3話【掴んだもの、落としたもの】
ーーーーーーーーーーーーきもちわるい
走馬を苦しめたのは痛みよりも、車酔いに似た吐き気だった。
吐きたいのに吐けない。水分を欲する喉を必死に分泌させた唾液でこらえ、胃の奥からこみ上げる、濁った酸味をごまかす。それでも殴られるたびにぐらぐらりんと揺れる頭は、もうとっくに思考を放棄していた。
ぼやける視界を、血飛沫がスローモーションで通り過ぎる。
それが自身から出された物であることは認知しているが、その傷口の場所が特定できないほど、走馬の体は汚れていた。
不覚にも、踊る血の玉を美しいと思ってしまった自分の目は、殴られすぎておかしくなってしまったのだろうか。艶やかなそれを目で追うと、見覚えのある輩に両腕を抑えられている少年にピントがあった。
(祐・・・・・)
自分をこの場に呼び出した張本人、ーーー祐。こうなることを、教室にやって来た祐の様子を見た時から走馬はなんとなく分かっていた。
ここのところ自分を目の敵にしている不良たちは、多分昨日駐輪場での出来事を目撃していた。走馬が学校の誰かと話す、なんて光景は確かに物珍しかったことだろう。自分でも重々承知している。だからこそ祐は目をつけられたーーー、大方「ペンダントを返して欲しけりゃ、あいつを連れてこい」などと言う脅し文句と共に。
「かは、っ…」
「随分情けねーもんだなぁ、毎回毎回余裕こいて逃げてばっかいやがったくせに、いざ捕まったらこのザマだ!!! 知恵だったら誰にも負けねぇ、だっけか?それがよぉーーーやくできたダチにコロッと裏切られてんの。恥ずかしー話だよッ、なぁ!!!」
どっ、と腹に落ちる重量。鈍い音には似つかぬ激痛に、走馬は悲鳴を上げて悶えた。
確かに、彼らの言う通りなのかもしれないと思う。
変哲ない日常につまらないと文句を垂れながらも、それを打開しようと動いたことが、己に一度でもあっただろうか。傍観、傍観、傍観ーーー。来る者拒まず、去る者追わずと言ってしまえば聞こえはいいが、それは誰かと関わることが怖くてしかたなかった臆病な自分を誤魔化すための標語に過ぎない。己の頭脳にしがみつき他者を嘲笑し、本当は誰かが剣を取るのを、この退屈な世界にヒビを入れて自分を未知へ連れ出してくれる誰かを、ーーー待っていたのだ、ずっと。
乙女チックにもほどがある、まるでラノベのヒロインだと走馬は自嘲した。そんなヒロインにとって勇者のような、その“誰か”。自分を連れ出してくれるかもしれなかった、そう僅かに期待していた祐という存在が引き起こしたこのザマに、掠れた笑いしか出てこない。
もっとも、走馬はこれを、裏切りとは捉えていなかった。その言葉を盾にできるほどの関係でもなかった。祐が憎い、なんて感情湧くはずもない。むしろ巻き込んでしまったことに対して、謝意の念すら覚える。
単に、口先が無駄に達者で他人に望んでばかりの己への罰が、集団リンチという形で下されているーーーー、それが走馬の見方だった。
乱暴に前髪を掴まれ見上げると、恍惚に歪む男達の顔が並んでいる。その表情があまりにも素直で、自分をいたぶれてそんなに嬉しいのかと、走馬は思わず口角を上げた。
「何笑ってんだよ、いよいよ頭狂ったか?」
「や、良かったですね。そこまでして殴りたかったんだー、と思って」
言い終わると同時に、再び体に鉛が打ち付けられた。
(俺はーーーーーー、)
目を、瞑りたい。何もかも見なかったことに、無かったことにしてしまいたい。
俺のせいで走馬が傷ついていること。俺が走馬を裏切ったこと。あの日、走馬と出会ったことーーーーーー。
一言で言うと、惨い姿だった。真っ赤に腫れ上がった皮膚からは血が滲み、乱暴に引かれた髪はつけ根がギチギチと音を立てているように錯覚してしまうほど。この距離からでも判別可能な無数の靴跡は、彼が受けた蹴りの数をそのまま表している。
そしてなによりは
(惨すぎる・・・。なんで俺は、ただ黙ってそれを見てられんだ・・・!?)
祐は震えていた。痛ましい走馬の姿に胸が締め付けられ、悲しみに震えた。そんな仕打ちを笑いながら敢行し、己に友達を売るような真似をさせた男達を見て、怒りに震えた。助けたい、本当に助けたい、なのに体が動かない、もどかしさに震えた。
祐は震えた。全てを投げ出して、己の罪を忘れてしまおうなんて発想ができたことに。初めて知った自分の浅ましさに戦慄し、震えたのだ。
(…ちがう、無かったことになんて)
困っている俺に声をかけてくれた、考えて、探して、見つけてくれた。
俺の話を聞いてくれた。
俺は何のためにこんなことしてるんだ? ペンダントのため? 姉ちゃんの写真が入った大切なペンダントを、返してもらうためか?
