居はしないことを暗に伝えるために、何度も繰り返した。グランは本来の子供の姿に戻っており、ケンとレイの間に入り、手をつないで歩き、ケンの言葉を気にする様子もなく、初めて友達を家に連れてきた時のようにはしゃいでいた。
ドアは錆び付いて形が変形したままで開いていた。閉まったまま開かなければ帰れるのに、と思いながら中へと入ると、どのくらい経ったらここまで荒れるのだろうかと思うほど、中は酷かった。建てられた当初はきっとかなり煌びやかな空間だったに違いない。だがその面影はなく、シャンデリアは崩れ落ちずに天井からぶら下がっているのが不思議なくらいだ。空気よりも多いのではないかと思うほどの埃、枯れ果てて朽ちることもできない花瓶の花々。床と同化したカーペットはもはや何色だったのかもわからない。エントランスにある噴水は、客人を迎えるはずが、虫の死骸で溢れている。くつろぐべきはずのソファからはスプリングが飛び出し、肘掛は朽ち、座ろうものならどんなケガをするかはわからないほどだ。飾られた絵画は、夫婦とみられる老人が、不気味な笑みを浮かべ、背景は何が描かれているかわからないほど劣化しているが、人物だけはなぜか表情まで見て取れる。それにしてもボザボザの白髪頭の老人がモデルの絵とは趣味が悪い。痩せこけた頬に大きな目で、精一杯の笑顔を浮かべている。立派な柱から塗装が剥がれる様は、うっすらと降る雪のようにも見えた。
唯一の安心材料は、暖炉に灯してある火だった。火は明るさと暖かさを提供してくれたので、見ているだけで心が温まった。普段は気にも留めない火というものが、こんなに安心感を与えてくれるとは思わなかった。そういえば学校の授業で、人は火を使うようになってから、格段に進歩したと教わったことがあるが、こんな朽ち果てた、時間感覚の狂いそうな場所で、火は自分たちに進化を約束してくれそうな存在だった。
火があるということは、やはりここには誰かがいるのだ。こんな荒れた場所でも違和感を持たずに留まれる存在というと、やはり幽霊なのだろうか。そう考えると、背中に冷たいものを感じた。
「奥に皆がいるの」
ケンの恐怖を打ち消すように、グランがあどけない声で言った。僕たちを誰かに紹介するつもりなのだろうかと考えると怖気づくので、グランに悟られないように答えた。
「まずはお屋敷の様子を見せてくれるかな」
苦笑いで頷きながらも、本心をレイに気づかれたのではないかと心配したが、彼の表情も硬い。科学で説明できない存在には、苦手のようだ。
「付いてきて」
グランはそういうと、正面の階段を駆け上がった。いや駆け上がったというよりは、エスカレーターに乗っているかのように、動きは滑らかだった。やはりグランも『意識』なのだな、と改めて感じさせられたのだ。
長い螺旋階段を登り、ホールが一望できる場所についた時には、二人は息が上がっていた。普段はエレベーターかエスカレーターでしか登らないような高さまでの距離を、グランに追いつこことばかりを考えているうちに、少し前に感じていた恐怖感は薄れていた。
ホールを覗いてみると、多くの人がいた。厳密に言えば『人の形をしたもの』だが、人と呼んだほうが、妙な感覚に襲われることがないのでは、と思ったのだ。
大きなダイニングテーブルでお茶を飲む人、ハンギングチェアで編み物をする人、歌の練習をする人、立った姿で窓に映るだけの人もいる。暖炉の前で寝そべっている猫もいれば、シャンデリアに止まっては、自由に部屋を飛び回る鳥もいる。皆に共通している点は、全体的に透けている、という点だ。
ケンはどこかにヒロに似た少年がいないかを一人一人、目を凝らして観察したが、それらしき姿は見当たらなかった。けれど久々に人の中から人を探すという、ごく当たり前の作業が出来たことに、少しばかり達成感を感じていた。
「ここには僕たちくらいの男の子はいないの?」
「いると思うから、探してみてよ」
「いや、探してみたけど、ここにはいないよ」
「だめだよ、姿に惑わされちゃ。大人や動物の姿をしているだけかもしれないよ」
ケンはグランがオタマジャクシだったことを思い出した。見た目で判断できないということは、何で判断したらいいのだろうか。
「僕だっていつもママのことを思っているのに、感じ取ってくれないの」
グランの言葉を聞きながら、何と答えたらいいのか分かなかったので、作り笑顔で頷きながら、一人一人をよく観察してみることにした。
お茶を飲んでいる二人の女の人は、一方が何かを語っているが、もう一方はそっぽを向き、聞いていない。突然、話をしていた方がカップを床に投げつけ、もう一方が慌てた様子で拾うと、不思議なことにカップは壊れていない。安心した表情でまた話し始め、またカップを投げる、を繰り返している。
またある女の人は、綺麗に着飾ったドレス姿で壇上に立っているが、見ている人は誰もいない。踊りやパフォーマンスをしているが、誰も見向きもしない。衣装ケースの中から服を取り出しては、これは違う、あれも違う、と延々に選んでいる男の人もいる。しばらく眺めていると、ついにケースの衣装を全てひっくり返し、どこかへ行ってしまった。窓の外を眺めている少女は窓に映った自分の顔を見て、驚いている。話しかけてみたり、遠くから見てみたりを繰り返している。ひたすら床掃除をする老人は、テーブルの周りばかりを掃除しては、ほかの人とぶつかり、謝っている。
様々な人が思い思いのことをしている様は、少々変わってはいるが、特別なものではなかった。彼らが正真正銘の人間であるならば。
「誰が誰だか全然わからないよ。ここにいる人が全員なの?」
「まだいるけど、あまり出てこないの。部屋にはいるかもしれないよ」
「部屋?」
「ここにはたくさんのお部屋があるから、もしかしたらそこにいるかもしれない」
グランの返事に二人はため息をついた。見てもわからない人を観察したところで、分かるわけがない。それが大勢いたところで、その中からヒロを探すなんて、不可能以外の何者でもない。これ以上、この不気味な屋敷にいる意味はないので、出ようと思ったとき、グランが言った。
「もっとよく見てよ。ホールに連れて行ってあげるから」
冗談じゃない、正体もわからないものに近づくなんて。一刻も早くこの場から離れたいとケンは思っていたのに、レイが意外な返答をした。
「いいよ、行ってみよう」
驚くケンを制するように目で合図をし、レイが歩き出した。何かを企んでいる目だ。何をするつもりだと文句を言いたかったが、我慢をしてホールへと向かった。




