2話【雨上がりには善行を】
(あと二分四十、いや、三十五秒ーーー)
「オイ逃げんなやゴラァ!!!!」
男の怒号が廊下に響く。血管の千切れそうなほど額に筋を立て、一匹の獲物を必死に追う低脳の群れ。
前方と後方、両方のドアを塞いでおこうとか、万一逃げられてもいいように待ち伏せしてようとか、流石は低脳なだけあって思いつかないらしい。
ガツガツとフローリングを蹴る音が後ろに聞こえ、走馬はやれやれと溜息を零す。
こういった生き方をしていると敵も多いが、大体のトラブルは知恵さえあればどうにかなってきた。今こうして追いかけられているのだって、根本はかくれんぼと一緒。生き抜く上で大切なのは体力などではない。もし今頂点に君臨する者が力で大衆をねじ伏せているのなら、それを超越する知力を養えば良いだけの話であるーー。
走馬は不意に足を止めると、くるりと不良達に向き直って、
「そんなに焦らなくとも、僕はここにいますよー」
首をコテンと傾げてみせる。連中はそれを鼻で笑った。
「はっ、バテたのかよ」
「僕はあなた方のように無駄に体力を持ち合わせていないのでねぇ…」
「ーーてめぇ、殴られてぇか」
頭がぐわりと揺れるのを感じた。胸ぐらを掴まれている。それでも尚、走馬の態度は変わらない。
「それで皆さんの気が済むのならどうぞどうぞーー・・・もっとも、この状況で殴れるのなら」
「は?」
ふと、向かいの廊下を誰かが通る。反射的に目をやると、その瞳が思わず揺れてーーー
「松原だ…」
学校なんて所詮動物園。余程の猛獣でない限り、誰もが飼育員に管理されるがままだ。ここでいう管理者の名は“教師”ーー。
無論、その支配を喰いちぎり牙をむけるほどの強者がいれば、自分は退屈などせずに済むわけだが。
「呼びやがったのかよ!?」
「おやおや。あれは生徒に厳しくお説教が長いことで有名、数学の松原先生。偶然にもこちらへ向かって来るようですけど…どーします?」
「どーします?じゃねぇよ!!! クッソ、面倒臭ぇ…。先生に頼らねーと、怖くて何にも出来ませんってか!?」
「ーーさっきも言ったでしょう。僕はあなた方と違って体力もないし喧嘩も強くない。代わりに、知恵では誰にも負けない自信があります」
そこにあるのは暴力に対する恐怖ではない。走馬の行動源は、つまらない日常の中から自由さえも奪われてしまうことへの、圧倒的な嫌悪にあった。
ハプニングだらけの一日と、なんのハプニングも起きない一週間、疲れるのは絶対的に後者だ。そんな中の休息のひと時をこんな奴らに支配されるなど、自身のプライドが許さない。
とはいえ、
「はぁ…、随分あっけなく逃げてったなー。面白くない」
こんな生徒同士のいざこざを、教師の介入によって解決させようなど小学生じゃああるまいに、走馬がわざわざ教師に告げ口をし、僕が絡まれてるところを助けて下さい、などと間抜けを抜かすわけがない。
(午後の時間割を見ると、数学の松原がここを通るのは必須ーー。五校時開始から逆算して考えれば、何時に何処を通るかなんて誰でも分かること。僕を別の場所へ連れ込むなり、やりようは幾らでもあった…)
にも関わらず、不良達は一つ舌打ちをしただけで、床を蹴るようにして逃げ帰ってしまった。決して殴られたいわけではないが、どうせならキレてくれた方が滑稽でよかったのにと思う。
あんな低脳の集まりにすら、自身の退屈を壊してくれることを期待してしまっている事実に、胸に残るのはやるせなさのみ。
そんな己の姿に空も呆れたのか、昨晩からの雨はもうすっかり止んでいた。
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時は走馬の周りをゆっくりと流れ、ようやく檻からの解放を許した。薄っすらと朱に染まる夕空の下、さっさと校門を抜け出すーー、というのが彼のパターンなのだが、今日は少しばかり違った。
「ない……、ない、ない、ないないないないここにもないぃぃぃいい!!!!!!!!!」
校庭に一人、地面とにらめっこしている少年。格好を見るあたり、この学校の生徒で間違いないだろう。
