1.名前、覚えます
窓に映る景色が徐々に白く塗られていく。
いつもより寒いと思ってはいたが、雪になるとは予想していなかった。深々と降り積もるそれは音さえも吸収しているようで、教壇から響く白墨の音がやけに大きく聞こえる。
「そこっ。何を呆としている。」
黒板に魔法理論の一つである高位元素の存在について書いていた教師が、いつの間にかこちらを見ていた。
「あぁ、すまないね。教養のない君には文字など読めなかったかな?」
教師は嘲るように問い掛けているが、きっと肯定すれば怒り否定すれば喚き出すのだろう。本来は関わり合いにならないようにするのが一番だが、今が授業中で相手は教師の場合はそうはいかない。
「文字も解らない者が、魔法という難解な技術を会得できるわけがないのだが…ふむ。もしかしたら、私の言葉も理解できていないのかね。いやいや、人間の言葉くらいは分かるはずだ。ねぇ、そうだろう、生徒諸君。」
「外国の人間だったら解らないんじゃないですか?」
などと茶化したい気持ちはゼロじゃないが、こういう場合は曖昧に苦笑いでもしておいた方が良いことは経験的に知っている。気位だけが無駄に高い人間だから、演技であろうと全面的に折れておけばあっさりと解放してくれる。案の定、教師は満足そうな笑みを浮かべて黒板に向き直った。
将来国政に携わる貴族に教える人間がこんな馬鹿ばっかりでこの国は大丈夫なのだろうか。魔術師と言えば国で最も尊敬される頭脳労働者だと聞くが、その魔術師であるはずの教師は目の前のハゲのような者が大半だし、その卵たる学院の生徒も似たようなものだと感じる。
平民が学院に通う利点は、国政に携わりたいとか貴族と繋がりを持ちたいとかいう理由がなければ、衣食住が確保されていることくらいだと思う。
貴族も使う寮の設備は至れり尽くせりで、食事も十分過ぎるほどに用意されている。衣服は季節毎に制服が支給されるので、冬に凍える心配もない。それどころか部屋の中は暖かい空気で満たされており、上着も要らないほどだ。
改めて考えてみると、平民が学院に通う利点としては、十分過ぎる。というか、子供にお金を掛け過ぎだと思います。もう少し善良な国民に回してください。
「ロキさん。授業を受けるからには真面目に受講して下さい。」
いつの間にかハゲの授業は終わっていたらしい。
声の主を見上げれば、仁王立ちのお嬢様がいた。
名前も覚えていないが、学院の生徒は皆、貴族か富豪の子息なので、「お嬢様」と呼べば事足りる。
紫紺の瞳は睨みつけていると言っても過言ではないほどに鋭い。
取り敢えず素直に謝って、さっさとこの場から立ち去ろう。
街へ出れば、既に人通りの少ない路地はうっすらと白くなっていた。例年より早い気がするが、この分だと明日にはしっかり積もっているだろう。
《月影の国》とも呼ばれるこの国は一年を五つの季節が廻る。花がほころび始める年始から三月を花の季節、その後一月を水の季節、三月を火の季節、そして風の季節と雪の季節だ。
雪の季節の到来を告げる雷雲が見え隠れしているこの時分に雪が積もるのは珍しい。普段であれば海の彼方より轟く雷鳴が聞こえなくなってからが降雪の時期なのだ。まだまだ雪対策をしていなかった露店が早々に店をたたみ、いつもより多くの馬車が大通りを走っている。おそらくは雪が積もるのを察して、家路を急いでいるのだろう。
「仕事は?」
そんな光景を横目に、いつも通り『何でも屋』と書かれた看板を掲げた店に入った。
『何でも屋』は文字通りの職業である。魔物退治に商隊の護衛、家畜の世話から家庭教師に猫探しなど仕事内容は多岐に亘る。国中から依頼を集め、『何でも屋』に所属する人間が好きに仕事を選択して解決を図るという仕組みになっている。言ってみれば、傭兵や短期の手伝い仕事の斡旋所だ。
「おう。薬草の採集なんかどうだ?雪もチラついてるみてぇだし、早めに終わらして欲しいんだよ。」