祐の記憶の中に、姉と過ごした日々は少ない。それでも、何もかも忘れてしまったわけじゃない。祐が悩んだ時、正しい道が分からなくなった時、ふと姉の言葉が蘇る。“姉”というナビのおかげで、自分は真っ当に生きてくることができた。
(ーーーじゃあ、今は?)
乾いた唇が震えた。頭がじん、と痛み、思わず額を抑える。抑えつけたそこから反響するように、懐かしい声が祐を包んでーーーーーーー
『祐』
「っ、は…、」
吐く息が冷たく感じるのは、自分への哀れみか、それとも。
『祐。傷つくのは怖いよね、悪い奴に立ち向かうのも。姉ちゃんも怖いなって思う』
(じゃあ、何で姉ちゃんは、あんなに、あんなにヒーローなんだよ)
『でもね、姉ちゃん思うんだよ。一回くらい、死ぬ気で誰かのこと守りたいなって。逆転勝ちできなくたって、自分が本気で守りたいと思ったたった一つのものに、命捧げてみたいなって』
(俺、は)
霧が晴れてゆく。声が、痛みが、幻影が消え、不良たちの罵声で祐は現実に引き戻された。
「本当恥ずかしくねーのかよお前!!! 負け惜しみしか言えねーのなぁ!!!!!」
(違う)
「悔しいかよッ、なぁ、お前の友達なんかじゃねぇぞこいつは。祐は俺たちに付いた。仲間になったんだよ。そりゃそーだ、お前に味方してぇ奴なんているわけねぇよな」
(違う)
汚れた靴が、走馬に降りかかる。もっとも走馬に避ける気はないようで、諦めたように視線を落とす。それを見た祐の中で、何かが弾ける音がした。
ーーーーーー馬鹿力、なんてものがあるなら、世界一馬鹿な選択をした俺に、あんな諦めたような顔をさせてしまった俺に、一瞬だけそれを貸して下さい。
立ち向かう勇気も、倒れない心も全部、自分の力を捧げます。でも、今だけ、
この抑えられた両腕を振り払える力を、貸して下さいーーーーーーーーー
数える間もなく硬い音が空に響く。
が、いくら待ってもその衝撃が体に落ちることはなく、走馬は怪訝そうに瞼を上げーーーー
「え」
その場の誰もが、驚愕に顔を歪めたことだろう。唯一、規格外の痛みに顔を歪めた、祐を覗いて。
「い゛っ・・・、てえ゛ぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!! なんっだこれ攻撃用の靴ですかってくらい痛い!!!!!!」
走馬が顔を上げると、そこには祐の背中があった。腹に思い切りの一発をくらい、その痛みに悶えながらも、両手を横に広げて正面から男達に向き合う、祐がいた。
「てめっ、クソが!!!! 退けろや!!!」
頬にもう一発、頭を鷲掴まれ二発。それでも祐は倒れない。
「……こんなのくらい続けて笑えるとか、走馬、お前馬鹿だよ」
「祐、」
「許してもらえるとか、これでチャラにしてもらおうとか思ってねーよ。今俺がやってることも結局は自己満で、守るとか立派な言葉使って自分の罪悪感消したいだけだ。分かってる。分かってるけど!!!!
ーーーそれでも、これ以上お前が殴られてるとこ見たくねーんだ、ごめん。ずるくてごめん」
走馬の目が一瞬、祐の肩が震えるのを映した。それに走馬が反応するより僅かに早く、不良の一人が片手を挙げる。
「それはこれがどうなってもいいってことでいいんだよなぁ!!!!」
「ッぁ」
男が腰ポケットから乱雑に取り出したそれーーー祐のペンダントを掲げたと思うと、大空へと盛大に放った。
夕日を浴びて煌めきながら宙を舞う姿は、今では枯れ葉のように儚く見える。もっとも男達にとっては、ペンダント一つどうなろうと知ったことではないし、祐がそれにどの程度思い入れがあるのかなんて、至極どうでもよかった。だからこそ驚いた、誰だって驚いたろう、ペンダントと追うように、祐までもが赤い空へと飛び込んだのだから。
祐の目は今、ペンダント以外の何も映してはいない。これが自分の全財産だとでも言いたげに、手が煌めくそれを掴み取る。日暮れの風にさらされたチェーンから、掌に伝わる金属の温度ーー。
その瞬間、気づいた。自分の体が宙に放り出されていることに。
「ーーーーーーーッ」
「馬鹿、っ」
血の気が引いた祐の手を目指して、走馬は今体に残る力の全てを振り絞って腕を伸ばした。
ズザッ、と服が擦れる音に、歯を食いしばりコンクリートに爪を立てた。
今走馬の腕は、人生で一番と言えるほど伸び切っている。筋肉が燃えるような熱を発し、もう無理だと悲鳴を挙げる。それもそのはず、右手は祐の手を、左手は屋上の床を握りしめ、体を半分投げ出した状態ーーーー祐に至っては宙ぶらりんなのだから、とてつもない重量が走馬の腕を襲う。
「ッは、祐…足、壁に足かけて」
「んぐ、まっ、待って、死ぬ、しぬ、しぬしぬしぬしぬ」
「下見ないで、焦るな。離さないから」