ややつり上がった目の奥はつぶらで、決してハンサムとはいえないが愛嬌がある。ツンと立った黒髪は、くせっ毛なのか鋭い印象を受けるが、よく見るときちんと切り揃えられているあたり、柄の悪い奴ではなさそうだ。
最初は呪文か何か唱えているのかと思ったが、近寄るとどうにか言葉を認識することができた。どうやら何かを探しているらしくーーーよほど大事な物だったのだろう、顔は青く額には汗の粒、目の奥にうずまきが見えてきそうなほど、彼の表情は焦りそのものであった。
「落し物かい?」
「うおぉっ!!??」
走馬が背後から顔を覗き込むと、少年は面白いほどに身を仰け反らせ
「びっっ……くりしたーーーーーー!!!」
「ぷっ、ーーっと、ごめんね急に。手伝えることとかないかなって」
「んあー、有難いんだけど、どこで落としたのかが全然分かんなくてよー」
そう言うなり、彼はにらめっこ第二ラウンドを始めようと向き直る。要するに他人の手は借りないということか。しかしどこに落としたか分からないとなると、時間が幾らあっても足りない気がするが……。
と、いうか、せっかく暇つぶしになりそうな事柄に遭遇することができたのだ。乗ってやらない手はないではないか。そう決意し再び彼を見る。
(あれ、もしかしてーーー)
ほんの少し首をかしげると、走馬は躊躇なく少年の肩を揉んだ。
「うひゃあっっ!?!?!? んな、何すーーーっ」
「あまり気持ちの悪い声を出さないでほしいんだけど……はいお疲れ」
走馬がパッと手を離すと、バランスを崩した黒髪あたまがつんのめる。
「あだっ…、何だよー」
「やっぱり、肩は少しも濡れてない」
「へ?」
わけがわからないとでも言いたげに口をポカンと開ける目の前の男に、走馬はため息をついた。
「だからーー、…まず、名前聞いてもいいかな?色々面倒だから。僕は走馬」
「俺は祐。ってか、さっきの何だよ。肩がどうとか…」
「雨の日って、傘をさしているのにど〜〜しても濡れちゃうだろう、肩とかさ」
「あー分かる、アレめっちゃ気持ちわりーよな」
「そうそう、僕も今朝散々な目にあった…ってのはまぁ置いといて、君の肩は今、少しも濡れてない状態だ。まぁ朝に濡れたのなら乾いていてもおかしくない。けど君が掛けてるそのバッグ、表だけ不自然に濡れている。ーー祐、もしかして傘盗まれた?」
「ぅおう、傘入れんとこ、入れたはずなのに無くて、まー安いビ二傘だし良いけど」
「これでつじつまが合う。祐は帰ろうとするも傘が無くなっていたため、適当な所で雨宿りをした。その際、屋根の横幅は充分にあり肩は濡れなかったものの、膨らみのあるバッグには少しの雨が当たってしまった。でも雨は昼休みが終わる頃にはとっくに止んでいたはずーーーー。つまり…祐、昼休みに早退したんでしょ」
走馬の目がにやりと笑う。
「んで、家に帰ってから気づいて慌てて戻ってきたわけだ。その様子を見る限り、早退も仮病か、無断でかな?」
「すっ……」
祐は数秒固まったまま何も言わなかったが、ようやく息を吸い込んだかと思うとーー
「すっ…っっっっっっつつげええぇぇぇぇぇえええ!!!!!!!!!!!!!!!!」
「は?」
「すげーなお前天才か!?!?名探偵って感じだったぞ!! 何でそんなん分かるんだ!?!?やべーな!!!」
走馬から言わせてもらうと、お前の方が大分やべーなであるが、ここは一旦硬いものを飲み込む気持ちで。
「いや、普通だよ…。だから僕が言いたいのは、その雨宿りした場所もちゃんと探したのかっていうーー」
「探してねぇ!! そっか駐輪場ーー、俺探しに行ってくる。ありがとなー走馬!!」
百面相のようにコロコロ表情が変わる奴だな、と走馬は思った。見ているだけで飽きない人間に出会ったのは、いつぶりだろう。
「ーーってちょっと待って、僕も手伝うよ。ちょうど暇してたところだし」
「…おっ、お〜ま〜え〜〜〜!!!! どこまでいい奴なんだ!! 頭も良けりゃ親切でイケメンで!!!! 完っ璧じゃねーか!!」
「い゛っ、イケメン…、僕が…はは、は……」
人に容姿を褒められたのは初めてかもしれない。可愛い子なんかに褒められた日にゃ、嬉しくって何処へでも飛んで行けちゃいそうだ…。などとおそらく一生来ないであろうその日に胸を膨らましたこともあったが、実際、今の走馬を支配しているのは寒気であった。