依頼には一応、納期というものが設定されている。『何でも屋』の支店にとって、納期切れの依頼があると本店による差定に影響するらしい。依頼を選択する側からすればあまり関係のない事なのだが、そこはやはり処世術とでもいうべきか。店との関係を円滑にと思えば、そういった案件から消化してやった方が良い。
受付で寛ぐ親仁から依頼書を受け取ると、そのまま踵を返して寒風吹きすさぶ中へと舞い戻った。
依頼書にあった薬草は街を取り囲む外壁から更に三十分ほど歩いた森に自生していた。何度も受けたことのある依頼だったので、既にどの辺りを探せば良いのかも熟知している。これならば夕刻の鐘が鳴る頃には戻って来られるだろう。
当初の予定通り、鐘の鳴る前には街に戻ることはできた。
街と言わず、余裕を持って店まで戻って来られた。
しかし、戻って来てからが問題だった。
「…ロキさん?」
見たことのある二対の紫紺の瞳が驚きを湛えてこちらを捉えていた。
多分、学院で物申してきたご令嬢だと思う。
黒い髪に少し白いものが混ざり始めた壮年の紳士と同じ色彩を持つ十五、六の少女は親子で相違ないだろう。名前は覚えていなかったが、貴族だったはずだ。《学院》に通う子女の大半は貴族かその血縁なので、確率的にもその可能性が高い。平民が貴族に対してするように、心持ち頭を下げて扉までの進路を開ける。少女の呟きはこの際無視だ。
「トレア。知り合いか?」
「はい、お父様。学院の同級生で、ロキさんです。」
どうぞ気にせずお帰り下さいと態度で示したが、そこは我が道を行く貴族様だ。こちらの思惑など関係なしに親子の会話が始まった。
「ほう。今の学院にはこんな子供まで入れるのかね?」
「ロキさんだけです。最年少で入学され、学院長の覚えも良いと聞いております。」
お陰様で教師、生徒問わず風当たりが厳しいですと心の中で呟くが、そんな声が届く訳もなく親子は仲良く会話を続ける。
「さぞかし優秀なのだろうな。」
「…そうですね。私も見習わなければと思います。」
「ふむ。面を上げよ。」
勝手口から入れば良かったと後悔していたところ、いきなり男の声音が変わった。今までより若干低い、重厚な声が響いた。
一瞬何を言われたのか分からなかったが、再度、鷹揚に許可を与える声に、面倒だと思う内心を隠して顔を上げる。
「我が名はダグラス=デル=アレース。君は?」
男の名乗りから、相手が侯爵であることが判った。この国の富裕層には家名がある。貴族の場合、名前と家名の間に階位を示す言葉が入るのだ。『デル』という名は侯爵を表す。
貴族が先に名のるなど珍しい。店の親仁の無言の懇願もあって、ただ一歩下がって更に頭を下げることにした。
「ロキと申します。」
「ロキ君。君はこの街にはよく来るのかね?」
「この街で育ちましたので。」
そんなことはどうでも良いので、さっさと解放してほしいです。もちろん、おくびにも出しません。
「…この街の領主と神殿に一泡吹かせてやりたいとは思わんかね?」
「愚昧の身ゆえ、仰る意味を量りかねます。」
なんか物騒なこと言い出したよ、この人。
聞かなかった振りをしようと思ってしまったのは、自分だけじゃないはずだ。店の親仁も目を瞠っているのが視界の端に映っている。
「単刀直入に言わせてもらうが、我が娘の友となって欲しいのだよ。まあ、立場的には従者という立ち位置になるだろうが。」
初対面でいきなり何言っちゃってんの、この人。
偉い人が何を考えているのか解らなさ過ぎて、俺、泣きそう。誰か助けて。
「お父様。ロキさんは恐らく貴族間の事情をご存じありません。きちんと説明して差し上げないと、これではただの苛めですわ。」
平民の無言のお願いを汲んでくれる貴族もいるらしい。ありがとうございます、お嬢様。今度、ちゃんと名前覚えます。
「確かにそうだな。私としたことが、気が急いていたようだ。済まなかったな、ロキ君。…さて、どこから話そうか。」
「話さなくて良いです。さようなら。」とは言えなかった。