とは言っても、このままではいずれ限界が来る。誰かを呼ぼうにも、ここは元々立ち入り禁止の屋上だ。それを不良たちがこっそりと使っているわけだしーーーそうだ不良、いや、ここで助けを求めてあいつらが素直に応じるか?現にあいつらは立ちすくんでいるだけだいや逆に考えろ何もしてこないということは自分たちがどうすべきか迷っているということなんじゃないかつまり説得の仕様によっては救出に協力してくれる可能性があるならどうやって説得する考えろ考えろどうすればいいどうすべきか最善策は考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ
「俺たちが助けてくれるかも、とか思った?」
鼻で笑うようなその声は、一際ガタイのいい男。おそらくリーダー的存在なのだろう。他の奴らがゴクリと唾を飲む気配を感じる。
「ちょっと思いました、けどその様子じゃ僕が甘かったみたいだ」
「はっ、理解が早くて結構。確かに祐のモンを投げたのはこっちだが、元々そういう取引だったからなァ。そんで二人して飛んでったのもそっちの勝手。俺らはなーーーんも手出ししてねぇ。せいぜいお前らがどんな末路辿んのか、見届けるくれーはしてやるが」
「いえ気が散るので結構ですよ。お暇でしょうし、帰って下さい」
「ーーーーお前、面白ぇ奴だよな。そうやって調子こいてなけりゃ、仲間にしてやっても良かったんだがよ!!!!」
勢いよく尻を蹴られ、走馬は思わず顎を突き出す。と同時に察した。
(これは、死ぬな・・・・・・)
「走馬っ、て、手ぇ離していーよ、二人して死ぬとか、俺、や…」
声が涙で震えている。あぁ、さすがの祐も察したかーーーー。この状況は、言葉通り絶体絶命。お母さんお父さん、地域のみなさん、クラスのみなさん、先生方、後半にいくにつれて何を感謝すべきかわかりませんが、とりあえずありがとうございました。痛いのは嫌ですがきっとすぐ楽になれることでしょう。未練はありません。なんならどんな世界が待っているのか、楽しみで仕方ありません。未練は、
なら、どうせ最期なら、走馬は男達に顔を向けて言った。
「ならせめて祐だけでも助けてやって下さいよ。お仲間なんでしょう?ーーーあぁ、そういやついさっきコロッと裏切られてましたっけ。恥ずかしい話ですね」
男が頭に血管を浮かばせ、走馬を思い切り蹴り飛ばした。二つの体が宙に舞いーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー急降下。
(ごめん)
その言葉は声にはならず、ただ走馬の喉を冷やすだけに終わった。
ぐちゃり、
程度のグロテスクな音を想像していたのだが、不思議なことに、ドサリとも鳴らない。が、体が地面に着いている感覚は確かにある。
地面に打ち付けられる前に気を失ってしまったからか。
柔らかな光に耐えかねて恐る恐る目を開けると、
「あっ!! 起きた起きた!! お兄さんたちが起きたよ!!」
「ララ、あんまり大きな声を出すと、びっくりさせてしまうよ」
「そっか!! ごめんなさいお兄さんたち。教えてくれてありがとうロロ!! ロロはいつもしっかり者ですごいね!!」
「ありがとうララ。でもロロはそうやって素直に謝罪やお礼を口にできるララも、すごいと思うよ」
「そうかなぁ!! ルルはどう思う?」
「ルルは、ララもロロもどちらもすごいと思うわ」
「ありがとうルル。ルルにだってすごいところがたくさんあるよ。いつも笑顔で優しいところ、みんなをまとめてくれるところ…」
「ララもいっぱい言えるよ!!」
「ありがとう、ララ、ロロ。ルルもみんなのすごいところ、たくさんお話できるわよ」
走馬を覗き込んでいたのは、三人の小さな子どもだった。
にこにことお喋りを続ける三人は、その顔だけを見れば、年五つ程度の可愛らしい人間に見えただろう。
しかし、彼らの頭上にプカプカと浮かぶのは光り輝く金色の輪。絶対にカレーうどん食べれない系の真っ白な衣服に包まれたその背中には、これまた真っ白な“翼”が生えている。
その姿に合致する存在を一つ、走馬は知っていた。そもそも存在するのかどうかも分からない、人間界ではまずお目にかかれないであろうそれーーーーー
「天、使……?」
ふと、走馬の尻の下から聞こえる呻き声ーーーー祐だ。今の今まで座布団のように踏んづけてしまっていたらしい。祐は能天気にもあくびを二、三発炸裂させてから
「ぅえ…? どこ、ここ……」
「ここはね、天国だよ!!」
「でも、ここは人間が来るべき所ではないんだ」
「だからルルたち、とっても困っているの」
「へっ…………て、んし………………………
ってはあああああああああああああああああああああああああああああああ!?!?!?!!?!????!???!!?!!?」
美しき世界に祐のガラガラ声が響き渡り、走馬は不愉快に耳を塞いだ。