それは相手がかわいこちゃんではなく、アホそうな男だからか、ましてやその男に、感動を含んだ尊敬の眼差しで、両肩をがしりと掴まれているからかーーー。
まぁ己がイケメンとだいうのは特別否定しない。せっかく発言してくれた賞賛を否定しては、かえって失礼というものだ。でも。それでも、走馬がどうしても受けつけなかったのは、「いい奴」という単語の方だった。
「祐ってオレオレ詐欺とかひっかかっちゃうタイプ?」
「いやオレオレ詐欺にあったことないから知らねーけど!! 俺は野生の勘が利くタイプだからな、簡単に引っかかったりはしな「ならその野生の勘でさっさと探し物見つけたらどうなの」
「今俺喋ってる途中!!!」
「で、探し物って?」
駐輪場に着いたはいいものの、何を落としたのか知っていなければ探しようがない。祐は度重なる無視に不服そうにしながらも、しぶしぶと尖らせた口を開いた。
「ペンダントだよ、中に写真挟むやつ」
「ロケットタイプか…」
そう言いながら凸凹の砂利をかき分けていく。すると数分で、その中の凸がキラリと光るのを見つけた。
「ーーこれは違う?」
チャリ、と音を立てながら、金色の紐を掴んで差し出す。
祐の瞳がゆっくりとそれを映しーー、くわり、と引ん剝いた。
「どぅわっ、そ、走馬、それっ、ぅ、」
「あは、そんなに?」
そんなに動揺しなくても、という意味で言った。祐は震える両手で、赤ん坊に触れるかのような手つきでペンダントを首に掛けると、ふっ……、と息をこぼした。
「りが…」
「ん?」
「あ゛り゛か゛と゛お゛ぉ゛ぉぉ゛お゛お゛っっ゛っっ゛っ゛!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
瞬間ーーー、走馬の身体に衝撃がのしかかる。
「い゛っ・・・、祐っっ重い重いっ!!!!! 抱きつかないで!!! 内臓破裂したらっ、どうしてくれんの、さっ!!!!!」
「グロいこと言うな〜お前!! まー万が一そんなことになったら、提供してやれる分は俺がーー」
「いや気持ち悪いから」
力任せに身体から祐を引っぺがしたはいいが、同時にペンダントカパッと音を立てる。拍子に開いてしまったようだ。
「うお」
「ーーっと、ごめん」
「んあ?いやーこっちが急に飛びかかったのが悪いし、走馬は何も謝ることないっしょ」
「いや、そのこともだけどーー、中身見ちゃって」
走馬が見たのは、少女だった。白い歯を見せて、ピースを前に突き出してクシャリと笑う、美しい少女の写真。
「あーいいよいいよ、綺麗っしょ?」
祐は歯を見せてにひひ、と笑う。走馬は、どう返すのが正解か考えてから、結局、一つ頷くことしかできなかった。それを見て、そーかそーかと嬉しそうに、祐は写真の少女を撫でた。
「これ俺の姉ちゃんな。今はもう生きてないけど」
「…ご病気?」
「事故だって聞いてる。俺も小さい時だったから、あんまり姉ちゃんの記憶はないけど」
同時にパチン、とペンダントを閉じる音。それがまるで、“この話はもうお終い”、と言われているかのようで、走馬はそれにしても、と話題を変えた。
「雨宿りしてまでサボりを敢行するとか、よっぽど授業を受ける気が無かったんだね。僕だったら傘が無い時点で断念してる」
「…特別理由はねーんだけどな、なんかわかんないけど、つまんなくなっちまって」
「ーーーつまらない?」
「おう、まぁこれも立派な言い訳か」
はは、と笑う祐の声は、走馬に聞こえていただろうか。
(同じだ)
(彼はーー、僕と同じことを言っている)
全身の血液が熱くなり、息が止まる思いだった。
見透かされたような恥ずかしさ。自分を見ているかのような緊張。そして、
自分と同じことを感じている奴がいる、それは運命を感じるに等しい衝撃だったーーーーー。
翌日、ハートマークだらけのザ・乙女な小説で暇をつぶしていたところ、ドアの向こうから声をかけられた。
祐だ。
「放課、後、屋上、来てくんねーかな…、ひとり、で」
その声は震えていて、言葉は不自然に詰まっていた。
潤んだ瞳は絶対にこちらを見ようとしない。顔は心なしか青く見える。
そして、
その首には、ペンダントが掛けられていなかった。




